見出し画像

中国から「ダーティ・ハリー」は生まれない

私は中国は好きだが、中国のドラマやバラエティ番組などはあまり見ない。

コンテンツ自体、そこまで観ていないが、鑑賞するならアメリカを中心とした西洋の作品のほうが多い。

この前、久々に「ダーティ・ハリー2」を見た。

もう10回以上は見ているほど、好きな映画TOP3に入る映画だ。

クリント・イーストウッド作品が好きで、ほとんどすべての監督・出演作品を見ているが、「ダーティ・ハリー2」はその中でも最も好きな部類に入る。

アクション映画としても楽しめるが、イーストウッド作品に共通する最大の見所は、人間社会に対する疑問を投げかけ、生きる意味を問うてくることだ。(「許されざる者」では明らかに描かれているように、誰が悪者なのかがわからないこの複雑性が常にテーマになっていると思える)社会学者の宮台真司の言葉でいえば、法の内と外を扱っている。

大学生の頃みた、ダーティ・ハリー1では、「ミランダ警告(Miranda Admonition)」というような刑事司法手続を理解し、法の哲学に関心を持つきっかけとなった。

この警告は、一連の告知が被疑者に対してされていない状態での供述(自白)は、公判で証拠として用いることができないというもので、自白強要など避け真実に迫ろうとする社会の仕組みの一つである。

「ダーティ・ハリー2」の主題は、なんといっても、警官が悪人を処刑することの是非を問うことだ。

極悪人なら、その命を奪っていいのか?その問題が1974年に大体的に問われている。

もちろん、冤罪の可能性を排除できないという問題はあるものの、そもそも、極悪人を排除することで社会はよくなるのか?

こうした問題を突きつけている。

大ボスを倒せば社会がよくなるという安易な考えが蔓っては世の中はよくならない。悪人が出てくるのは、私達一人ひとりの日々の行動の土台がある。程度の問題はあれど、私達一人ひとりに責任がある。(という考えも、現時点では比較的受け入れられつつあるのではないか)

さて、タイトルにした点に戻る。

私は中国の生活や文化、雰囲気全般が好きだが、あまり中国コンテンツを見ない。

中国では、エンタメ的な単純に楽しむ作品は、優れたものが沢山あると思うが、人間の生や社会を真正面から扱うような作品があるとあまり思えない。(実際は違うかもしれないが)

なぜなら、ご存知の通り、中国の作品はどれも体制批判に繋がるものをテーマにできない。また、社会風紀を乱すようなことも扱えない。

そして、さらに周知の通り、われわれの生を充実させるのは、このようなグレーな領域になる。

もちろん、ノーベル文学賞を受賞した作家、莫言氏のような世界的には普遍性を持つと評価された作品もある。

しかし、やはり中国の現実を知るものとして、国境、言語、文化を超えた「普遍的」な課題をどれだけ扱えるのかについては先入観として、疑問があるのは間違いない。

実際には凄い作品もあるだろうから、より好みせず読んでいきたいとは思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?