グレアム・ハーマンと「モノとしての○○」を考える

私が書こうとしている文章で重要なことがある。
それは「モノ」という概念である。
「モノ」というのは「もの」と区別される。「もの」は有用性の視点で見られているもののことを言う。それに対して「モノ」は有用性を喪失した視点で見られているもののことを言う。

私がよく経験するのはペットボトルである。
机の上にあるペットボトルは大抵「飲み物を入れる容器」として存在している。つまり、「飲み物が入れられる」という有用性のもとでペットボトルは捉えられているのである。しかし、たまにペットボトルがそれ自体として、つまり「飲み物が入れられる」ものとして、ではなく、「そこにある」ということだけを携えて私のもとに現れる。
単純な図式にするとすれば、こうである。

ものとしてのペットボトルからペットボトルの有用性が喪失されればモノとしてのペットボトルが現れてくるのである。

この感覚は昔からあるもので、その「有用性の喪失」は大抵、ある種の「疲れ」が引き起こす。
アルバイトで疲れた時、ソファーに寝転び、机の上を眺めると、やけに静かな、無関心な、モノとしてのペットボトルがそこにある。そのこともまたそれ自体としてあるのであり、それが不思議なのである。そして、その時にかなり特徴的なのは、私自身もまたこのようなモノとして存在するという形式を知っているという感覚が強くあるということである。

少し関係のない話になるのだが、この「モノとしての○○」ということはあまり伝わらない。それは伝え方が悪いのか、それとも私以外の人がそれを経験していないのか、私には分からなかった。長い間。
私はその「モノとしての○○」が私に与える不思議さが好きだったし、それが一種の安らぎでもあったから、友達に話したことは何回もあるのだが、あまり理解されたことがない。
だから、私にとってはそれがちゃんとよくわからない経験として、それは少し幸せな無知なのであるが、そのように存在していた。

しかし、最近グレアム・ハーマンという思弁的実在論者、簡単に言えば哲学者が、同じようなことを言っているということを知った。
私はやっと、この「モノとしての○○」を一緒に考える友を見つけたのだ。
と思ったのだが、あまり近しいものではなかったらしい。
いや、近いのか、私にはよくわからなかった。
ハーマンは「一つの対象」を構成する四つの要素(「感覚的対象」「感覚的性質」「実在的対象」「実在的性質」)相互の関係を探求する。
私が考えている「モノ」というのはおそらく「実在的対象」とハーマンが呼ぶものである。
しかしハーマンはその「実在的対象」については何も言わない。
言うのは私と同じく、「オブジェクトを完全に征服することはできない。それは道具性だけでは汲み尽くされない隔絶した具現性なのである。」(『新しい哲学の教科書』134ページ)ということだけである(ここで言われている「オブジェクト」は「一つの対象」の言い換えである)。
このことに対して、この『新しい哲学の教科書』を書いた岩内章太郎は「人間を離れてかつ人間のことばでオブジェクトを記述する可能性が問われなければならない。だが、そうなってくると、哲学はかぎりなく詩的営為、さらには非言語的な瞑想に近づきかねない。」と指摘している。
私はこの指摘がとても痛い。ハーマンとともにこれに応えなければならない。
なぜなら、私が考えていた「モノとしての○○」を顕現しようとする方向性は「モノとしての○○」を言葉の領域で捉え「表す/現れさせる」という二項対立を探究する方向性、つまり詩的営為としての可能性を探究する方向性と「有用性の喪失」を起こすと考えられる「疲れ」をどうすれば計画的に起こすことができるのかという瞑想の開発という方向性とであるからである。
私はハーマンを批判する岩内に批判されたのである。
しかし、私はある程度の手応えをどちらの可能性にも見出しているから、とりあえずその方向に私というものを炸裂させたい。
ハイデガーやフッサールももちろん私の周りにいてくれるのだろうけれど、私はハーマンと共に「モノとしての○○」を考えることを考えたい。

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