『一の一筆書き』

2024/2/12「一の一筆書き」

独断は良いが独断論はよくない。論は独断ではないほうがいい。

なんというか、この一週間はできるだけ言い切りで書いてみようと思う。

哲学には結構合う合わないがある。他のものがどうなのか、私はあまり知らない。俳句や小説に関して私は合うとか合わないとか、そういうことを感じたことがない。心地よいとか、好きだとか、そういうことはあるが合う合わないはない。しかし、哲学にはそれがある。それが哲学の、なんというか固有性である。

このことを勘違いする人が居る。これは哲学はわかる人だけやればいいということではない。いや、もちろんそうでしかないのだが、別にわからない人はやらなくていいということではない。やっていたら誤解でも接続されるからそれまで焦らなくてもいいということである。し、そもそも私たちは変わるのだからいつかわかる時が来る。確かにこれはただのメシアニズムかもしれない。ただ、別にそれがただのそれなら良いのではないかと私は思う。いつかわかるだろう、ということが傲慢な形ではなく現れるなら、それでいいと思う。

私は他人を尊敬する。意外にも。パッと思いつくだけで四人、私は尊敬する人がいる。その人が社会的に尊敬されているかどうかを私はほとんど知らない。しかし、私は尊敬している。これは私だけがその人たちの良さをわかっているということではない。私はその人たちから素敵ということ、そしてそのための賦活を学ぶのである。

私が「承認欲求」ということの議論を嫌うのは「承認」と「欲求」が(おそらくは人間にとって)必要不可欠であるからと言って全てを解釈することの始まりとしてそれを設定するからである。しかもそのくせに面白い議論を賦活することはできないからである。

「面白い議論」というのは踏み込んだ議論である。踏み込んでぬかるんでいたり、踏み込んで飛び立ったり、そういう議論である。踏み込みを欠いたものを議論と呼ぶことは百歩譲って認めたとしてもそれを「面白い」なんて口が裂けても言えない。私は。

「踏み込みを欠く」ということはその時々に思うしかないので一般的な定義はないと思うが、とりあえず輪郭を象るために一つだけ言っておくなら「常識を答えとする」ということにあると思われる。

つまらないと思うことに「つまらない」と「言う」のはつまらないのだろうか。

「言う」ことは「わざわざ『言う』のだから、……」という問いと答えに晒される。科学というのはある意味このことからの逃走形態の一つであるように思われる。このことはある意味で非常に権力の勾配を反映すると思われるのでその勾配を批判するにしろ恐れるにしろその勾配からの離脱を目指す場合には逃走という形態を取らねばならないのである。

逆流こそが人間の本質である。

なんというか、後付けと言ってもいい。ただ、後付けは二重に逆流しているとも言える。

肉付けが誰々なのか、骨組みが誰々なのか、まあ、そんなことはどうでもいい。私はそういう系譜性には興味がない。

肉と骨は同時に存在する。私が生きている限り。死んだら骨だけである。肉は記憶や系譜、史的な物に託される。

考えたいことを考えればいい。単純なことである。それに使えるものは使えばいい。単純なことである。考えることに飽きたら別のことをすればいい。単純なことである。単純なことである。

私は世間に接地していない。世界にもほとんど。だから具体性を求めてしまう。手触り、匂い、抵抗、それらを。

いやまあ、あの、最も具体的なものに到達したいよお、とか思ってないですよ。うん。

まあもちろん、レヴィナスの「顔」に代表される(というかそれしか知らないと言ってもいい)遠近の転換の近さということはあるよ。なんというか、簡潔に言えば、最も具体的なものと最も抽象的なものが同じことで表現されるという、そういうことはあるよ。

私は過去の私と未来の私の関係性との関係性によって共同体とかメンバーとか、そういうことがわかっている。と思っている。ここでの関係性は主に二つ。私が私たちを見渡すという関係性。私たちに私が居るという関係性。この二つである。しかし、これらが二つであるための力もある。

自分で考えていない。誰かが考えている。それを私は整理する。流れを良くする。それゆえに私の仕事はおそらく、おそらくは……

すり抜ける何か。それが遡及的構成の産物、例えば欲望だとすれば、私はそれを知っている。

欲望というものはよくわからない。他人から言われると筋違いだと思うし、自分で思ってもそれは違うのではないだろうかと思う。誰もが的外れなのである。しかし、これはなぜなのか。精神分析もよくわからない。

被傷性。可傷性とは少し違うもの。私にはそれがあまりにもない。一瞬あるが、それが継続しない。

私は「傷つく」ということがわからない。もちろん、これはただの「否認」かもしれない。しかし、「否認」そのものが「否認」ゆえに生じているかもしれない。

可傷性が高まっているという感覚はある。ただ、それはただの可能性である。それが現実にならない。いつかはなるのかもしれないが。わざわざ被ろうとも思わない。そういう問題。

