『樽も寝な』
2024/4/15「樽も寝な」
みんなは私を誤解している。かもしれない。が、それと同時に私はみんなを誤解している、かもしれないし、私は私を誤解している。
「比較」と「対比」はどう違うか。「比較」は主題が安定しているのに対して「対比」は主題が安定しているか否か、安定しているならなぜ安定しているか、と問うことを触発する。
そうか。君たちは問いを作るとか、問いを仕立てるとか、そういうことをしないんだね。主題にもほとんど。
なぜ「、」では少し止まらなくてはならないか。それは「書く」というのは「音頭を取る」ことであるとも言えるからである。
読むことは素敵なことだ。素敵に読むことは素敵なことだ。ただ、私は別に私がたまたまそういう「素敵」さにぎゅいんしただけだと思っているので読めない人や私から見て素敵に読めているわけではないように見える人が素敵ではないと言っていない。しかし、ある種の価値判断を含む判断において自らにその判断における上位を付与すると他人に下位を付与することのように見えてしまう、し、実際そうなのだろう。これは人間の哀れである。し、これを引き受けようとしているのがHIPHOPの重要なところだと、私は思う。
バスに乗っているときだけ、「ああ、生きている。」という感じがする。と言えば言いすぎだろうか。なんというか、「生きている」ということが極度に象徴化されているような、そんな気がするのである。
実在論的な議論に触れるとなんだか、「ああ、これが実在論だったのか。」と思う。しかし、観念論的な議論に触れてもそうはならない。なぜなのか。
まあ、ウィトゲンシュタインに対する入不二的な解釈でいけば、この反転を否定することこそが独我論であるらしいのだが。だから、それを採用するとすれば、私は反転の片方はすでに否定している(まあ、「否定している」ことさえ忘れているとも、そもそも「否定」が主題にすらなっていないとも言えるが)がもう片方は否定していないことになるだろう。それはなぜか。
バスの運転手は遠慮がちな待ち人を明確に待ち人にする。間違っている可能性があるとしても。
「あれ、なんだったけな、忘れちゃった。」はなぜありえるのか。
2024/4/16「ジャムを持参」
「よく生きる」「素敵に生きる」。
バスを待つ。だいたい少し遅れる、そんなバスを待つ。
さて、まるっきり労働なしの状態からばりばり労働ありの状況になったわけだが、そこで気がついたこと、実感したことを考えることのエネルギーにしてみたい。
心底思ったのは私は体力がないということである。この「体力」というのはもちろん「体を動かす力」でもあるし、それと同時に「精神を保つ力」でもある。私はどちらもない。もちろん、新人がいきなりこれらを持っているということはなく慣れるのを待たなくてはならないことはあるだろう。しかし、私はどうしようもなく疲れてしまったのだ。
もう一つは、と、書いたがこのままだらだら書いていきたいので、「あとは、」くらいにしておこう。あとは、私の生活のリズムは読書が作っている、ということへの理解の洗練があったように思われる。私は「本を読むとリズムが良くなって生活が豊かになる」みたいなことを思っていた。いまも同じことを思ってはいるが、この「リズム」というのは「反復されうる作品を収集する」ことと「生活の中で作品を反復する」ことという二つのことをゆらぎゆらぎすることであると思った。
そして、この「リズム」が疲れてるということによって取れなくなってきたのだ。そして、これは「反復する」ことのほうにも影響しているのではないか、ということが重要なことである。忙しくなって「収集する」ことが以前よりできなくなったということならわかりやすい。が、その「収集」はなんというか、砂金を探すことではないし、コレクションすることでもない。ただ単に沈殿したものがその「収集」を支えている。別にする必要のない「収集」を支えている。そしてその沈殿に「反復」は関わっている。だからこそ基礎にある「反復」、そしてそれを支える健康に思いが至ったのだ。
「反復」に必要なのは「記憶」と「洞察」である。この二つのことは相互作用している。「記憶」するためには「洞察」がなければならないし「洞察」するためには「記憶」がなければならない。ただ、どちらも「一つにする」という意味では同じである。この二つの「一つにする」に高低差をつけるとすれば、「記憶」は「記憶より雑多なもの」を「一つにする」のに対して「洞察」は「洞察より雑多なもの」すなわち「記憶」を「一つにする」と言える。この「一つにする」はほとんど自動的なこともあるが結構能動的でなくてはできないこともある。その能動的でなくてはならない部分を支えているのはやはり「健康」である。その「健康」が失われている。そんな気がする。
