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R.I.P.の前に

有名な人が亡くなるたびに、もやもやすることがある。


僕はつねづね、「推しは推せるうちに推せ」という姿勢を取っている。

自分が応援したい人がいるときに、その人のためになることを表立ってしていこう、そしてできる限り本人に応援の気持ちを伝えよう、という姿勢である。


人の命は短い。そして、アーティストやクリエイターの活動時期はそれよりも短い。だから、その活動をリアルタイムに応援できる時期は限られている。その少ない時期に、できる限りの応援をすることが大切だと思っている。

もちろん、心の中でそっと応援するのもいい。ささやかながらなるべくチケットやグッズを買ってもいい。

しかし、できるなら、その応援をおおげさなくらいにアピールした方がいいと思うのだ。

おおげさなくらいのアピールで、初めて自分以外の人に影響を与えることができる。自分以外の誰かが興味を持ってもらえる。そして、それがまわりまわって、推しをエンカレッジする。推しを励ます。


「推し活」にとって一番大事なのは、推しをエンカレッジする、推しを励ますことなのだと思っている。そこが、「ファン」や「好き」とは違うニュアンスだと思うのだ。

コンテンツやサービスに受け身になるのではなく、自らが伝導者となってコンテンツやサービスを広め、アーティストやクリエイター自身を励ましていく。


有名な人が亡くなると「R.I.P.」のタグをつけて哀悼の気持ちを表明することが多くなってきた。

もちろん、哀悼の気持ちを表明することは大切だと思う。多くの悲しむ人への共感を示すことにもなるだろう。

だが一方で、そのタグを亡くなった本人が目にすることはないという事実もある。そんなふうに残念がってくれるなら、もっと本人が生きているうちに、応援する気持ちを表明することはできなかったのだろうか。


だからといって、有名人全てに対して常日頃から応援する気持ちを表明するべきだと言っているのではない。

ただ、亡くなったときにはカジュアルにR.I.P.のタグをつけて気持ちを表明するのに、常日頃は応援したい誰かをカジュアルには応援していないようにも見えるのだ。

これは特定個人のことを言っているのではない。

人が亡くなると、こぞってR.I.P.タグを用い、多くの人が哀悼の意を表する空気はある。しかし、生きている人を応援する声は、それに比べると少ないのではないか。なんなら、批判の声に負けてしまうことさえあるのではないか。

そんな社会の空気が嫌なのだ。

人が亡くなるときは「応援していた」ことを多くの人が表明し、人が生きているときには「応援している」ことを表明する人が限られる。


同じSNSを用いるのなら、もっと本人に届くようなことができないか。SNSは、雲の上のような存在にも直接つながることができる、画期的な仕組みである。

動画を再生するのでもいい、イイネやスキを送るでもいい、拡散することもできれば、直接応援の声を届けることもできる。

演奏会や展示会であれば、その感想を届けることができる。

寄付や募金であれば、その情報を拡散することができる。

その一つひとつが、今もまだ生きて活動している本人を励ますことになるはずだ。


だから、R.I.P.のタグをつける前に、我々は自らに問いかけるべきなのだ。

自分はこの人をエンカレッジできていただろうか。

自分は今生きている「推し」を十分に推せているだろうか。

そして、R.I.P.のタグをつけるのと同じくらいカジュアルに、推しを、今もまだ生きて、活動を続ける存在を、応援するべきなんじゃないだろうか。

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