一つの身剥がし。この場合の「一つの」は余計か、それとも必要か。

この問題はおそらくaddictionの問題とも関わっている。apathyとも。

中途半端な、控えめな相対主義。難しい問題だ。

欲望。私はそれがわからぬ。それをとりあえず熊野純彦に従って「欲求」と「渇望」に分けて考えてみることにしよう。どちらも「求める」ことをしているという意味では同じである。しかし、両者が最も異なるのは安寧ということがあり得るかどうかということである。「欲求」はそれが満たされることがあり得る。さらに言えば、その満たされが持続することもあり得る。しかし、「渇望」は原理的にそれがあり得ないことを示している。つまり、「欲望」はいつも「欲求」と「渇望」に二重化されているというわけだ。これは(特に初期の)ラカンにも見られる指摘である。しかし、私は思うのだ。実はその二重化は願いなのではないか、と。

例えば、私は本を買ってしまう。本屋さんに行くと何冊かは買ってしまう。これは欲望だろうか。欲求だろうか。渇望だろうか。たしかに、このように問えば欲望でありかつ渇望であることになるだろう。しかし、私は一時的には満たされているのである。買った時は「読むぞう」と満たされているのである。

欲望にとって本質的なことは早まっていることである。

私は循環を作る。次へ次へ、という運動、すなわち欲望を私の中に渦巻かせるために。私という中心を空虚に撒き散らすために。ここにある幸せはここにある。ただそれだけのことを示す。それはこんなにも困難である。

新しさというのは「一つの」を作ること、そして「二つ目の」を作らせることである。

二つの制作もまたこの「新しさ」の中に存在する。

もちろん、二つの制作の間に「新しさ」があると言ってもいい。

普通というものを定義する。それこそが語ることの、考えることの本質である。その定義が失敗すること、それが語ることや考えることが目指すことである。だから、それが成功するというのは「ああ、失敗した」と耽溺することなのである。この耽溺がわかる人もいればわからない人もいる。

でも別にわかってもわからなくてもいい。結局は失敗だから。成功するという失敗こそ重要なのである。

わからないことはわからない。わかることもまたわからない。けれど、どのようにわからないかがちがう。そのちがいをつかんでみる。それがかんがえることである。

私はおそらく、予言するが、精神分析によって自らの運動をより精緻化する。それは例えば、剣聖が剣を振る動きを微分化する仕方と同じようにそうする。

こわくて人を愛している人がいる。その愛は非常に煌めき、非常に人間である。それは美しく純粋で、それゆえになんだか淋しい。

一人で散歩。冬だから一人で暖炉。

2024/2/13「さんぱつぱつ」

私はその微笑みに哄笑を見たい。私はその哄笑に悲しさを見たい。この二つの二重性へのある意味での懇願の由来を私は知りたい。そして微笑み、哄笑し、しっかり悲しんで生きてゆきたい。

もちろん「悲しむ」ことは一つの「賦活」である。

私は「変革」にも「記述」にも興味がないのかもしれない。前者に興味がある(ふりをする)とするならば「自己変革」であり、後者に興味がある(ふりをする)とするならば「自己記述」である。私は「自己」にしか興味がない。

もちろん、他人の目を知らないわけではない。しかし、それはしょうがなくそうしているだけで、そこから享楽が備給されることなどほとんどない。

「自己」にしか興味がないというのはみんなそうかもしれない。しかし、私はみんながどんなだか、知らない。だから仕方ないのだ。

「言う」と「わざわざ」がついてくる。それを振り払うわけでもなく、無視するわけでもなく、ただたんにそれとして理解する。そしてそれによってそれと付き合う。そういう距離感、私はそれを目指す。

しかし、私は(おそらくは私を保つために)「言う」ことによって失われることを信じる。場合によってはその内容を、場合によってはそのパフォーマンスを信じる。

垣間見える深淵は大したものではない。しかし、それでしか深淵は見えないのだし、深淵を信じることはそこでしかできないのである。

私は「リフレーミング」(短所を長所に言い換えるやつ)が苦手もしくは嫌いです。なぜでしょう。これは考えがいのある問いのように思われます。少なくとも私にとっては。

まあね、おそらく簡潔に言えば、「リフレーミング」自体は「枠組みを再編する」みたいなことだと思うので、それが否定から肯定になるという、転換?それがどのように機能するかを無視してただ単に常識に迎合した転換を目指すのが嫌ということだと思いますよ。簡単に言えばね。

だから「逆-リフレーミング」をしてみたい。なんというか、よく言い換えられたやつをそうでもないやつにするという、そういうこと。それ自体が目的ではなく否定なり肯定なりが機能するのはなぜかを考えることが目的である。そういうことをする。

