エッセイスト

「エッセイでは軽やかな連想の匂いが理想的な姿である。」
(2021/3/19「ペンギン」より)

私はエッセイを多く書く。
二日それを書かなければなんだか落ち着かず、書くことも決めずに書き始めてしまう。
それは呼吸とほとんど同じであり、一日書かないというのは美術作品の前で息を止めているくらいに「入り込んでいる」のである。
エッセイというものを生活として、呼吸として見出してから、私は連想が少しだけ得意になった。
連想というのは私を知らないところまで裸足で運んでくれる。草原だったり、小さな水たまりだったり、森の中だったり、からからの空き地だったりする。そこに足を運ぶと、まるで大地の緑か青かが私に流入したように感じられる。そこに溢れ芽吹くものを書き止めようと私は必死になる。
それらは書かなければもう書けないものなのである。
それは儚く瞬間的で、私はそれを体験するために書いているのである。
思わぬところに話が飛んでいるように見えるのも、私のうちにはその価値と論理が明らかに存在するからそうしているのであって、無理くり連想しようというのは不可能なのである。
軽やか、という言葉しかエッセイを評するのに適当な言葉が思いつかない。
それはその中に重厚な感じがないというわけではなく、その言葉でしか理解できないような性質がそこにはあるということである。
私たちエッセイストは無理くり現実を紡いでつぎはぎの文章を編んでいるように見えるかもしれないが、それは糸を見出すことにおいてずうっと怠慢である我々への戒めである。そしてそれ故に飛躍的で裁縫的なのである。
別に私はエッセイが極上の手段だとも思わないし、別の手段の方が好きな自分もいる。
けれど、瞬間的な流入、自分が圧倒的に小さく足りないという自覚、それはエッセイにしか見出せない。
そこにどのような言葉を使うこともできるが、私しか書けないことを表す言葉は一つしかない。もしくは、言葉がない。
一つか、ないか。
それが言葉ということ、話すということ、書くということ、それらの根源にあるのである。
いくら長い話を書けたって、一つも話を書けなくたって、この世界は豊かである。
けれど、一つも読めない人、聞こえない人、そんな人の世界は灰色だ。
私はそんな人に世界の豊かさを知ってほしい。
私は豊かさを知っている。
私はそんな私をふと誇りに思う。その誇りで重くなった背中、その重さを軽やかさでもう一度、そう、もう一度世界の片隅まで全て見通すような透明さで理解しようとすること。それがエッセイなのである。
その一生懸命な自己研鑽、その汗の匂い、それはどれだけ季節の芳醇さを湛えた花だって超えられない人間の姿である。
匂いは姿なのである。

桃色を吸うしだれ桜

ある俳人はこう呼んだ。
私は自分の長く鬱屈な髪の毛が春の陽気を吸って花めいたところ、それを鏡も無しに見たことがある。
頭を振るとまるで春の妖精が踊っているような世界、そんな世界に住んでいたことがある。
私はどんなものを書きたいか、と聞かれると少し悩んで、「わかりません。」と言うだろう。
その時に考えているのはきっと、「なんであれを思い出せないんだろう。」という不思議さについてである。
私はずっと豊かであったはずなのに、具体的に言ってみてよ、と言われると突然、「あれ、難しい。」となるのである。
だから書き続けているのかもしれない。
私は抽象的な言葉を紡ぎ続けて、それを読んだ誰かが「私」という具体的な豊かさを発見するのを待っているのかもしれない。
そしてその期待に応えてもらうために「読む」ということの豊かさを喧しく書いているのかもしれない。
私の主張は端的に言うと二つのテーゼなのであろうけれど、ここではそれを文章の内側に隠しておきました。
めくっても見つからないでしょう。
いとも不思議な気孔でこの世界の陽気を呼吸しているのですから。
別に私は意地悪したいわけではありません。
ただ、テーゼは見つけた方が楽しいでしょう。誤解された方が豊かでしょう。世界の側も思っているでしょう。
「あなた、もう少し美しく書いてくださらない?」と。
だから私は隠すことによってその憤りに笑いかけようとしているのです。
そんな努力もきっとエッセイから学んだ豊かな身の振り方、世界との手の取り方、踊り方なのです。
まあ、もう特に書くことがありませんから、一つ句を引用して終わっておきましょう。

ししおどしで猫の耳立つ

原文。
https://note.com/0010312310/n/n6bc3cdbd97c6?
magazine_key=m9920a7cfb3cd

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