ヤマダヒフミ

小説  ブログ https://yamadahifumi.exblog.jp/ なろう…

最近の記事

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空港

 私は空港職員をしている。年齢は56才だ。  私が空港職員を志すきっかけになったのは、二十代の頃、当時付き合っていた彼と一緒に行った海外旅行だった。もっとも、私の旅行は、旅立ちの空港でほとんど終わっていたと言った方がいいだろう。  私達は空港に行った。私は空港で、夕日を見た。大きな通路を歩いている時、滑走路の向こうで輝く夕日を見た。つまらない事に思われるかもしれないが、私はその風景にひどく感動した。彼は、じっと夕日を見つめている私に「何してるんだ、急がないと」と言った。私

    • 死んだミューズ

       福田恆存の「批評の悲運」というエッセイにこんな文章がある。    「もし近代日本の作家たちのうちに美を探ろうとするなら、それはミューズへの情熱そのものの美しさ以外にありはしない。」    福田はこの文章に続けて、近代日本の作家の作品それ自体は美ではなかったが、少なくとも美への渇仰はあった、と説明している。    私は福田の文章を読んで、嘆息せざるを得ない。2024年の日本という国で「ミューズ」なんて言葉を言えば、誰でも失笑するだろう。まあせいぜい石鹸の商品名として思い当たる

      • 何故、政治は「神」なのか

         現代社会において真面目なもの、真剣なものとは何かと言えば、「政治」しかない。政治だけが人々が真剣になる唯一のもので、その他のものは趣味であり、お遊びであり、装飾でしかない。     私は文学というものを中心に考えているが、文学などというのはもう誰も興味を持っていない。最近の芥川賞関連なんかを見ると、「文学の専門家」が文学に大して興味を持っていない図がよく現れていると思う。    文学とかアートとか、口先で言う人間が存在する。そうした人達はそれを趣味的なものとして取り扱ってい

        • 福田恆存に学ぶ

           最近、福田恆存を読んでいますが、面白くて、色々と勉強になっています。    福田の感想については後に置いておくとして、まず自分が思ったのは(これを今の自称保守が読むのは無理だな)という事です。福田恆存と言えば「保守主義者」のレッテルが貼られていますが、その関連で読んでも、さっぱりわからないだろうと思います。    私からすれば、福田恆存は「保守主義者」である以上に、「近代文学者」です。日本近代文学の文学者の一人であって、それ故に日本と西欧の板挟みになるという、漱石・鴎外以来

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          「弱者男性」とタル・ベーラ

           最近、「弱者男性」という言葉が流行っているそうです。どうも経済的に貧しい男性や人間関係が充実していない男性を指すようです。    それで、これに関してトイアンナという人が記事を書いていました。本も出しているそうです。まあ、流行りのワードに乗っかって本を出すライターなので、何も期待する事はありません。    こういう話に関しては何も思わないというか、(うんざり)です。(お前らなあ、世界では八億人も飢えてんだぞ)と小言の一つでも言いたくなります。    興味本位で「弱者男性」の

          「弱者男性」とタル・ベーラ

          分別ある大人になりたくない ーー好き・嫌いを越えてーー

           うろ覚えで申し訳ないが、ニーチェの書いたものに「男の成熟とは子供の頃の情熱を取り戻す事だ」と書いてあった。私は、(ニーチェもいい事言うなあ)と思った。    さて、最近、散々言われてきて、今や「常識」にすらなっている一つの事実がある。それはどんな事でも「好き嫌い」で片付けよう、という考え方だ。    ネットニュースを見ていたら、タレントの岡田准一が丁度、そういう事を言っていた。    ※※※  岡田は「教養とは知識をつなぎ合わせ、よりよい行動に結びつけていくチカラ」とコメン

          分別ある大人になりたくない ーー好き・嫌いを越えてーー

          「ハムレット」と「こころ」 ー近代文学の始まりにおける"宿命"ー

           福田恆存に「人間、この劇的なるもの」という評論がある。これは福田の文章の中で最も優れているものではないかと思うのだが、その中で福田は、近代文学というものはその始まりに位置する、シェイクスピア「ハムレット」、セルバンテス「ドン・キホーテ」の二作で、既にその可能性は徹底的に探索されつくされていた、と言っている。    何故「ハムレット」と「ドン・キホーテ」なのか。それは特に、作品内部に批評性が盛り込まれて、しかも作品全体が見事な統一を保った物語性があるから、という事になるだろう

          「ハムレット」と「こころ」 ー近代文学の始まりにおける"宿命"ー

          書評 「生成と消滅の精神史」 下西風澄・著

           下西風澄の「生成と消滅の精神史」を読みました。書評を書いていこうと思います。    まずこの本はどういう本でしょうか。「精神史」とあるように、人間の精神の歴史を取り扱った本です。この場合の精神とは、心・内面・意識といったものです。ただ主に取り扱うのは哲学なので、哲学的に取り扱われる意識というのが、この本における「精神」に最も近いかと思います。    もっとも、著作中では「精神」という言葉よりも「心」という言葉が使われているので、以下では、「心・意識・自我」といった言葉を使っ

          書評 「生成と消滅の精神史」 下西風澄・著

          賢くない人に賢さを売りつける商売 (千葉雅也「センスの哲学」のレビューを読んで)