「リフレーミング」をする機会があった。自分の短所を書いてみて、それを「リフレーミング」するという機会。少し前だが。私はまったくくできなかった。そもそも短所を書くのもできないし、無理やり書いたとしても言い換えなんてしたくなかった。

言い換えが成り立つためには言い換える前と後とで同じことが指されているという決まりが必要である。なぜなら、そうでないとここで言われている「リフレーミング」は不可能であるから。しかし、そんな決まりは成り立つのだろうか。

あなたは哲学者ですか?と聞かれるとしよう。別に「哲学者」じゃなくてもいいが、聞かれそうなものと考えるとこれが最も現実的である。このように聞かれた場合、私はおそらく「哲学者」とは「あらゆるトピックに意見を述べるわけではない者」であると思っていることの確認から始めると思う。

なんというか、ここで言いたかったのは、あることを問われてまずすることが「問いがどのようなものであるかの検討」である人はキモいと言えばキモいしだるいと言えばだるいが信用できるということである。いや、私は信用するということである。

「哲学者」の例はあんまりよくなかったなあ。なんというか、私の定見がありすぎるから。言い換えれば、すぐに「検討」が終わってしまうから。なんというかもっと、もっと考える必要があると私が思いそうな、そんな問いを投げかけるべきだった。しかも、私は「私が聞かれそうなこと」であることを理由に「哲学者」の例を用いたが、問題はむしろ「意見」ではなく「解釈」を。ということだった。

なんというか、入れ子になってしまっているのである。問いとこたえについての問いに使われる概念の中にすでに「問いとこたえ」についての議論が内包されてしまっている。

あと、一般論で語ろうとているのだが、なんというか、苦手。なんと言えばよいかわからないのだが、難しい。

私は問いを作らない人が嫌い。仕立てない人が嫌い。いや、苦手?

ただ、「嫌悪感」という共通点からこの話を出したが、「リフレーミング」に対する「嫌悪感」と「コメンテーター」(「あらゆるトピックに『意見』することを生業としている人」)嫌いは別のものかもしれない。

「リフレーミング」は嫌いというよりも苦手なのかもしれない。

そうか。否定から肯定への転換が転換ではなくなるのが嫌なのか。というかそもそも、それが転換じゃないなら「リフレーミング」はそれではないのである。つまり、「リフレーミング」は一つの反転継続なのであり、その継続なしに反転の意味だけを使うということは不可能なのである。そもそも。それを誤魔化しているから嫌なのだ。おそらく。

明日もこのことについて考えよう。今日は寝る。眠いので。

まあ、ここに書くかはわからないが。

2024/2/14「明日は明日の風邪をひく」

ウィトゲンシュタインが「何も隠されていない」と言っていた(記憶がある)が、あれはかなり真実である。しかし、真実であるだけである。もちろん、真実であるだけということはそれだけで尊いということである。おそらく。しかし、私は弱いので、人間なので、それが真実であろうとやはり、そこに虚構性を導入し、自分の足に絡まってしまう。悲しいか、それともこの人間性、弱さゆえにはじめて悲しいが存在し始めるのか、私には、少なくとも私にはわからない。しかし、このわからなさをこのように語った場合、そこに現れるものがある。それが悲しさ、そしてその基礎としての人間性、弱さである。

人間は弱い。けれども、弱くない人間など、人間など存在するだろうか。私にはわからない。私はおそらく弱いから。人間であるから。

私のある種の揺るがなさは問いに答えを出したことに由来するのではなく答えに問いが尽きることはないだろうということに由来する。

簡単に言おう。つまり、私に訪れる問いやその一形態としての答えはどうせ私が矢継ぎ早に繰り出す問いに、強調していうなら詰問に耐えられるわけがない。どこかで私は「ごめんごめん、やめやめ。」と言う。問われて、それに答えられなくて、どうせそのように言う。そのように言わないというビジョンが私にはまったく、まったく思い浮かばない。どうせ新しい問いが生まれ、その問いによって全体とまでは言わなくても一部の変更は余儀なくされる。どうせ変わる。これが私の揺るがなさの根拠である。だから、「もう、これで私は絶対に揺るぎません!」という宣言に演技性を持たせないことができると確信したならば、私はいまとは違う仕方で揺るがなくなるだろうと思う。どうせ揺らがないのである。