私は病んだ。いや、私は私を「病んでるなあ」と思った。しくしく泣いた。その理由づけはできるがもっと、もっと元も子もないことを言いたかった。それが「健康」に行き着いたのだ。そして体の弱さに。もちろん、承認不足とか、能力不足とか、気力不足とか(気力不足は能力不足なのか、それとも能力不足とは異なる次元に気力不足はあるのか。私は後者であると思っている。おそらく。ただ、気力があればなんでもできると思っているわけではなく気力がなければなんにもできないと思っている。おそらく。そう、ここで「気力」は二重化している。より根源的なそれとより能力的なそれに。)、そういう不足に訴えようとも思った。が、それらは歴史において不変ではない。偶然において強度が低い。そう思ったから私は「健康」を理由に据えた。もちろん、これはそれらからの逃走でもあるだろう。本来は闘争しなくてはならないそれら、それらを闘争しなくてはならないとされる、あくまでそういうことにされていることであるとする。そういうことでもあるだろう。言わば、腰抜けにも見えるだろう。たしかにその線はいつもちらつく。が、私が引き受けようと思うのは気力不足だけでそれ以外はなんというか、実感に耐えない。私が持っている実感というものに耐えきれない。能力不足や承認不足というのは。そういうふうに思っている。
ただ、このように思うことは別にそれらを放棄してもよいということではない。それらから気力を得ているのはほとんど間違いなく、それを無視することはできない。あくまで真剣な思考においては。ただ、私は別に真剣であるべきだと言いたいわけではない。
私は考えごとを、特に書きながらするそれを「手探りで集めて必要なものが手元に残ってくる」営みであると考えている。というか、そういうふうに理解している。身体的に。ここまでの一連の思考もそうである。し、それだからこそ思考であると言えると思っている。
あとは、私は私になんというか、酷な要求をしていることにも気がついた。そして、私は私に向けて書こうとしている、ことが多いのでみなさんにもそうしてしまっていることになる。それをひしひしと感じた。
私はしくしく泣いた。そしてそのことをある人に伝えた。そして私はそのことを「かまちょかな?」と反省した。し、言った。その人に。私はその人に思うことすべてを言った。そして私は行き着いた。「なにを言えばいいかもなにを言わないべきかも、何か言いたいのかも何も言いたくないのかも、なにもかもわからない。」というところに。これも言った。その人は優しかった。もちろん、ここで優しくしない人なんているかがわからないが優しくしてくれた。もしかするとここで優しく感じないのだとすれば私は死んでいるのかもしれないが、その人は優しかった。
私は初めて死を近くに感じた。いままでもなんとなく感じたことはあるが継続して感じたことはなかった。それを感じた。と思っているだけなのかもしれないが。と思いたいだけなのかもしれないが。
こんな話をしているとその人は言った。「やめるんじゃだめなの?」と。私は思った。たしかにそうだ。と。しかし、こうも思った。「エネルギーを回す、それができないならなにをやっても同じではないか。」と。ただ、私はそれを言い訳だとも思った。(二重の反転する言い訳。)
「も」で繋がっていった。「あれもこれも」そして、「と思った」ではなく「とも思った」。
私の周りには何かが集まっている。何が集まっているのかわからないまま、わからないままに集まっている。そして私はそれらに押しつぶされ消えようと思った。わけではない。ここは正直になろう。(別にここまでが素直じゃなかったわけではないが。)死亡動機が見つかってしまった。そんな感じであった。ふと、私は、バイクに乗っているとき、ブレーキを握らなかったらどうなるんだろう、と思うことがある。いや、あった。労働前にも。それが「思う」で済まなくなってきた。そういう感じである。もとにあるのは死の欲動である、そんな気がした。
私は死にたがっていて、私はその理由を探していた。そんな物語を思った。し、半分くらいは実際にそうだろうと思っている。
不安。そう、私は不安を感じることがあまりない。し、いまもあまりない。たしかに病んでいたと思うし、いまもなおそうである。そう思う。が、不安なのかと言われると別にそういうわけではない。
まあ、ただの不感症の可能性はある。し、根本がそれだからエネルギーを求めて究極的には死に、そしてその裏にある生に到着したり到着しそうになったりするだけだとも思う。
なんというか、読書でもたせていたところがあるのである。私はもはや何にも感動しなくなってきていた。から、読書でなんとかしていた。そんなところもある。から、読書をする時間が減ったりなくなったりすれば元々あった無感動が屹立することはありえるだろう。そして最後の砦がコロッといってしまいそうな、そんなことはあるだろう。
