ヒロイズムの放棄について

ヒロイズムを放棄するということ。
私はそれが肝要であると、なんとなく思う。
その理由は全然わからないが、私はヒーローというものが嫌いであるらしい。
同じ心持ちは芥川龍之介も持っていたらしい。

どうか英雄とならぬようにー英雄の志を起こさぬように力のないわたしをお守り下さいまし。
『侏儒の言葉・西方の人』16ページ

私がヒロイズムの放棄を願うのは、この「力のない」という理由からではないと思うが、芥川も同じようなことを考えているということで、なんとなく嬉しくなった。
また、この言葉の少し前には、道徳や良心ということが論じられているのだが、その中で、私の真意を突くような、そして炸裂させるような言葉があった。ように思える。

良心とは厳粛なる趣味である
『侏儒の言葉・西方の人』13ページ

私たちは自らの正しさを知りたくて、ヒーローになりたがるのではないだろうか。けれど、私はそれが疎ましいのである。なぜ疎ましいか。私には、「正しさ」というものがわからないからである。「合理的」と言い換えれば少しはましになるが、それでもなお、「正しさ」の部分は捨てきれない。
「合理的」というのは、どういうことかといえば、私にとっては、プラグマティックであることを決めるプラグマティズムである。つまり、私たちの対象化の作用をどこまで許すかという倫理的な課題を背負った言葉が「合理的」という言葉なのである。
しかし、「正しさ」は倫理を背負えない。それは「正しさ」は「正しい/正しくない」が理想であるとするからである。それに対して「合理的」というのは、「合理的である」ではなく「合理的ではない」を減らしていこうとする。少しだけ、経済的なところがあるのが、「合理的」のいいところである。
しかし、この「経済」というものも考えものである。
私は言葉には、「経済のための言葉」と「政治のための言葉」があると思っている。ちなみにだが、「政治のための言葉」というのは、別に政治家のような存在が吐く言葉ではなく、一種、権力を生じさせる、それは中心と言い換えられるが、中心を生じさせるような言葉である。「経済のための言葉」というのは、数式やアナロジー、トートロジーであると思う。差異を差異として差異に還元するのが「経済のための言葉」である。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが、ヒロイズムを放棄するというのは、「正しさ」を放棄して、「合理的」ということをある程度究めることに近いと思う。

この文章は芥川龍之介の英雄になりたくない意志に反応したものである。

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