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宮嶋勲「最後はなぜかうまくいくイタリア人」一言感想文

本屋でふと見かけて、直観的に選んだ本である。

イタリアにもイタリア人にも、これといった縁はない。イタリア料理にもイタリアのオペラにもそれほど関心はない。それなのに、なぜ興味を持ったのか。

帯には「人生の醍醐味は、寄り道にあり」「いつも仕事し、いつもサボる」 「空気は読んだことがない」とあり、これらに惹かれたのかもしれない。


「仕事の時間」と「私の時間」は幸せに溶け合っている

フルタイムで働いてきた中で大事だと学んだのは、「仕事の時間」と「私の時間」を切り分けることだった。生きているうちの95%くらい、職場から帰っても寝るまでの間、夢の中でも仕事が頭にあるような日常の中で、仕事を制限する必要を感じるようになった。

仕事を制限するためには、「仕事の時間」と「私の時間」を分ける必要がある。だから、そのような働き方ができるように、ここ数年は心がけてきた。パートタイムの仕事だったから、拘束時間には敏感になった。時間単価を意識した。職場以外ではなるべく仕事に関わることから離れるようにした。

その後、再度フルタイムで働くようになってからも、そのあたりの意識は徹底していた。だから、残業が発生することを問題だと考えたし、時間外に仕事を持ち込むことも避けた。


しかし、自分の中で矛盾した部分があることも事実だった。教師という仕事には、生徒に直接対応している時間の一方で、教材研究や教育観を養うための営みも含まれる。前者は明確に勤務時間内で完結させることができる(ようになった)けれども、後者は必ずしも勤務内容とは重ならないものである。

本を読んだり映画を観たりすることはもちろん、いろんな人の話を聴いたり、話をしたりすることで磨かれていく部分ももちろんある。そういった営みはどうしても「仕事の時間」と「私の時間」とに切り分けることが難しい部分である。

ここが、教員という仕事の特殊な部分で、だからこそ、公立学校の教員には残業が認められないという理屈が通ったのだろう。教員の給与体系の問題はあるものの、この「仕事の時間」と「私の時間」とに切り分けることが難しいということは、認めざるをえないだろう。


そんな中で、独立するといったときに、このあたりをどのように整理するかは難しいところであった。

当初は、「仕事の時間」と「私の時間」を明確に切り分けることも考えた。だが、すぐにその難しさを知ることになる。

まず、独立する上で大事にしたかったことの一つが、自分の心に無理のない働き方をすることだった。それはつまり、なるべくやりたくないことをせず、やりたいことをするということでもある。そうしたときに、やりたいことの一つが学ぶことであり、質の高い教育の提供であった。

もちろん、直接教育を提供している時間が「仕事の時間」なのだが、それは楽しいことでもあり、やりたいことでもあり、「私の時間」とも重なるものだと感じていた。

一方で、直接教育を提供している時間以外にも、積極的に本を読んだり、ブログを書いたりと、やらなければならないことがたくさんある。それらを「仕事の時間」というものを設けてやろうとしたが、時おり沈みがちな自分の体調を考えたら、そんなことは無理だった。

チームで働く中で、その組織の「仕事の時間」に合わせて動くことはできても、たった一人でやっているのに無理やりにでも「仕事の時間」を設けてそこに仕事に関わることを集中させるというのは、自分にとっては負担が大きかった。

体調に合わせながら、調子の良い時間に、調子の良いタイミングに、調子の良い日に仕事をしたほうがいい。というより、それしかできなかった。


そういった現状を考えたら、「仕事の時間」と「私の時間」を明確に分けるよりも、柔軟にその間を行き来するというか、そもそもそこを明確に分けず、ふんわりと生きた方が良いのではないかと思うようになった。

そんなことを、この本に書かれたイタリア人たちは肯定してくれているようだった。おそらくは、自分が思っている以上に、合理的な働き方が、僕には合わないのだ。


「Vediamo(様子を見よう)」

言い換えれば、「成り行きを見守る」ということである。

直近のフルタイムで働いていたときにストレスだったのが、上司の計画性のなさだった。

とにかく計画性がない。というか、計画を立てない。最低限の計画を立てているようなのだけれども、それを部下に共有しない。だから、部下達はその日、そのときに起こるさまざまなことに突発的に対処しなければならない。もう少し前に知らせてくれればうまくできたものを、ということがよくあった。その結果として、生徒や保護者への対応が十分にできないことが多く、それが大きなストレスであった。


一方で、自分にもそういった、計画を立てたくないという心情がある。

休日の予定はなるべく立てたくないし、一日の予定も起きてから考えたい。ある程度予定はしていても、それを実行に移すかどうかの最終判断はなるべく遅らせたい。だから、誰かと予定を立てるというのも、基本的には得意ではない。どこかにちょっとした負担を感じてしまう。


僕は嫌なことはなるべく先延ばしにしたいタイプである。嫌なことのいくらかは、寝かせておくと解決してしまうことも多い。もちろん、すぐに解決してしまった方が良いことも多いのだが、それを解決できるほどのエネルギーが沸いてこない。そこで頑張ることで、他の何かを犠牲にせざるをえない。だから、そういったものは寝かせておく。そうすると、それがずっと胸の奥に引っかかって不快なのだけれども、時間が経てばどうでもよくなっていることもあるものである。

計画的に動き、嫌な事を早く解決していくことは、非常に合理的である。だが、僕の心はそれを拒否する。合理性を直観が上回り、直観的にその行動を拒否する。


これは、遅刻の心情にも通じる。

僕はとにかく遅刻の多い人なのだけれど、その一因が、この直感の優位なのではないかと考えている。

合理的に考えれば、遅刻はしない方がいい。時間に間に合うような計画に沿って動くなり、時間よりずっと前に動くなりすればいい。その方が、絶対に相手は信用してくれるし、その後の日程にも無理がない。

これは、誰かを待たせているような時だけではない。演奏会やイベントにおいても同じなのである。そのことによって自分が不利益を被ることがわかっているのに、遅刻してしまうのである。。

そこには、直観的な心の動きがある。直観的に遅刻してしまうのだ。それは、自分の心に「遅刻したい」「時間通りに行きたくない」という心性があると捉えることもできるが、それだけではない気がする。もっと、「そうすべきだ」という心の声があるのである。


「Vediamo(様子を見よう)」というのは、ある意味では合理性の放棄である。物事を予期できるものとし、「わかる」と捉える世界観の否定である。この世界を「わからない」ものとして捉える世界観である。

この世界は、「わからない」ものなのである。自分の心も「わからない」ものなのである。だから、物事を計画し、その通りに動こうとする姿勢には無理がある。

そんなことを考えてみると、イタリア人のこの姿勢は、とても納得のいくものである。少なくとも、このあり方を否定することはできない。


総じて、この本を読んでとても心は楽になった。自分の中にある「こんな生き方をしたい」を肯定してもらえたような気がする。

たぶん今、見えるはずのない将来に不安を抱えている自分にとっての、救いにもなったのだろう。わかりもしないことにクヨクヨしても仕方ないのである。

ジタバタしていても仕方がないので、イタリア人のように「Vediamo(様子を見よう)」の姿勢でいよう。そして、イタリア人のように、ここぞというときに駆け抜けられるように、今は英気を養っておきたい。



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