『ぎゅるぐるの放浪』

2024/3/4「ぎゅるぐるの放浪」

なんというか、ぎゅいんとイメージだけで入ってきている何か、それに表現を与えていく。栄養になるように、そして、綿密になるように。もちろん、ここで言われていることは一つの寓話である。イメージから表現へ、という寓話。

栄養とか綿密とか、与えるとか、そういうことは寓話ではない。ただのレトリックである。

私はある程度身体が弱い。もっと弱い人もいるのだろうが弱い。だからこそ考えられることがあり、だからこそ理解できることがある。私はそう思う。

もちろん「弱い」なんてことは個人に帰せられることではなく社会に帰せられることであるとも言えよう。しかし、事実しんどいとき、頭が痛いとき、どうしようもなく頭が痛いとき、お腹が痛いとき、そういうときがある。それは問題提起にすらならない。問題ということ、そしてその限界、それを理解すること、考えること、それにしか繋がらない。けれど、そういうことが大事だとも思う。

私はおそらく私の最たる才能は「形を楽しむ」ことにあると思う。ここでの「形」はたとえば「配置」のことであり、たとえば「弛み」のことであり、たとえば「韻律」のことであり、たとえば「超越論」のことである。そして私はそれらを「楽しむ」。それらによって私は「賦活」に向かうのだ。

私の、散り散りになった、なってしまったそれを集める、集合の合図として「賦活」という概念は、活動は存在する。それゆえ、これはまるで聖なるもののように扱われるかもしれない。しかし私は思うのだ。それならいつも、日々の中にこの可能性は存在していて、それが「生活」の根拠であると。

「読む」というのは自己表現である。これはポジティブでもネガティブでもないことである。ただ単にそうなのである。自己を表現するし、表現してしまうのである。ここでの「読む」は「解釈する」に近い。

哲学を学ぶことの一つの長所として緩やかな喜びということが挙げられるように思う。ここで「緩やかな喜び」と言われているのは緩やかな分離による綿密化の喜びと言ってもいいかもしれない。それゆえに「綿密化の喜び」、例えば自分について、世界について、他者について、より接続しつつ切断されより切断されつつ接続すること、が喜びと呼ばれない人、その人には少なくとも私の知っている哲学の長所はわからないだろう。もしそれがわかるならばおそらくそれは「緩やかな分離」によるものであると考えられる。「緩やかな分離」というのは例えばヘーゲルという哲学者の議論がヘーゲル自身の議論やヘーゲルに関する議論でわかるようなわからないような状態にあったとしてもその後に学んだ、例えばラカンやバタイユ、メルロ=ポンティなどの議論によってめりめりっと際立ってくるということを指す。もちろん、これらは他の学問も大して変わらないだろう。しかし、ここで重要なのはむしろ「緩やか」であるということである。これは言い換えれば、少しくらいわからなくてもいつかわかるようになるという、力の入っていないメシアニズムのような、そんな「緩やか」さである。私は正直他の学問を真剣に勉強したことがないのでわからないが、この性急さのない救い、生活を掬い取り、それによって変わってゆく私の変容、「緩やかな」変容、私はそれが喜ばしいと思う。結局、この「喜ばしい」の肯定にすぎないのかもしれない。しかし、それで大いに結構。そういうことが哲学の長所なのである。

うまく言えなかったが、これは哲学がまだ他の学問と分離されていないからである。ただ、星雲はここにあり、星座は潜在している。それが顕在するのはいつかわからないし、しないかもしれない。しかしそれでもいい。そのような気持ちである。

哲学することにとって理論とは何か。それは一つの手がかりであり、一つの宣言であり、一つの前言である。それは哲学することによって掴まれ、見つめられ、撤回される。

「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」という言説について考えてみよう。

「緩やかな喜び」と「性急な喜び」。「緩やかな喜び」の一つとしての「性急な喜び」。

「方法」というのは直観を充実させる仕方のことである。それゆえに直観そのものの変化は掴めない。つまりそれは変容である。その変容というのは充実された何か、例えば作品同士の関係から理解される。ただ、「理解される」というのは同一性を基底とすることでもあるからもはやそれは変化であるとも言える。