私は不安であった。唯一、それが不安であった。私は急に死ぬかもしれない。誰かはそのことを悲しむかもしれない。あの人は、あの人は、悲しむかもしれない。それだけが不安であった。それが死ぬことへの不安かと言われればよくわからない。
唯一楽しかったのはバスの窓からいろいろなものを見ることである。バスの窓からものを見るということが私は好きなのだ。同じ時間のバスの同じところに座り、なにも考えずに外を見る。すると労働以外のことを考えられるのである。いや、労働以外のことも考えられるのである。
これくらいだろうか。今日はあまり集められなかった。いい感じに集められなかった。まあ、これは「いい感じに集める」ことができなかったのではなく「集められなかった」をいい感じにできたということでもあるかもしれないが。
2024/4/17「ステージが」
早く帰ること。豊かに帰ること。行くこと。
決定論を信じることはできるが信じることさえしないくらいに決定論的であることはできない。私はそう思う。
話すためには話題がなくてはならない。そのことをみんなわかっているのだろうか。それを見つけることの困難さも。
私は理論や検査は一つの話題だと思っている。もう少しギュインと絞れば主題だと思っている。
まあたしかに、鉄板の読みは考慮に入れておくと良い。これも話題とか主題の話である。いや、話題とか主題を保持する私たちの方法の典型的な表れである。
なんというか、私は理論や検査をそれほど嫌っていない。ただ、その嫌っていなさを支えているのはそれらが話題であり主題であると思っているから、そしてそのことによって得られるものがあると考えているからである。
2024/4/18「鎖鎌不細工」
とても現実的な夢を見ている。
何も理由がない/理由をつけることができない。
病かあ。病を病であると考えるために必要な制度や権力、それが私は気になる。
私は煽り立てられない。生きることにも。
主題自体が存在しない。それはどうしようもない。
別に敵だと思ってない。
「一つにする」ためには「いくつもある」必要がある。「いくつもある」ためには「一つにする」必要がある。
この二つの「必要がある」はどう違うか。
理解はできるが納得はできない。納得はできないが理解はできる。この納得と理解の、理解と納得のずれ。これは何か。
君はメモするためにメモを開くのか、それともメモしたいという衝動ゆえにメモを開くのか。
ファジーであることと権力であること。
高校生(おそらく女の人。服装からそう思った。おそらく高校生。制服を着ていたから。)がドゥルーズの『カフカ』を買おうとしていた。結局買ってはいなかったが、結構逡巡していた。その逡巡への驚き。
なんというかこの感慨はかなりバイアス的である。
その人は結構さわやかだった。
2024/4/19「カールピーパー」
言い訳じゃなくて、理由づけじゃなくて、根拠づけじゃなくて、えーと、なんだったっけな。
君が「対話」と呼び評価する、それはいったいなんだ?
私には区別というものがわからぬ。会話と対話などの区別がわからぬ。
こういうことを大略このように呼ぼう。区別の提案とはそういうものである。
主題自体の近づけと遠づけ。
さがしものをさがしている。なにをさがせばよいのかわからないから。
ただ、べつにさがさなくてもいいかもしれない。
言葉に実感がこもるわけではないのかもしれない。いや、そうではないと思う。同じ言葉……
振る舞いとしての言語。
2024/4/20「しらみほ」
ヒップホップを聴いて頭を振っているとふと、「ああ、頭がある程度重く、頭がある程度中心に向かってたわんでいるから『頭を振る』は快感なのだ。」ということに気がついた。そしてそのたわみ、中心、重みの中にも同じ構造があるような、そしてその構造同士の共振にも同じことが起きて……みたいなことを思うとどうしようもなく気持ちよくなった。気持ちがよくなった。
響き合い。私はこれを構造の差異=類似的反復であると考えているようである。私は異文化人。
私は先生が私に「大丈夫さ。人生にとっては大したことのない、躓きだよ。」と言ったとき、普通のことを言うものだなと、そしてやけに演技めいているなと、思った。し、いまも思っているが、私はもしかすると先生が私に死に向かう、性急さのようなものを見ていたからなのかもしれないと、いま思った。が、そうだとしても、別にそれは躓きゆえのものではなくおそらく、もちろん私はそう信じたいだけなのかもしれないが、私にもともとあった。透明のトラックはいつか現実のトラックになるのではないかという、そういう予感はもともとあった。
楽しむことは放棄できないようになっている。
「ひとり」と「ひとつ」はどう違うのか。
AとBのCとD。CとDは共通点と相違点。ここでの「点」はAとBがそれである根拠である。
勤勉とは怠惰であることに怠惰であること、なのか?
