推敲後記

 二日前ほどだろうか。誰かに依頼をもらってエッセイを書こう!という気概が満ち満ちていたので、「お題ください」と言ったら「音楽(確認すると歌のことを指しているとのこと)について書いてほしい」と言われたので「歌」について書いてみたい。

 一つ書き出しを書いたがつまらなさそうだったので消した。

 何を書けばよいだろうか。難しい。

 「歌詞」について書くと「歌」について書いたことにならない。おそらく。少なくとも私はそのように思っている。
 それならば、「歌っている人」のこと、「歌手」ではなく「歌っている人」のことについてならどうだろうか。それもだめらしい。なんとなくそれは「歌」について書くということではないらしい。
 私はお題を決めてエッセイを書くのが苦手かもしれない。

 さて、迷っているのですが、実を言うと、私はお風呂に入っている時に思いついていたのです。これで行こうということを。ただ、それの面白さが伝えられないと怯えていたのです。しかも、私はこの空白、つまり上の段落群とこの段落群の間にある空白ですよ、その空白でさまざまなことを考えました。実は、ですけれど。最後の最後に回収するために勿体ぶるのもなんだか恥ずかしいので全て書きます。と言っても私はそういうことを覚えるのがとても苦手ですので、そうですね、覚えていることだけを書きましょう。
 一つは「エッセイを書く」ということは私が思ったことをなんとなくいい感じでつらつらと書いているだけでいいのか、ということです。私に結論はありません。だって、「書く」というのは「私に結論はありません」ということではありませんか!
 
 さて、さらによくわからない感じになってしまいました。
 もうわからないのでばーんと放り投げて、ああ、突然寂しい感じがしてきました。その理由は書きません。書きたくないので、でも、私はたまに驚きます。「私は人間なのか!」と。意味がわからないかもしれませんが驚くのです。
 
 さて、まるでここまでが前フリであるかのような感じで回収が始まります。と言いたいわけではありません。回収しないことこそ重要であると言っていたではありませんか。須藤さんも。

 「誰やねん」と思ったのでしょう。別に説明しません。したって意味がありませんから。いや、あるのですが、それなら「引用」しろよ、ということなのです。
 で、ちなみに須藤さんは「歌」の話をその本、『なしのたわむれ』でしていたので、この話をする気はなかった(本を探すのが面倒だった。いや、本がある場所はわかるのだが、それを読むのが面倒だった。というのが精確である。ところで、私は「精確である」と書くことが多い。「正確である」ではなくて。それは完全に永井均が『哲学の密かな闘い』(岩波現代文庫の方を私は読んだ)で「精確に語れ!」みたいなことを言っていたのでそれに倣ったかんじです。「ならった」の漢字は合っているのでしょうか。さて、これは()の中でずっと書くというおふざけをしようとしているわけではありません。私は本筋というものが「わからない」のです。かっこを閉じるべきでしょうか。まあ、どうでもいい話だったので閉じておきましょう。)のだが、周辺には存在していたようである。
 あら、常体になっています。「である」に。()がそうさせたのでしょうか。わかりません。

 さて、私が紹介しようとしていたこと、そこからの話の展開、全て忘れてしまいました。精確には、そもそもあまり思いついていなかったのですが。

 さて、こんな調子だとせっかく「これで書いてくれ」と言ってくれた方に失礼ですね。ただ、書けません。これは単純に私にそれを書く力がないからです。
 ご期待に添えず申し訳ありません。

 ただ、このようなくだぐだだけであるというのは申し訳ないので、いい感じにしましょう。頑張ります。

 とりあえずここまでを読みます。推敲するのではありません。読むのです。

 いくつか思ったことはあったのですが、何を思ったかは忘れてしまいました。今日は何の才能も煌めく予感がしません。悲しいことです。と書きましたが別に悲しくありません。
 「悲しい」というのはどういうことでしょうか。私は人間ではないのでわかりません。
 あ、あと、これは人間であるために書いているわけではないのですが、依頼をくれた方に対して「これでどうですか?」みたいなことを言って「こんなつまらないのじゃだめだ!」と言われたみたいなニュアンスが読もうと思えば読めるところがあったのですが、全然そんなことはありません。
 私には「歌」について「エッセイを書く」才能がありませんでした。
 