表現することというのは偏りによってなされる。表現し続けることというのは癖によってなされる。ここには瞬間と持続の関係がある。

「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」というのはある意味で反省意識の執拗な追跡であるように思われる。し、反転させれば、そのような反省意識を働かせるということへの価値判断であるようにも思われる。

仮に「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」の○○に一般には好ましいとされていることを入れてみるとすれば、その言説はおそらく極めて両義的になるように思われる。そしてその両義性は「自分」ということの、または「自己肯定」ということの可能性と限界を見せてくれるように思われる。このことは例えば『正欲』という小説で表現されているとも言えるかもしれない。

「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」の「○○が好き」はおそらく「○○している自分」が反復された結果であるように思われる。しかし、おそらくこの「○○している自分」が見つけにくくなった(この「見つけにくくなった」には「見つけたとしても見つけていないことにされる」ことと「見つからない」こととの相互作用が見られるだろうが、置いておく。)ことによって「○○が好き」と「○○している自分が好き」が近づきすぎてしまっていて、そのことの表明、もう少し強く言えば喘ぎなのかもしれない。

私自身の話をしておくとすれば、私は○○に一般に流通していること、そして好ましいと思われていることを入れない。というか、そもそもそういうことにあまり興味がないので入れられないので大して言説と関わりがない。もちろん、これも悟ったふりだとか、そのように自分で見ているだけの「ナルシスト」だとか、そういうことは言えるが、私はそのように言えるとだけ思っている。私は例えば○○に「形を楽しむ」とかを入れたいと思うが、それを入れたところでそれがよくわからないから言説に取り込まれようがないのかもしれない。もちろん、おそらく元々の素っ気なさゆえなのかもしれないが。

「猫が好きなのではなく猫が好きな自分が好き」とか、そういう話はよくわからない。これと対比されうるとすれば、「子どもが好きなのではなく子どもが好きな自分が好き」とか、そういう話があるかもしれない。後者の場合は規範として家族やらジェンダーやらが見出せるかもしれないが、前者はなんなのだろう。例えば慈しむ気持ちとかだと大きすぎてよくわからない。ただ、このわからなさは「形を楽しむ」とはまた違ったもので、ここでのわからなさのほうが人間讃歌的であるようには思える。まあ、これらがグラデーショナルにそうなのか、それとも構造ごと区別できるのかはいまのところはわからない。

「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」がただの事実の描写だとすれば、言い換えれば皮肉や批判ではないとすれば、ある意味で身体性の回復というか、偏りや癖の肯定というか、そういう言説であると読むのが普通な気がする。いやまあ、無理やり言説として読むとすれば、だが。

どうしようもなく好きなものがある人は素敵である、みたいなことが講じて生まれる危険性みたいなことについては『暇と退屈の倫理学』に議論があった覚えがある。ただ、複雑で書くのが面倒なので書かない。とにかくあったことだけ告げておこう。

理由がない好み、一種の狂いを求めるくせに狂いが怖くて理由を求めてしまう。すべての言説の根底にはそういう機制が働いているのかもしれない。

私にとって新鮮な考察というのは新しい構造の描出である。そして、もう一つは新しい具体性の充実である。「新しい」を取り除けば私の標榜する「構造」やら「具体性」やらが少しは表現できるかもしれない。しかし、「具体性」の方がかなり困難な作業であるように思われる。

振る舞い/行為という、私の対比。

表化することのできる議論。というか、「議論」というのはそういうものである。いや、「議論」として理解されるそれはそういうものであるということにされるしかない。

考えすぎると動けない。それは真実である。私たちは多すぎる他者を知り、それをちゃんと知るためにといって形式性を高める。それは最初は具体性への捻り、そして最も成功したものでは償いである。しかし、その由来は忘却もしくは変形され、私たちは形式性を楽しむことに向かう。なぜか。私たちは他者が多すぎることを反復して知るしか、それでしか自らを防衛できないからである。

他者が存在するという吐き気。世界に道徳などありえないというような、吐き気。

物を変容を垣間見せるための道具と化すこと。あれについて考え直してみたい。それが可能なのはそもそも物が同一的であることがありえないことによってなのではないか。

逆説が最も理解に資する。こういう逆説がおそらく、あの物の使用には存在するように見える。私たちはいつも変化しか知らないが変容を知るためにはそういうことをしなくてはならないのである。

