小説『ワンダリングノート・ファンタジー』(8)暗闇の中で
Chapter 8
「あなたは⋯⋯誰です⋯⋯お巡りさん!?」
恐怖で声も上手く出せないトムは、肩にかかった警官の手を振り払った。バランスを崩した警官の手から、細いストローの束が離れ、ベンチの下にある水たまりへと落ちていった。
「おやぁ、大変だ⋯⋯君の大事なストローが落っこちてしまったぞ。これじゃあもう、使えないな」
「あなたは、⋯⋯さっきから何を言ってるんですかっ!?」
トムは震える声を絞り出し、語気を強めて言った。警官はしかめっ面をしながら何事かをブツブツと呟き、そしてトムに語りかけた。
「いいかい? トム君⋯⋯だったね。私は何も、君を怖がらせようとしているワケではないんだ。ただ、ちょっとしたお願いがあるだけで」
「⋯⋯お願い?」
急に、警官の口調が穏やかで優しいものに変わったため、トムはますます動揺したが、同時に身体の震えも次第に収まってきた。
「私は物語が好きでね、続きがどうしても気になってしまうんだ」
ふと見ると警官の右手には、どこからともなく現れた分厚い本がしっかりと握られていた。表紙には装飾的な文字が刻まれ、ページの端は摩耗していた。一見すると百科事典のような印象だが、トムにはなぜか、それが絵本であるという確信があった。
「⋯⋯その絵本は、何ですか?」
「表紙を見ただけで、これが『絵本』だとわかるなら、君は見抜いている。そしてきっと、この本と仲良くなれるだろう」
警官はその本の中ほどを両手でゆっくりと開き、持ち替えると、慎重にトムの顔の前へと近づけた。
「私は続きが知りたい。君には見えるはずだ⋯⋯何が描かれているかなぁ?」
「FO⋯⋯LL⋯⋯うう、これはアルファベットか⋯⋯!?」
この異常な事態にもかかわらず、トムの英語嫌いが恐怖心に打ち勝ち、嫌悪感が彼を支配した。それでも、操られるかのように彼の手はゆっくりと本へと伸びていった。
「そうだ。絵本に触れれば、もっと仲良くなれるはずだ⋯⋯」
トムの手がゆっくりと本に近づくと、警官は声を低くして囁いた。
「君の手で⋯⋯この物語に新しい命を吹き込むんだぁ⋯⋯」
にこやかに笑う警官の口元から、黒い影がゆらりと浮かび上がり、不気味に形を成していった。はじめはただの黒い煙のようだったが、それは次第に人のような姿へと変貌し、トムに襲いかかろうとしていた。
<<トム!! それに触れちゃダメ!!>>
聞き覚えのある声が耳に飛び込み、トムは驚きとともに我に帰った。瞬間、足元の水溜りから強烈な閃光が走った。
「グアアッ!? この光は⋯⋯!!」
トムに迫り来る黒い影を貫いた黄金の輝きは、真夜中の闇を一瞬にして昼間のような明るさに変えた。光に射抜かれた警官はベンチに倒れ込み、やがてその身を震わせながら正気を取り戻した。
「う⋯⋯う〜ん⋯⋯私は、何をして⋯⋯そうだ、不審者の見回りだ」
警官はそう呟くと、何事もなかったかのように立ち上がり、辺りを見回した。
「何だったんだ、今の光は⋯⋯そしてあの声は⋯⋯」
呆然と立ち尽くすトムを見て、警官は優しい口調で声をかけた。
「おい、君。今日はもう遅いから家に帰るんだ。あと、もうこんな遅い時間に、公園に来ないようにな」
警官の背後に漂っていた黒い影は、湯気のように蒸発して消えていった。混乱するトムの頭には、先ほどの光景が夢か幻であってほしいという願いが浮かんだが、それは紛れもなく「現実」の出来事であるいう恐怖が、じわじわと彼の精神を蝕んでいた。
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