花と『醜に裏打ちされた美』
スタン・ゲッツの評伝に対するタモリさんのこの一節を読んで、自分の感じていた花の美しさを気持ち良く表現されたように感じたので、そのあたりについて書いてみる。
僕は高3の時に参加したアート関係のパーティーで、今では最も敬愛するフラワーアーティストであり、弊社の役員でもある前芝良紀が空間演出した作品に出会い、初めて花に『醜に裏打ちされた美』を感じたように思う。
写真は残っていないけど、大量の赤いケイトウと赤いペンキを使ったグロテスクな作品で、綺麗という言葉では片付かない、息を呑むような作品だった。
彼の作品からは、花の命と共にある死、グロテスクさ、エロスがあり、綺麗なだけで終わらせてくれない、生きる上での清濁を感じる。
花業界において「アーティスト」と名乗れる次元で取組している人は正直片手で数えられるほどしかいないと僕は思うけど、前芝良紀はその1人だ。
いけばな作家中川幸夫にも同様に、強烈に醜を感じさせる。
アラーキーは中川幸夫の作品について、「死の混ざったエロス」と評していた。
生、死、美、エロス、グロ、どれも連関した存在に思える。
花の生き生きとした自然で優しい側面を強く表現する花屋やアーティストもいるし、それも綺麗だと思う。
そして想いを伝える贈り物では、そういった側面のみの方が良いと思う。
ただ、アートや美という側面で見た時には、タモリさんが言っているように「綺麗なだけ」では美しいといえないのではないかと思うこともある。
現代アートにも花を題材にした作品も多くある。でも、まさに綺麗なだけに感じてしまうことが多い。
そんな中で花を題材にしていて、唯一惚れて買ってしまったのがSarah Fujirawaさんの作品だった。
この作品は何層にもなったアクリル板にシャッタースピードを落として撮影したバラが特殊印刷されている。
光の当たり具合で、綺麗な花に見える瞬間もあれば、腐りかかって液体を出しているようなグロテスクな状態に見える瞬間もあり、本当にいくつもの表情を見せてくれる作品だ。
綺麗なだけでない、様々な表情をもつ花の命故の美しさを感じて、当時東京に引っ越した新卒1年目でお金はなかったが口座のお金を全部使って購入した。
彼らは共通して、花の綺麗な面と同時に、その裏に死や醜が常に共存していることを忘れないような作品をつくる。
だから、綺麗だけどそれだけでは終わらない、表面的ではない重さと美しさを感じる。
そういった作品を見るたびに自分はなぜ花に美しさを感じているのか、思い出させられる。
どんな領域でも美を感じさせるものは、そんな共通点がある気がして、タモリさんの言う『醜に裏打ちされた美』という表現はとてもしっくりきた。
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