           年間読書人さんの千葉雅也「センスの哲学」のレビューを読みました。だろうな、というか、千葉雅也ってそういう感じなんだろうな、と思いました。    私自身は千葉雅也や東浩紀といった人にそもそも興味を持てませんでした。(多分、偽物だろうな)という事でスルーしていました。世界には他に読むべき本がたくさんあるので、現代の偽物と付き合って時間を浪費する事もない、というスタンスでした。    最近、意外だったのは、マルクス・ガブリエルという日本のメディアが持ち上げているドイツの哲学者が、

          賢くない人に賢さを売りつける商売 (千葉雅也「センスの哲学」のレビューを読んで)

          パスカル「パンセ」の一文から考える芸術の本質

           パスカル「パンセ」はおそらくは著者の意向と異なって、様々な方向に、彼が見つけた真実の光を放っている。    パンセ482の文章は、私には芸術の本質を見事に語った短文のように見える。しかしパスカルは実際はここでは芸術について言及しているわけではまったくない。    ただ、私がそう読み取った、というだけの事だが、パスカルの異常な知性の洞察は様々な方向に光を放っている為に、私がそのうちの一つの光を感受し、延長して考える事も許されるのではないか、と私は思う。    「神は天地をつく

          パスカル「パンセ」の一文から考える芸術の本質

          教養(歴史・世界)が学べる本を紹介してみる ①ヘーゲル「歴史哲学講義」(岩波文庫)

           前に、「一冊で教養が学べる本」といったものを批判した。今回はその反対に、教養が学べる本を紹介してみよう。    もっとも、教養を身につけるというのはゲームの装備品のように身に着けられるものではない。それはどっちかと言うと登山に近い。しかも、山の頂点に登って終わりではなく、尾根から尾根へ渡っていく終わりない登山だ。ここで紹介する本はその入りにはいいだろう、というような意味だ。    一番目の本は、ドイツの哲学者ヘーゲルの「歴史哲学講義」だ。私は友人二人にこの本を勧めたが、二人

          教養(歴史・世界)が学べる本を紹介してみる ①ヘーゲル「歴史哲学講義」(岩波文庫)

          朝三暮四氏のなろう批判について

           自分は「小説家になろう」というサイトを利用しているのだが、最近はどうもこのサイトは人気がなくなってきたな、と思う。使っている肌感覚の話だが。  それで興味本位で「なろう批判」でウェブ検索してみたら、朝三暮四という方のなろう批判をしている記事が目についた。これを読んでみると、非常に真っ当な「小説家になろう批判」になっていた。正直に言って、自分はネットでここまでまともな批判がお目にかかれるとは思っていなかった。  言っている事は全部もっともだが、例えば 「⑩大衆読者に対し

          朝三暮四氏のなろう批判について

          パスカルの信仰について

           パスカルの「パンセ」を読み返しているが、「パンセ」は、おそらくはパスカルの意図に反して、様々な知性・思考の宝庫となっている。パスカル本人は最後にはキリスト教に服し、そこにたどり着くまでの道程を全て焼却したかったのかもしれないが、彼が流星のように宗教にたどり着き、冥府に至るまで、彼がばらまいた知性や思考は、科学・数学・哲学といった様々な功績となって残された。    現世に生きる凡人である我々は時に、パスカルのような天才が死ぬまで数学に従事していてくれたら、とか、死ぬまで哲学を

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          思考は自由でなければならない

           私は普段、実生活をしている。端的に言うと、労働をしている。    人は学生生活を終えて社会に出ると、自分が世界という名の大きな機械を動かすためのほんの小さな歯車に過ぎない事を知る。自分が極めて限定された小さな存在である事を思い知る。    普通の人間はその事にそれほど不満を抱かない。あるいは彼らも内心ではその事に不満を抱いているのかもしれない。自分という存在を中心に、全宇宙が転回しない事を心の中では嘆いているのかもしれない。    私は毎日のように夢を見る。眠りが浅い人間な

          思考は自由でなければならない

          「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365」を読んで教養は身につかない

          noteというサイトを漁っていたら「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365」という本の紹介がされていた。この本を読むと教養が身につくらしい。 もちろん、そんなくだらないものを読んで教養が身につくわけはない。そんな事は多少なりとも教養がある人間にはすぐに分かる事だ。だからこういう本を手に取る人は"全く"教養のない人なのだろう。 人と喋っていて、誤解しているなと思うのは、教養というのは知識という物質的な断片の集積だと思っている事だ。 知り合いと話していると「ヤマダ

          「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365」を読んで教養は身につかない

          社会的解決としての「愚かさ」

           テレビでは健康食品のコマーシャルがよく流れている。七十代でもまだ元気、八十代でもまだ元気。いつまでも元気でいられるような、体に良い健康食品がやたら宣伝されている。    先日、テレビを見ていたら老後にはいくらぐらい金が必要かというのを、専門家が教えていた。この専門家というのは金融のプロだそうだ。    あるいは、医者は、人間の身体を良くするようなアドバイスをくれたり、薬をくれたり、そういう施術をしたりしてくれる。    更に例を出すなら、最近では「終活」なんていうのも言われ

          社会的解決としての「愚かさ」