でも、「どうせ揺るがない」なら、どうして私は「あなたは揺るぎませんね」と言われるのだろう。そして自分でも「たしかに、私は揺らがないなあ」などと思えるのだろうか。

これはとても面白い問いで、有益な問いである。おそらく。

面白く有益な問いというのは珍しい。まず私はそのような問いを問うことがほとんどない。というか、有益な問いを問うことがない。

ただ、ここで問題はややこしくなる。というのも、有益な問いを問うことがない、という確信がここまでの議論を下支えしている可能性は大いにあると思われるからである。つまり、私は「有益」とか「無益」とか、そういう諸々の価値判断を放棄しているがゆえに、少なくとも放棄しているように見えるがゆえに、そしてその見えを私が承認しているがゆえに「揺るがない」可能性が大いにあると思われるので問題がどこにあるか、一つずつ固めてゆかなくてはならないのである。

ここで問題を整理しよう。①ここには「無益/有益」と、「面白い/面白くない」が「問い」の分類として提案されている。そして、②その前には「答え」が「問い」の詰問から逃れられるはずがないという確信が議論されている。ここでの主要な課題は私の揺るがなさを明らかにすることである。

ここで確認しておきたいのは私は①における二つの対比の前者を「問い」に対する基本的な価値判断において上位に置いているということである。この「置いている」というのは「置く」という選択をしているというよりも「自然な」ということが付与されるのがそれらであるということである。つまり、私は自然に「無益」で「面白い」ような「問い」を好遇しているということである。これは私の癖である。

この「私の癖」というのはおそらく「私の揺るがなさ」に関係があるように思われる。簡単に言えば、私は自然に「有益」で「面白くない」ような「問い」を遠ざけるのであり、そしておそらくその自然な対応は良いすなわち「無益」で「面白い」ような「問い」は「答え」を逃さない、「答え」に安住させないということそのものであると思われる。言い換えれば、仮に「答え」を逃す、「答え」に安住させる「問い」があるとすれば即「有益」で「面白くない」ような「問い」であると判断されるという関係がここにはあるように思われる。

だから、このことからすれば「私の揺るがなさ」というのは「有益」な「問い」を「問い」として認めていないことに由来するように思われる。ここからもう一つ、ここで主要な判断というか、立場決定の話があるが、このように結論を導く道筋には「無益/有益」と「面白い/面白くない」という対比がどのような関係にあるかが考えられる必要がある。

端的に言えば、「無益」とか「有益」とか言われる場合の「益」というのは社会通念的な「利益」のことを指している。そして、私の「面白い」というのはそれから独立した対比として提案されているからにはその「利益」とある種ねじれている必要がある。つまり、私の「面白い」は社会通念的な「利益」とは相容れないものとして想定されている。もちろん、ねじれではなくただの対比を見ることもできるが、それは話をややこしくさせるので置いておこう。(ここでの「ややこしい」というのは私の主題すぎてここでは議論しきれないということである。)

簡単に言えば、私は社会通念的に「有益」なものを「面白くない」と思っているのである。もちろんここでの「社会通念」が何であるかを考えなくてはならないというのはその通りである。が、私はそれに興味がない。これがねじれを見ないということである。つまり、私がただ単に「面白い/面白くない」という対比だけでなく「無益/有益」という対比を持ち出したのはねじれさせるため、簡単に言えば媚態なのである。これがこの議論の対話性である。これを放棄すれば私はただ単に揺るがないだけである。そして議論はすでに終わっている。「答え」に安住できるような「問い」を「問い」として認めず、「問い」が生きることの根底にあるという信憑ゆえに揺るがないのである。私は。

私は「問い」が生きることの根底にあると思っている。なぜか。生きることには欲望が必要であり、「問い」はその欲望をそれとして保持するためのものであると思われるからである。

ただ、これはただの人生観もしくは人間観である。これが実は私の揺るがなさの根源である。しかし、これは別にただの人生観もしくは人間観である。

だからおそらく、これは誰かの役に立つわけではない。だから私は少し前に言っている。「「もう、これで私は絶対に揺るぎません!」という宣言に演技性を持たせないことができると確信したならば、私はいまとは違う仕方で揺るがなくなるだろうと思う。どうせ揺らがないのである。」と。そのように揺るがない誰か(未来の私がそうかもしれない)からすれば、この私は弱っちいかもしれないし、強すぎるかもしれない。しかし、これを知っていることはもしかすると重要なことかもしれない。私はそう思う。

あと一つだけ、この議論の根底にある信憑がある。それは「言明」は「問い」と「答え」によって構成されるが、私たちが「問い」を発することはなく「問い」はいつもどこか誰かから訪れるものであるということである。そして、「語る」ことはそもそもその訪れに身が開かれていることから始まるのである。こういう信憑である。だから、「私たち」から一旦抜けるためにはこのことを逆手にとってあらゆる「言明」を求める欲望、「問い」を発する何か、その何かの演技性を、欺瞞性を強調すればよいのである。これはフーコー的でもウィトゲンシュタイン的でもあるだろう。

