アンビバレンス

この世はアンビバレントな感情に浸っている。
この世でもしそれが液体として私たちをほだすことがないのであれば,我々はもっと正直に羨望することができるだろう。
「羨ましいんだろ?」と問われて,「うん」とも「いいえ」とも言わず,「わざわざ何を言っているんだい?」と言えるなら、その人は本当に液体ではなく気体の中を生きているのかもしれない。
けれど,私は私自身を含めてそのような人に出会ったことがないし,出会う予定もないし,出会うような予感もしない。
私が愛してやまない本の作者たちもまた,羨望から逃れられると思われるような人はいないのである。
人はしばしば自分の感情を逆側から,もしくは逆側へ詐称する。
その行為はおよそ遠くからは予測可能であるかもしれないが,近くにあるともうすでに予測が覆されたという屈辱によって自らの精神をしっかりと見定めることはできなくなる。
私はここでおおよそ二つのことで人間の感情を規定できるというペシミスティックな傲慢に至る。

1.人はしばしば自分の感情を逆側から,もしくは逆側へ詐称する
2.人は羨望を現すことを恐れるが、それが存在することを言葉以前のところで認めることは頻繁にする

この二つのことでおおよそ人間の感情は規定できると今の私は本気で思っている。
というのも、羨望というのがやはりその自分の感情を詐称する原因であるように思われるからである。
しかし私は忌むべき羨望のようなものも、そして憧れのような、人間性の備わる人間であればうまく成長の糧としそうな羨望もこの相において捉えている。
というよりもむしろ、その二つの区別がいまここではっきりなされるのであれば,私はおおよそ感情の半分を知ることになる。
それは構造そのものなのであるから,あとはそれがどのように運動し,空白を生み出すのか。ということに注力すればいいわけである。
しかしまたこの二つの羨望も関係であるから,それをなしえるにはやはり地道に自分の内観を信じうるのはどのようにしてか、ということについて真摯になる必要がある。
ここで私の「空洞」論に少し触れておくと,私のいう空洞とは人間の感情においては,まさに「羨望は表に現れてほしくない。」というその感情においてである。
そして、1のことを踏まえるならば,「羨望は表に現れてほしくない。しかし、それが現れないのなら私はなぜそれが現れてほしくないのかわからない。」と暗闇に足を踏み出すことになるのであるから,やはり「羨望は自分が管理することのできるものであるような程度なら現れてほしい。」ということになるのである。
感情における空洞とはその羨望そのものの管理不可能性がそもそも羨望が羨望という感情として考えられる所以であるのに,それが管理することのできる限りは現れてほしい,という人間の不思議なねじれやうねりのことを言うているのである。
最近,感情の歴史ということについて本が出ているらしいが,それはおそらく感情について知りたいのではなく,感情を生み出す原因を歴史的に知ることによって私のこの感情はどのように分類されるのだろう。という淡い期待からのものなのであろう。
その意味でそれは占いと同じような性質を持つ感情である。
感情というものはアンヴィバレントであり、私たちはそれが他人にもあるだろうと信じているが,一方では他人にアンビバレントなど存在するのか,という傲慢への警戒も怠っていない。
それだからやはりアンビバレンスは必要なのである。
二律背反する中で決定する私たちの傲慢こそが羨望の的となっていることを私たちは知るべきである。
そして、そのことを知るうちに、次第に私たちは傲慢や自己愛をどのように現すべきか知ることができる。
この感情という生起的なものでさえ,やはり経験や知識は必要不可欠なのである。
そして、それらを蓄積させたその先でやはり私たちは羨望を恥ずかしがり、それでいながらアンビバレンスでアンビバレントな感情に少しは意味と文学を知ることができるようになるのである。

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