反転によって自らを意味づける。私にはそれ以外の方法があるとは思えない。表現においてはありえるかもしれないが理解においてはありえないのではないだろうか。

このことを先鋭的に、およそ二年前の私は「概念は反転によってのみ意味づけられる」と言い放っていた。というほど言い放っていたわけではないが、ある人と、いや、ある人たちと話しているときに「概念って反転だと思うんで、うんたらかんたら」みたいに言った記憶がやけにある。なぜだろう。

トラウマという現象、私はその形態に興味がある。なんというか、興味があるだけだが。

考えるというのは自己防衛のために始まるのではないだろうか。しかし、「自己」も「防衛」も「自己防衛」もやはりかなり所属集団や所属地域の風習に合わせる形でなされているからとりあえずそこから身を引き剥がすことが考えることを考えることである。しかし別にこれらを偏見だとか言って批判する必要はとりあえずはない。なぜならそれがないと考えられないし反転しないからである。

ある作品を読んでいてある触発を受ける。これは当たり前のことであるが、これはとても不思議なことでもあるように思われる。この秘密を知りたい。これを秘密にしておきたい。

触発を受ける、というのは大抵軽薄に見える理由によってなされる気がする。例えば、レヴィナスは「生き埋めにされることへの恐怖、言い換えるなら、死者は十分に死なず、死のなかでもひとは"存在する"のではないかという猜疑、これがエドガー・ポーの根本的な情緒である。」(『レヴィナス・コレクション』220頁)と書いている。私はこれに触発された。一方ではレヴィナスの文章の中の「亡霊」に関する議論に惹かれたから。もう一方では「生き埋め」というテーマで小説を書いたときに「猜疑」ではなくある種の「諦めた恍惚」のようなものとして書いたから。前者には背景としてあるラッパーが「飛ばした首が俺を見張ってる」というリリックを書いていたことと村上靖彦が「亡霊」について議論していたことが挙げられる。後者に関しては筆が躍ったらそうなっただけで特に背景は思いつかない。ないわけではないが。こういう止まり木みたいな、そういう性質が触発にはある。たまたま多数を横断するような文章だったということである。簡単に言えば。

このことと関わって千葉雅也が「変人の周りに人が集まってきて、それがマグネティックにつながっていくというのは、確かフーリエが言っていました。フーリエによれば、変人というのは複数の要素を兼ね備えているから、それが媒介になるんです。特定のフェティッシュにこだわる人たちが集団を成すんですが、そのなかでもとくに変態と呼ばれるのは、複合的変態なんです。つまり、別の変態集団を股にかけることができる。そういう人たちが点在することによって、ネットワークができると。
類似する個性が共鳴することで部分的なアソシェーションが生じて、近いところからつながっていく、ヒュームぽいモデルですね。偏った共感の拡大ですから。」(『思弁的実在論と現代について』271頁)と言っていたことは参考になるかもしれない。共感ってそもそも偏っている気がしますし。

偏らない理解ってよくわからないんですよね。これは相対主義的な主張に見えるかもしれませんが、それだけではありません。理解ということにそもそも偏っていることは条件として含まれているのではないかと思うんです。

偏りと強調のパターン。哲学者と文学者。

表現のコツってよくわかりませんよね。私は伝わるかなあと悩むよりも私に素敵に伝わるにはどうすればよいかを考えるみたいな感じにしていますが、よくわからないですよね。

私は私の哲学と文学(受容と表現とか、理解と表現とか、そういう言い方にも重ね合わせられる気がします。ある程度。)が矛盾しているのを感じます。いや、口が滑っちゃってるだけかもしれませんが。

映像化できそうなものを書かない。哲学というのはそういうことなのかもしれない。

いやまあ、うーん、不充分というか、うまく扱えないね。私には。

満足したものを書けない。しかし眠い。明日のことを考えると寝たほうがいい。そして寝ようとすればおそらく寝れる。なのになぜ寝ないのか。わからない。

まあ、今日は寝よう。書くことは意外とないのかもしれない。いや、初めからそうなのかもしれないが。

2024/3/5「まちまちに待ちに待った」

「ことにする」という力。それはすごいのだが、実はあれは思われているようなものではないのか、という思いとそれならば特にすごくないのかもしれないとか、すごいところは別にあるのかもしれないという思いとがある。