さて、フーコーは初めて出てきたが、ウィトゲンシュタインはこれを書き始めたところですでに居た。それを強く取るならば、ウィトゲンシュタインが批判しようとした哲学は弱さを隠しているがゆえに、または強すぎるがゆえに批判されていたのかもしれない。

Who are you?
こう問われたとき、私は答える何かを持ち合わせていない。それがここでの揺るがなさの真芯である。私はそこを打つと聞こえる、澄んだ音を聞こうとした。少しは成功したがまだがちゃがちゃ鳴っている。けれど、これが鳴らないというのは人間ではないということである。別にそうあっても全然いいと思う。が、私たちは弱い。私たちはいつも弱い。レヴィナスに吸われていく私を私は見る。冷めている。けれど、この「見る」も「冷めている」もレヴィナスの重力の中にあるとも言える。まあ、ないとも言える。これはだって、「問い」を拒否することの議論なのだから。フーコーにしろ、ウィトゲンシュタインにしろ、レヴィナスにしろ、……。

ここで一つ、私は息を吐く。ここまでの議論から身を引き、私はもっと単純になる。単純すぎて捉えられないようになる。

もっとしゅぱっとした表現を探ろう。

確信した。何を?そのように君が聞くことを。

良さすぎるなあ。これじゃん。

このことが二重化される。反転する処世術になる。人間からの疎外に対する反転、つまり人間界の展開(開くこと)と人間界からの疎外に対する反転、つまり人間界の限界(閉じること)。ひっくり返すことという意味では一つだが、人間ということの内と外でそれが行われるという意味では二つ。

私の目が粗いのか、それともみんなの目が粗いのか。たまにわからなくなる。

転換としてのわからなさである。ここでのわからなさは。つまり、過剰を感じて勝手に転換するということである。

君=私のそのつまらない反復は何故に生じるか。そしてどうすれば滅されるか。それを君=私はおそらく知っている。なのに反復している。そこから汲み尽くすべきものを汲み尽くしていないからである。しかし、私にはそこに汲み尽くしの予感がない。つまり、完全につまらないのである。もちろん、このことは逆につまらなくないのだが、それは結局他のところで議論されるだろうという、そういう予感というか実感というか、それがあるので放っておくのである。しかし、なぜか反復される。いや、大して反復されていなかったが夢で強調される。しかし、それはそれであり、これはこれである。その連接を想定しない場合、これはただ不思議なことである。それゆえに何でもない。

私は意外と身体的な比喩が好きなのかもしれない。その顕著な例は「剥がし」という表現にある。また、その表現に対応するように「重畳」に代表されるような表現もある。あとは「襞」とか?いや、「襞」はむしろ反転性の表現であると言えようか。

仮説だが、方向音痴と伏線回収への理解度は相関する。方向音痴であればあるほど伏線回収への理解度は高くなる。なんとなくそう思う。

これはなんというか、多くを一つにすることの力能という意味において方向音痴と伏線回収の理解は強い関係性があるということでもある。

まあ、「伏線回収の理解」というのをどのように限定するかが難しいのだが。

あと、私はたまに思っているがその時に学んでいるものが仮説を立てることには強く関係してくる。いま、私はガタリのスキゾ分析の第一次分節・第二次分節・第三次分節について勉強しているのだが、その議論がここでの凝結力である。もちろん、方向音痴と伏線回収という並びはある人物に由来するのだが。

いずれ「方向音痴と伏線回収」というタイトルでものを書いてみたい。わくわくする。

ゆっくり呼吸する。私は一つの多孔質になる。

それは一つの「交点」である。そこで変化するという意味では「曲がり角」である。

「一つの作品」というのも多孔質として理解できる。多孔質性が私と作品を支えていると考えることもできる。人生を一つの作品にするということはそういうことである。

一つの出来事は対比の対化と項化によって成立する。静的に言えば、二つの対比と一つの類比、動的に言えば一つの構造と二つの力。それらによって成立する。

これは別に成立させたいとかそういうことではなくて、「成立する」ということがここで言われているようなことであるのである。

もちろん、これは形式的提示であるからこれを逆用(もちろん「逆用」は「順用」(こんな言葉があるかは知らないが)と共に現れる。)すると「成立する」ということを無理くり作ることができる。創作原理にもなるのである。

このように極度に形式的な洞察はいずれ、「同じ形式の話をしている」という臆断によって具体的になる。

「問い」は尽きることがないだろう。このことが人生を安定させる。いや、このことともう一つ、「答え」は「問い」によってしか理解されない、という基盤がある。とりあえずはおそらく、この二つが人生の安定のためには必要である。

もちろん、「人生」などそもそも成り立たないのではないか、という「問い」はあり得る。他の「問い」もあり得るだろう。私はまだこの「問い」が尽きていないと思っているからこの「問い」を発するけれども。