人間的概念と概念的人間。
脱人間化する、とわざわざ言わなくてはならない私たち。
私は「言語化」なるものを「構造に配置すること」だと思っている。節がある。が、そうではない。らしい。
私は「、」と「。」の間くらいのある種のつっかえを求めている。
変化の根拠は出来事である。が、変化の要素、例えば場面は出来事ではないのだろうか。別に逆にしてもよいが、それら、出来事めいたそれらの差異とは何か。
たしかにXが起こってZがAからBに変わったというのはわかりやすいことである。しかし、それは一つの描きでしかない。
「描き」、嘘でも本当でもなく嘘でも本当でもある。
私は異なるステップで変化している。が、そのステップは地面によって支えられている必要がある。
そう、ギャンギャンしている、「ああ、」まさに存在のような存在は一つの区画を求める。行政しなくてはならなくなるのだ。私はあれやこれや、語彙や文法やに偶然性を発見し、いや、発掘し、いや、「発掘した」と言わなければならず、ただそのことによってまさに存在のような存在は存在になるのだ。
「強調している」と「制限している」はどういう関係にあるのだろう。「強調している」はA、B、Cという要素のうちどれかを突出させることだろう。制限というのはA、B、Cの他にもある要素をA、B、Cにすることだろう。(この「する」にもDをAやB、Cにしたり「する」場合とDの存在は仄めかしておくことでA、B、CをDとは別の存在様式に「する」場合とがあるだろうが)ここで気にしたいのは「要素」ということである。「要素」に次元があるとすれば、例えばA、B、Cはαという次元に存在すると考えることができる。この次元に着目するのが「制限する」ということではないだろうか。言うなれば「制限する」は次元を「強調する」ことなのである。
ただ、「存在する」ことがそもそも「強調されている」であると考えることもできるし、実際そうだろう。
構造自体は知覚に影響されないが構造もまた知覚されるからその意味では影響を受けている。
なんというか、「ああ、適切だあ。」と思われるもの、少なくとも私がそう思うものは次元が存在することを次元を設定することであるとするバランス感覚である。
グラデーションをどうつけるか。もちろん、それは私たちの知覚に由来するのであるが、それをどう理解するかということである。
私は困っている。私が見ようとする「構造の反復」という構造への偏執に。
反転、もっとわかりやすく言うなら逆張り、それを誘惑する、誘発する。それは哲学の一つの戦略である。
自然の変わらなさ、ある人の揺らぎ、ある人の変化(大抵は成長。
慣れたくないことがある。私はそのように言う。「慣れるよ。」と言う人に。
私はたしかに言い訳が上手だ。しかし、私は思うのだ。そんなことを言うならみんなもそうじゃないか、と。
先走った反論にはいつも微笑が伴う。「ああ、そんなこと言ってないのに。」という微笑が。
いくつかはひとつのあつまり。ひとつはいくつかのまとまり。あつまりとまとまり。
たわむ必要がある。
構造が自己繁殖しているような、そしてそこに父と子、母と子、兄と弟(いまは関係ないが「兄と弟」というのは変な区別の仕方だな。)姉と妹、他にもさまざまな関係が読み込まれる。重ね描かれる。そんな感じ。そしてそれらもまた構造として存在し始める。そんな感じ。
私は「テンション」という概念?が好きである。弦がどれくらい張ってるか、振動するかに関係する概念。あんまり詳しくないから迂闊なことは言えないのだが。
疲れというのは「テンション」が適切ではないことを言う。緩すぎたり張りすぎたりすると音が出なかったり弦が切れたりする。
無理に書くのはやめよう。無理に読むのはどうしよう。
2024/4/21「つかまる」
問題はいつでも真摯である。
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