VRで旅をすることと旅する映像を見ること、旅行記を読むことはどのように違うのだろうか。

手をほとんど無意識に動かす。動いていることは知りつつ。これはなんというか、非常に爽やかなことである。

強い関係(言いたいのは「相互関係」だがこの「相互」とやらの条件に気を取られそうなのでとりあえず「関係」とだけ書いておく)をもたらすのは問いであり、それが要請となることである。

表現でないような受容はありえるだろうか。ありえるとすればそれはどのような条件においてありえるか。

私は哲学をすることで常識人になった気がする。なんというか、常識のおかしみをおかしみとして処理できるようになった気がする。

テーマを強調すればするほど、テーマにおける対立の相互依存関係は強まる。いや、逆も言えるかもしれない。相互依存関係が強まれば強まるほどテーマが強調される、と。

哲学者が「哲学する」ことを「教える」とすればそれはおそらく「君は君の偏りによって考えなさい」ということになるだろうと思う。「私もそうしているし、そうするしかないのだから。」と言ったりもするかもしれないが、本質的な教えは「君は君の偏りによって考えなさい」ということ以外ではないように思われる。

もちろんここでの「偏り」というのはスケールにかなりの違いがある。「癖」と言えるような「個人」に依存するようなものもあれば、「流行り」と言えるような「時代」に依存するようなものもあれば、「偶然」と言えるような「現実」に依存するものもある。しかし、それを掴んで、それに掴まれて、それによってしか私たちは考えられないのではないか。そう思う。

哲学者のある種の貪欲さというのはこういう経験から生まれるのだろうと思う。ここでの「貪欲さ」というのは例えば、極端な例で言えば、親しい人が死んだときの自分を使って考える=表現する、みたいな「貪欲さ」である。もちろん、誰でもそういうときは考える=表現するしかないのだろうし、そうとしか理解=受容されないのだろうが、それを一つのチャンスだと思っている、思ってしまうのが哲学者なのである。そういう「貪欲さ」がある。これは確信である。そしてそれは上に書いたような掴み掴まれの経験からの学習であるように思われる。

もちろん、それぞれの哲学者の「偏り」やら「癖」やら「偶然」やら、そういうものは仕方のないものというか、そういうものである。言い換えれば、それぞれの哲学者は考えざるを得なかったのである。そう思う。いや、そう思えるような人が哲学者である。広義の哲学者かどうかはわからない。

「流行り」については後から振り返られるというスケール、それが大きくてよくわからない。し、正直あまり興味がない。というか、興味があるとしても考察対象としてというよりも賦活の道具として興味がある。

「貪欲さ」は得られなかったものを記憶することとしても表れるように思われる。というのも、「貪欲さ」は成就しないことがあり、そのことはよく覚えられているだろうからである。それがその哲学者なり文学者なりのテーマとなるのかもしれない。

そう思うと私の書いているもののテーマはなんだろう。私が思っているというか、公言しているのは「アパシー」とか、「賦活」とか、だろうか。この二つは大抵「アパシー」に対する根本的な対処法としての「賦活」みたいな関係にある。だからここまで言われている「癖」やら「偏り」やら「偶然」やらはチャンスなのである。そのチャンスである度合いがより強調されているとも言えるかもしれない。私の書いているものでは。

もう少し文学に塗れてみたいという、そういう感情がある。しかし私はどうしても哲学的チャンスだと思ってしまって、文学を読んでいるときに、だから疲れてしまう。また、単純に他人の書いた文章は疲れる。なんで疲れているのかはわからないが疲れる。単純に集中力がないのか、ただ別に哲学ならある程度長く集中して読めるのだ。よくわからない。何が違うのだろうか。

処理することが違いなのかもしれない。哲学というのはある意味で処理されている。分析にかけられたものが出てくる。しかし、文学はそうではない。むしろ逆処理されたものが出てくるとも言える。というか、私が「文学」と呼ぶのはそういうものであり、そうではないものはそう呼んでいないとも言える。つまり、私はおそらく逆処理に打ちのめされているのである。強すぎる刺激ゆえに反応できず、強すぎる要請ゆえに応答できない。そういうことの連続に疲れるのだと思う。