私は偉そうである。傲慢である。なぜか。「つまらない『問い』には付き合わない」という態度を採用しているからである。しかも確信を持って。私はそれがよくわからない。

単純かつ素朴な強制が必要になることがある。このことがわかっている(と思っている)のかもしれない。

私は他人の言うことを聞かない。人生論とか、それに伴う人間論、価値論、そういうことを聞かない。指示は大抵聞くが。

なんというか、他人の人生論や人間論、価値論はつまらない。もちろん、議論でばちばちやり合うのは、プロレスするのは好きである。あまりしてくれる人はいないが。まあ、私が高圧的なのかもしれない。嘲笑的なのかもしれない。それは良くないなあ。ちゃんとプロレスにしたいという思いはある。相手が乗ってくれないと意味がないので媚態も鍛えなくてはならないかもしれない。

私は内閉的だろうか。書いていることは確かにそのように見えても仕方ないと思える。が、私はむしろ内閉的になれないから、というかなんというか、そういう振る舞いをしている気がする。私はそう思っている。

だって、わざわざ考え始めるなんて、変なことじゃん。まあ、これは理由になってないけれども。

「理由」、それは人間であること。

だって○○じゃん。これは私がたまに使う語法である。これと似ているようで違うのは結局○○じゃん。である。何が違うかと言われれば難しいのだが、私はプロレスがしたいから断定している。つまり、ひっくり返してほしいという思いがある。し、それが自分ではできなくなった、いわば固着して固執している、私なり考え方なり、それらを解したり壊したり、簡単に言えば瓦解させてみてほしいのである。私も私の考え方も手強いから返り討ちにあうかもしれない。それを厭わない人にはひっくり返してほしい。それを厭う人は別に「なんか言ってらあ」と思っていてほしい。まあ別に何も思ってなくてもいい。

寝る。お腹が痛い。

2024/2/15「ちゃるめらんて」

哲学というのは道具化されるべきである。と、言ってみるとしよう。そしてその道具がされたものを思想と呼ぶとしよう。すると、一つの哲学は多くの思想として生成すると考えることができる。かつて私は概略このように考えていた。

何を考えていたかを思い出す、そういうことがたまにあるだろう。しかし、それはおそらく「新しい」ということの表徴であることは確実だとしても本当に思い出しているかどうかは確実ではない。そこでは過去や記憶がここのために作られているとも言えるのだ。「とも言える」のだ。

なんというか、私は結局「後付け」だと思ってしまうのである。「後付け」のための規則も結局「後付け」。これが根底にある。私の。だから、私は平気なのである。失敗とか成功とか、そういうことを言われても平気なのである。根本が「どうでもいい」と思っているし、そう思っていなくても「後付けではあるよな」と思っているから平気なのである。

ドゥルーズがウィトゲンシュタインのことを哲学の破壊者みたいに言っていた(らしい)。そのことの意味が少しわかった。ウィトゲンシュタインは現実を直視しすぎている。それは長所でも短所でもない。ただ、そこでの「現実」の制作というか、そういうことをまったくゼロにする(この「ゼロにする」は極度に独我論的に「現実」を見るか、逆に極度に反-独我論的に「現実」を見るか、という振れ幅がある。私はそう思うが、「ゼロにする」という意味では、問題にもしないし新しい概念を作ったりもしないという意味では同じである。)ことは長所でもあり短所でもあるように思われる。ドゥルーズはそこに短所を見て、というがほとんど反応的に嫌っていたのだと思う。その「反応」というのがここで言う「ゼロにする」に向けられたのだと思う。

ある部分は活性化され、ある部分は活性化されていない。「活性化されていない」というのは存在していないということではないが存在しているとは言いにくい。

変化と変容の違いを保持する。このことと「顕在/潜在」という対比はどういう関係にあるのだろうか。

私は「欲望」ということがよくわからない。なんというか、よくわからない。アパシックだと私自身は思っているがそんなことはないのかもしれない。し、そんなことあるのかもしれない。わからない。

「欲望」というのはおそらく、私からすると「一人」ということからの溢れ出である。

もっと偏った見方をすれば、「欲望」というのは二重限定性を議論するための前提、そのためだけの仮説である。

ある活動はその活動を生じさせるものを特定することによって一つの活動となる。

私は人に本をお薦めしない。哲学者も。なぜか。それは私は私であり、君は君であるからである。そして、これが最も重要なことだが、私はそれゆえに哲学が成り立ち、読書が成り立つと思っているからである。私は信条ゆえにお薦めをしないのである。

