フィヒテの「私」と私の「私」

『ドイツ観念論』という本のフィヒテの章(第二章)を読んで考えたこと。

この本によると、フィヒテは「私」というものに関して、以下のように考えているらしい。

「私」は、自分が自分を対象化して、対象化された自分を自分として認知するときにはじめて存在する。いやむしろこうした運動の全体こそが<私>の真の存在である。
78ページ

私はたしかに自分を外化し、対象化するのだが、すべての<私>を一挙に対象化するのではなく、部分的にしか対象化しない。そうすると必然的に、そうでない残りの部分には<私ではないもの>が対象化されるというわけである。こうして、<私>によって対象化される世界は、<私>と<私ではないもの>が対立する世界だということになる。
91ページ

この二つの文章が私を思考に駆り立てる。
78ページのもの、「自分が自分を対象化して」という部分を考えると、91ページのようになると考えられ、私によって対象化される世界においては「私」と「私ではない」が対立すると考えられている。
ここからフィヒテはヘーゲルに近づいていくように思えるが、それはとりあえず置いておいて、この「私によって『私』と『私ではないもの』の対立として構築される世界」のよくわからなさについて考えていきたい。

まず、91ページの「私はたしかに自分を外化し、対象化するのだが、すべての<私>を一挙に対象化するのではなく、部分的にしか対象化しない。」というところはとても納得するところで、それがどうして全体性というものを標榜し、それが標榜できるくらいには全体性として成り立つ可能性を持っているのかということについて、私は三つの概念(「主体としての私」「場としての私」「反応としての私」)を用いて考えようとしている
次に、「そうすると必然的に、そうでない残りの部分には<私ではないもの>が対象化されるというわけである。」というところ、これが私はまったくよくわからないのである。私たちが「私」を対象化するときを考えると、「私」というものを対象化する以外のことを行なっているものなのだろうか。仮に行っているとしても、それは後からそう思われているだけであり、「私」を対象化しているときにはそんな事など考えず、ただ「私」を対象化しているのではないだろうか。
このことについて考えるとすれば、例えば先ほどこの『ドイツ観念論』を読んでいた私というものは「私」として考えられ、何が「私」として考えられないのだろうか。仮にこの『ドイツ観念論』という本が「私ではない」とするのなら、それは同じように「私」も「私ではない」となるのではないだろうか。なぜなら、そもそもこの「私」を考えるというのは、「私」を対象化していく私たちが「対象化」という行為を行なっているのであって、そう考えれば想起や対象化されたものはすべて「私ではない」と考えられるからである。
最後に、この議論を単純化すると、私は「私」を対象化するとき、「私/私ではない」で世界を構築するのではなく、「私」を中心に据えることで世界が広がっていく、または広がりが保証されるだけであり、その広がりは「私/私ではない」の領域としてはもはや存在していないのである。
フィヒテのいう「運動の全体こそが<私>の真の存在である」ということはその通りなのだが、それが仮に「私/私ではない」で構成される世界が「私」として対象化されていくだけだとするのなら、それはかなり傲慢であるし、それ以上に「私」という全体を掴むための物語に過ぎなくなってしまうのではないだろうか。言い換えれば、「私ではない」が無理やり作られた仮想的なもの、もっと言えば雑用係、敵役にしか思えなくなってくるのである。
そのときの世界に価値はあるのだろうか。
私の解決策というのは「私」を「私ではない」ものとして存在させることができるような、しかしそれぞれに私が原理として存在しているような世界を考えることによって、その「私ではない」から「私」への移行を待つことそのものが「自由」であると考えることなのである。そしてそのときに重要なのが、フィヒテも言っているように「私はたしかに自分を外化し、対象化するのだが、すべての<私>を一挙に対象化するのではなく、部分的にしか対象化しない。」ということの倫理性なのである。そして、そのことによる他者の他者性の確実で絶対的な確保なのである。また、そのことが「私ではない」が「私」になるトンネルを作るものであると私は考えるのである。
だからフィヒテに端的な不満をぶつけるとするのなら、「私」を考えているときに「私ではない」を考えられると考えられるのは傲慢でしかないし物語でしかないということである。

まあ、この論が少し関節が外れている感覚はあるが、「場としての私」はフィヒテを前-「主体としての私」として円卓に招待し、謎の他者(謎と名指しできるような他者)、すでに「主体としての私」になった他者の謎の振る舞いと屹立とした議論を行うことによって、この関節が「私」として滑らかに存在し始めるのである。

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