私は自画自賛をする。しかし、それは「自画自賛」の二つの「自」が分裂しているという感覚がかなり強いからである。いや、もしかするとナルシシズムの言い訳なのかもしれないし、ただの振る舞いなのかもしれないが。

だからなんというか、「自画自賛」というよりも「誰画偶賛」みたいなことが私のしていることだと私はかなり本気で思っている。誰かの作品を偶々賛美している。その賛美に「自」が現れている。そういう感覚である。

自己表現というのは自己があってそれが表現されるのではなく表現があってそれを受容することなのである。自己はどこにもいないが外からやってくる。

どこにも可能性は広げうる。だから「偶然」は入り込む。しかし、それはある種の勇気の前提条件である。

ここまで書いてきたようなこと(どこまでを指しているかはよくわからない)が「肯定」として受け止められるのはなんだか、少し不満ではあるが、別にそれでもいい。なんというか、それならそれで受容や表現に繋げてほしい。そうしないために「肯定」がテーマだとか言われたら嫌だ。

極めて私っぽい答えは「そもそも「自己を肯定するか否か」という「問い」がなければそれに対する「答え」もない」みたいな答えであるように思われる。「肯定」に関しては。そもそも「自己肯定」の「自己」がなんなのか、私は全然わからないのだが。だからなんというか、「私っぽい答え」みたいに演技的になればこう言えるというだけである。

私は別に演技ではない真実があるとかは言っていない。あるとしてもそれは演技の奥に見透かすしかない。演技を退けたら見えるようなものではない。演技を通じて見ないといけない。これが「言語」によるものなのかを考えたのはウィトゲンシュタインだと思うのだが、それだからこそ逆に「言語」による可能性を開いていたというか、それだからこそある意味の実存哲学性というか、そういうものがあったように思われる。もちろん、これが本来なのだと言うこともできるのだろうが。

かなり前に「幸せってなんですか?」みたいな質問というか、お題に「幸せなふりをすることではないでしょうか。」みたいな回答をしたときにある先輩が「いや、そうやなあ。言い切るのはすごいなあ。」みたいなことを言ってくれた。そのことをいま、なぜか思い出した。私にはその人がそれに賛同したことというか、それが意外で覚えていたのだけれど、なぜか思い出された。「ふりをする」というのはなんだろうか。

「ふりをする」というのは「ふりをしていた」と判明するものなのか、それとも「する」時点で既に「ふりをしている」になっているのか。私にはよくわからない。そんなに考えてない。

私はなんというか、大抵のことを「そんなに考えない」と言いがちである。思いがちである。なんというか、だからこそ「後付けでしょ」みたいに思いがちである。言いがちである。「ふりをしていた」というのも「後付け」である。「ふりをする」というのも「後付け」であるように思われる。

だからおそらくその先輩はこの「後付け」への感性を嗅ぎつけて、おそらく人間の底にあるような虚構性が強調されているように、表現されているように思われて「そこまで言うかね。」みたいに思って、その先輩の心底にある何かが浄化されたような、そんな顔をしていた気がする。これはかなりの「後付け」だが。

私には、私の表現にはある意味「救い」がテーマとしてあり、それゆえに「浄化」みたいなことがテーマとしてあるように思われる。ただ、これは宗教的すぎて書いていない。あまり。私は他人を教化しようと思わないのだ。これもまた一つの教化に見えるかもしれないが、それはあなたがそう見ているのである。

哲学者が「哲学する」ことを「教える」とすればそれはおそらく「君は君の偏りによって考えなさい」ということになるだろうと思う。「私もそうしているし、そうするしかないのだから。」と言ったりもするかもしれないが、本質的な教えは「君は君の偏りによって考えなさい」ということ以外ではないように思われる。

私はこのように上で書いたが、私は教えないということに偏っているのかもしれない。とりあえずここではたまたま「教化」ということがテーマだったからそう言える気がする。「偶然」そういうテーマがあったから。

この運動は必然化と偶然化の運動に見える。必然化していくと教化に近づき、そうなると私は嫌になって偶然化していく。そしてそれ自体も教化に近づき、そうなると私は嫌になって偶然化していく。そういう運動があるように見える。そしておそらく「偶然化」のうちよく扱うもの、つまり私の「癖」に引っかかるものはある程度理論化されていくのであって教化とはある意味で疎遠になり、いや、そうなるように願うことが理論化であり、そういうことがなされるからこそ私の哲学としてはそれらが残るのだろう。理論が教説になろうと知ったこっちゃない。