具体的に考える、これは私にとって困難なことである。私は一つ次元を上げて考えてしまう。それはその言い方を許すならば抽象的・形式的に考えるということである。たしかに、その言い方は許されるだろう。しかし、私はそのことに大した引け目を感じていない。たまに通じなくて困るだけである。これはなぜなのだろうか。元来の傲慢さゆえ、と言われればそうなのであろうが、それがなぜ継続されているか、それが気になるのである。

まあ、好きな本くらいは答える。親近感を感じた本とか。でも、それ以外は答えない。知らないから。読めばどうせ到達するから。別に私はその過程も楽しむべきだとか言っているわけではない。私は心配なのである。私が理解に手こずらなかったものをお薦めしていないかどうかを。

私は私の底意地の悪さを知っている。しかし、それが何であるか、私は明確にできずにいる。

私はある特定の症例を聞くと矛盾した反応を返す。一つはそれを「私のようだ」と思う反応。もう一つは「私よりも病的だ」と思う反応。あれ、矛盾していなかった。私はなぜ「矛盾」と言ったのだろうか。

うーん、なんというか、「無限責任」に象徴されるようにやはり、やはり創造力が必要になる。「責任」には。そのことから逃げてはならないだろう。「問い」を作ること。そこで必要なのはそのことである。しかもその「問い」は非常に軟弱な基盤、例えば人間性とかそういうものに支えられているという、その現実を直視すること。それが必要であるように思われる。また、その制作はいつも「騙る」ことの可能性に開かれていること、それもまた必然的なことなのである。

なんというか、賦活には大いに「刺激-反応」図式で理解できるような、もちろんその下地には「要請-応答」図式が構想できるようなところが必要である。この二つの図式はグラデーショナルに展開される。

「強度と段階」。私はかなり前、このテーマでかなり長いものを書いた。これはグラデーションの強調の仕方でもあるし、グラデーションというアナログからデジタルへの変換の仕方でもある。また考えてみたいかもしれない。

私が「騙る」という問題意識を持つのはおそらく、「語る」ことによって失われるものへと視線を送るためである。もちろん、ただ単に詐称を問題にしている場合もあるだろうが、おそらく本質的なのはこの視線の一つの固定としての問題意識だと思う。

國分が『<責任>の生成』の中で「日常の捉え方を一つの基準としてさまざまな哲学を二つに分類することができるかもしれない。例えば本書でも言及されているハイデッガーの哲学は日常からの脱出を考えた哲学である。それに対し、日常の成立をほとんど奇蹟のようなものとして捉え、それを獲得すべき状態と考える哲学もある。本書の議論は後者の系譜に位置づけられる。」(7頁)と言っていたが、私の哲学はおそらく後者の系譜に近いと思う。ただ、なんというか、ある意味で「脱出」と見ることもできそうだから難しい。

私は「考える」ことが苦手である。

「効果がない」と示すことによる救い。とても重要な視点である。メシアがいないということの認識による救い。

別に私はメシアがいないと言っているのではない。メシアがいるとしてもいないということを認識することは救いになりうるということを言っているのである。

私は「強勢」を学ぶわけです。アクセントの付け方を学ぶわけです。私はわからないのです。私の哲学の意義深さが。

私は私に独自の哲学があるとかないとか、そういうことに興味がない。興味があるのは私の哲学は私を賦活できるかということである。それだけである。

2024/2/16「ぬいぐるみんぐ」

ソフィスト性を自覚したものからソフィストではなくなる。

「方向音痴」は「地図の中に自らを位置づける」ということができないということである。ここで仮に「地図」の本質を「曲がり角」と「順番」だと考え、すべての「曲がり角」が十字路だと考えるとすれば、ある十字路を同定する必要とその十字路同士の関係を同定する必要がある。つまり、二重の同定が必要となる。しかし、これはあくまで「地図」の制作という局面で考えている限りそれであるのであっておそらく本当に「方向音痴」の人にとってはそれではない。

この考察は『フッサール 志向性の哲学』を読んでいるときに思いついた。そして驚くことに第三章の話はかなりこのことを考察しているように思われる。詳細はいずれ書きたいが、そこで私が驚いたのはこれを書いたのがこの本のかなり序盤を読んでいるときに書かれていたということである。つまり、私は先んじて問題の本質を掴んでいたことになる。"とも言えるし"、私がいまそのように読んでいることを整合的に解釈すればこのような先行性を想定せざるを得ないのだとも言える。これは一種のデジャブであり、デジャブもそのときに見たものをかなり前に見たものとして勘違いすることによって構築されることもあるらしいのでそれがいま「とも言えるし」以降に言っていることに該当すると思われる。

なんというか、「習得(可能性)」というのは「人間」を考える上では重要な問い方なのかもしれない。ウィトゲンシュタインもラカンもフッサールもそういうことへの感度があるように思えてきた。