 「才能がない」というのはどういうことだろうか。たまに嘆く人がいる(らしい。見たことはない。見ていないだけかもしれない。)。私は嘆いているのではない。「ない」ということを書いただけである。途中で急に「書く」というのは「私に結論はありません」ということである、みたいな話がありましたが、あれはどういう意味なんでしょう。おそらく意味がありそうだと思って書いているわけではありません。ただ思いついていい感じだったから書いただけです。
 私が思い描いている「歌っている人」というのは『テルーの唄』を「歌っている人」です。「歌手」ではありません。「歌っている人」です。あと、「歌っている人」で言うと、「ダイナミック琉球」を「歌っている人」も思い出されます。
 どうしても「歌詞」の話をしてしまいそうになります。けれど、それは「詞」です。「歌」ではありません。
 
 ああ、最近「俳句を勉強したい。」みたいなことを言ったら「あの、五七五の?」みたいなことを言われて少し驚きました。なんというか、「そうだけど、」みたいに思いました。

 もう眠たいので寝ます。申し訳ありません。冴えていない日でした。と言いたいところなのですが、私はいつでもおそらく書けません。「歌詞」についてなら書けますし書いたこともあります。これは依頼が悪いというよりもただ単に私に才覚がなかっただけだと思います。
 ただ、その才覚のなさに向き合うことによって、私が毛嫌いしている、いや、今はもはや「毛嫌いしていた」と言った方が適切であろう。毛嫌いしていた、やたらと人間っぽく書く書き方を使ってしまう手癖のようなものがわかりました。

 今日は全然澄んでいない夜でした。本も全然わからなかったですし。読んでいた本も。

 さて、「書いたらすぐ出す」みたいなことを依頼を募集する時に書いたので出したいのですがもう深夜でみんな読んでくれない(これを読んで何になるかと言われれば何にもならないので人間臭いことを書こうとしたのですがそれすらできませんでした!やけくその「!」です!)ので明日の朝出します。もしかすると明日の朝の推敲でウルトラ繋がるかもしれません。期待は全然していませんが希望はあります。希望には不可能推量が必要でしょうから!

 推敲の前に書いておきますが、このことはデリダから借りてきた、「このこと」というのは「希望には不可能推量が必要でしょうから!」です、借りてきた洞察です。哲学者の本分は「洞察」にこそありますから。これは「直観」とやらと違うのでしょうか。どちらかの仙人性の問題でしょうね。おそらく。仙人性そのものだと言ってもいいかもしれませんが。
 さて、落ちます。眠りに。死にます。私たちは。いつかきっと。
 怖い終わりにするつもりはなかったのですが、他人に「私はあなたが大好きなんですから!」と言える人、やけくそで素晴らしい。とも思わない。ただ単に照れてしまう。お前だぞ。○○!

[推敲後記]

 さて、明日の朝が来ました。けれども、朝は文章を読んで、その文章があまりにつまらなかったので、なんだか「文章を読む」をする気を失くしてしまいました。まあ、そろそろアルバイトなので、そもそも時間がないからなんですけれども。
 まあ、なんとかなると信じて読んでみましょう。

 さて、意味がわかりませんでした。しかも、「もっといい感じにしよう」とも思えませんでした。表現が変なところをある程度いい感じにしただけです。さらにいい感じにすることはできませんでしたし、繋がりも発見できませんでした。これは私が私のものを読むということの限界かもしれません。もちろん、具体的に書けば良いのですが、それをすると恥ずかしい。伏字だらけになって、属性だらけになって、そういう感じになってしまいます。
 ところで、「推敲後記」って変な言い方ですね。「推敲」の成果は文章に出ますし。そうかあ。「引用」はある程度こういうことなのかもしれない。「推敲」して「後」に「記す」。

 さて、書けませんでした。怒るような方ではないと思うのですが、自らを怒られないように願うのみです。ぐだぐだしているところに人間性を感じて怒る、あなたが私に怒るというのであれば甘受しましょう。いや、それを私は一番甘受できると思います。
 私が好きな「歌」は「粉雪」、レミオロメンの「粉雪」です。「素直になれないなら喜びも悲しみも虚しいだけ」という「歌詞」が好きだからです。あと、なんだか虚しそうだからです。これで、好きな「歌」について恥ずかしがらずに、いや、恥ずかしいからこんなに長くなってしまったとも言えるのですが、恥ずかしがらずに書いたのでどうぞお許しください。

 こんなので良ければ、これが面白いと思ってくれれば、私の才覚を信じてくれるのであれば、コメントなどでお題をくれてもいいですよ。一度くれた方も、ぜひ。待ってます。いつ書くかはわかりません。私は意外と忙しいらしいので。人間っぽくなってしまいました。

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