この運動の全体を覆っているのは現実と可能性の対比である。それが様々に反復されている。上での運動の描き出しは方向に依存している。かなり構造的な描き出しである。しかし、この構造と力動の対比はおそらく理論化とも教化とも別の話である。私はそう思う。もっと普遍的なものであると言えばそうだし、もっと個体的なものだと言えばそうだろう。

そろそろ眠いので終わる。私はみんなに哲学をしてほしいわけではない。が、このように書いている時点で既に表現されてしまうことがあるのである。そしてそれはプラスでもマイナスでもない。ただ単にそうである。私はアパシーを演じているのか、そのように言うことで逆にアパシーを癒しているのか。賦活しているのか、私の人生やら実存やらを。私は知らない。あなたは知っているかもしれないが私はそれをどうでもいいと思っている。知りたいとは思っているが君には教えてもらいたくないのだ。

2024/3/6「咳をすると一人」

誰かと共に考える。もっと積極的にそうすれば良いのに、そう思う。私は君にそう思う。君はなぜ、ある種の遠慮か恐れか、それを抱いているのかが私にはわからない。思ったよりも自分が凄くないとか、そんなことなら君はどうでもいいと言うはずなのに。

君が決めることではない。私は私の仕方で考え、表現する。だから別に君がなんと言おうと私は私のやり方をする。し、それしかできない。ただ、忠告はしっかりと受け取っておくよ。

ヴァレリーが早起きして何かを書いていたことは、彼が(私の記憶では)「非社会的な時間」と呼ぶ時間に書いていたということは、今となればかなり重要なことであるように思われる。特に私は彼の「錯綜体」という概念に知らず知らずのうちに影響を受けていて、今あらためてこのように確認してみて最近私が発見した「多面性、多面体性、多次元性」という三つの「多」の中間に留まろうとする、そんな力をヴァレリーに感じ直したところだが、彼の留まりはおそらく社会と関わらないこと、もちろんそういう時間もあるがそういう時間ではないときに書き、考えていたこと、それに由来するのかもしれない。

哲学者が均衡のメタファーに辿り着くのはおそらく、それが哲学者が哲学者たる所以のところであるからである。理論による制圧に寄ればおそらく哲学は成り立たず、現実による制圧に寄ればおそらく哲学は成り立たない。どちらも生きているからこそ、回帰ではなく存在するからこそ、哲学は存在する。このこと自体を用いて哲学を翻案することもできるだろうが、私はそんなことに興味がない。

練り出しているような、そんな哲学。文学に見えるような哲学がある。私はあれにある種の憧れ、表現者としての憧れを感じるときがある。

自問自答でしか問答は存在しない。哲学者の確信はそういうことにあると、そういうふうに言えるかもしれない。

「私の生活」なるタイトルの、モノを書いてみたい。モノをわざわざカタカナにしているのは、特に深い理由はないが、私はものに静かさを、それと同じことだがリズムなり形態なりを見るのが好きだから、そうしている。

このようなモノを書こうとしているのは洗い物をしているときにモノが高じてきて、「生活」なるものが理解できたような気がしたからである。

理由をできるだけ挙げてみよう。私は「経験」というものになんとも言えないねっとりとした、存在することというか、そういうものを見る。時もあれば、おそらく「観想」などと呼ばれるような、そんなことをしている時もある。ここには「疲労」が純粋な形で関係していて、私はそれも知りたいのだが、「経験」を知りたいというのがとりあえずは大きなテーマである。

とにかくなんというか、今日は洗い物がしたくてした。そしてなんというか、妙に流動的な、そんな気分になっている。もちろん、「生活」をこのようなある種の愉悦というか、そういうものに縮減することは、非倫理的なことかもしれない。が、そのような言を聞きつつ、私は「生活する」ということを知ることに向かっていきたいのである。

尾崎放哉に「昼寝起きれば疲れた物のかげばかり」という句があり、なぜか最近思い出したのだが、私はむしろ寝起きが一番はっきりとしていて、うぬうぬと、昏睡的に生きているのはいつなのか、わからない。夜も夜で冴えているし、難しいところだ。