「記述」ということに焦点を当てるなら「記述」が目指すのは「習得可能性」を持ちかつ最少の規則を見つけ出すことであるように思われる。これは生成文法の議論の初期に起こったことと同型であると思う。あまり知らないのだが。とにかく重要なのは最もスマートな規則の発見ということの条件として「習得可能性」が考えられているということである。

しかし、もう一方でそもそも「習得」ということが規則の発見に寄与するわけではないということも重要なことであるように思われる。それはただの条件であり、それ以外ではないように思われるからである。

なんらかの媒介、例えばメディア的な変換があるということをはっきり理解することはそれの組み替えへの萌芽であり、むしろ組み替えこそがその理解の熟達そのものなのである。

本質をしゅぱりと言い切る。一旦。そして考え始める。その発言をより洗練させていく。それに終わりはないし、私自身が変わることもあるだろう。それは緩やかかつ急速な変化を私に教える。

余剰である。私もそうだし意味もそう。そう思うとなんだか、「もうどうにでもなれ」を飼い慣らすことができる。そんな感じがする。

私はニヒリスティックであると思う。根底が。しかしそれ以上にアパシックである。おそらく。

最近の私は自己啓発っぽい。どうしたんだろう。暇なのかなあ。これは別に「自己啓発」が暇な人のすることだと言っているわけではない。

「自己啓発っぽい」というのは早計だったかもしれない。なんというか、人生論っぽい。人生哲学っぽい。

私は私を励まそうとしているのだろうか。どうだろうか。そうかもしれない。

まあ、もしかすると眠くて「考える」のが難しいから、でも何かを書こうという気概はあるから、こんな感じになっているのかもしれない。

「考える」のにも体調というものがある。

別に体の調子という意味であって、いま眠たいだけである。寝る。

2024/2/17「守破離、ふらり」

君=私はもう少し、構造を働かせることに自制を効かせなさい。

哲学というのは「させられる」ものであって「する」ものではない。私はそう思う。だから、私は私が「哲学する」と呼んできたことに実は二重性が存在することを知っている。いや、いまこのように書いてみてやっと知った。私はそういうことを知っていると。

「問い」は訪れる。しかし、君は「問い」を権威によるものであると、強制によるものであると即断すること自体を疑わなかったから哲学は「する」ものであったのだ。それは言い換えれば「問い」の奪い返しであったのだ。もちろんその即断とそれに伴う活動はある程度君=私に哲学的な才覚をもたらし、人生訓すらも与えただろう。しかし、そうしていてはできないことという意味での哲学もまた存在するのではないだろうか。君=私はそれを「賦活」やら「享楽」やらでもうすでに考えていたと言うだろう。それを否定することはしない。しかし、強勢をそこに与えてみたいと思うのである。

「モノローグ」は結局「ローグ」である。「モノ」というのはつまり「内閉」という運動もしくはその性質なのである。しかし、そのことはどのように決定されるのだろうか。私たちはいつまでも「モノローグ」にも「ディアローグ」にも到達できないのである。

私は「内閉」という概念を文学にも適用していることがある。いや、「内圧」か。

刺激と反応は一次的断絶によって可能になる。そして、要請と応答は二次的断絶によって可能になる。もちろん、断絶がそれとなるためには「刺激と反応」と「要請と応答」が必要であるという見方も可能であるから「刺激と反応」と「要請と応答」もそれぞれ刺激と反応もしくは要請と応答になることができるだろう。このことが了解されてはじめて、一次と二次が分裂しうるのである。

この論の運びは私の基本的なシステムとして確立されている。

だから別に意識しなくてもできる。要は段差とその段差の構築を問題にすること自体が段差の構築を問題にすることであるという運びである。

まあ、これは突き詰めていえば、「一次的な物事をそれとするためには二次的な物事を作るしかない」というある種の人間の性。悲しいそれゆえのことであると思われる。

だから非人間は悲しくない。非人間というのは「一次的な物事をそれとする」ことをしない人たち、そして「しない」という解釈をナンセンスだとする人たち、無視する人たちである。

この「非人間」というのはドゥルーズのテクストかドゥルーズに関するテクストか、どこかで見た以来気に入って使っている。出典を明確に示すことはできないのだが。

一つ。私のとこに集まり、そして一つの光となる。光を放つ。光が踊る。

電車で前の両を見る。意外と揺れている。もちろん私の身体も揺れている。しかし、思ったよりも揺れている。

ゆるやかさ。一つの価値。

結局ね、人間になるためには媚態が必要。

だからね、「媚態じゃん」と言うだけじゃあ能がない。もちろんそれを言い続けるのが、言い続けてしまうのが哲学だと言われればそうなのだが。

2024/2/18「ねばだじゃばら」

うん。それは運だね。実感にグラデーションがあるだけで。「それ」というのは……。

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