とにかくご飯の時間が来たので食べようと思う。

どうせ一つの線となる。私はそういう耽溺を知っている。知とは本質的にはそういうものであり、「一つの」と言われるときまさにそれ以外のものは示唆されるのである。

場-化というのは一つの結び目である。「一つの結び目」である。ここには重畳されている。「一つの」ということが。主体-化というのは一つの流線である。「一つの流線」である。ここには描出されている。「一つの」ということが。

私はゆったりとした、そして精悍な人間になりたい。

私の「生活」は「読む」と「書く」の繰り返し、連関である。ただ別にそれは一つの典型的なヴァリエントであり、根本的には「受容」と「表現」の繰り返し、連関である。しかし、「生活」とはおそらくそういうものなのであるから「私の生活」とは言い難くなるのである。しかし、そもそも言い難くなったからなんなのか、ということもある。

なんというか、私は「生活」に対して具体的なイメージがなく、ただ単に概念化された習慣のことをそう呼んでいたのだが、最近なぜかそれがわかっていくような気持ちがしているのである。この変化の一因はウィトゲンシュタインからのある種の離反にあるのかもしれない。(後期)ウィトゲンシュタインには「生活形式」という概念があり、私はすぐさまそれを思い浮かべることはなくともどこかで「生活」とは「生活形式」のことであると思っていたのかもしれない。いまはそれから少し距離をとって、塗れることができている気がする。

2024/3/7「享楽し過ぎになるって?」

「具体性の補充」という反転したように見える議論の仕方は私の、一つの戦略である。形式に供される具体性という描像への反抗である。

スローモーション。動く身体。私はそれを感応する。そして私はなぜか、生活ということがわかったような気がする。

新しいものがそれであるとわかるというのは対比によって新旧が充分に示されるということである。言い換えれば、新/旧という対比にあるものとそれと対比されるものが開発されるということである。

理解は確かに一種の暴力であるが、暴力から身を護るのも理解であるように思われる。

言っていることはわかるが他人の分際で喋るな、と思うことがある。それはたしかにあんまりなことかもしれないが、これをちゃんと育てて議論を成り立たせるためにこれを抑圧したり放棄したりしてはいけない。

「わかんない。運が良かったからかな。」というのは謙遜でも諦めでもない。どうにもならないことはならないし、なることはなる。現実というのはそういうものである。

「偶然性の自覚が深まれば深まるほど、倫理的に振る舞うことが可能になる」ということが言われていた。そこでの「倫理」を私は「道徳」との対比で考えていた。が、いまはそれに加えて「倫理」と「生活」の関係からその対比を考えるということを知った。いや、知ろうとしている。

私はたまに思い出す。私が随分前に書いた、「愛」について、そしてそれに対する私の才覚のなさについての詩を。時折軽く触れてくる問いを私はサッと処理し、今日も先に進もうとしていることすら隠して生きていく。

私は私の中に非情さを見出すとともに、そのことを悲しむ私も見つける。しかし私はそのことを哲学的発見によって隠している。ようにも見える。真実は知らない。わからない。どれもが真実ではあるのだから。

君も一人なのか、街路樹よ
いや、君は一人ではないようだ
なにせ私が見ているのだから
なにせ君は美しいのだから
しかも君は街灯で美しいのだから
こんなにも単純に美しいこと
私は君に何を見ているのだろうか
いつ見ても君は美しいが、私はなぜ君を美しいと思うのだろうか
いつ見ても美しいというのは不思議なことだ
けれどそれは嘘じゃない
いや、嘘なのかもしれない
けれど美しい。君は美しい

人間的な工夫を可能にするのは「余地を作る」という矛盾した実践である。

しかし別にそれは曖昧な認識によってなされるわけではないし、明瞭な意識によってなされるわけでもない。それは作品を作るという、そして「作った」と言うことによってなされる。

「一つの」というのは「複数である」を呼び込むし「複数の」というのは「一つである」を呼び込む。この運動を支えるのは私の努力である。

あれが嫌い。これが嫌い。そうやって言うのはいいが、それを大雑把であることの免罪符にしてしまってはいけない。

私の場合嫌いというよりも忌避と呼んだほうがいいかもしれないが。

近すぎて、遠すぎて、よくわからない。しかも困ったことに近いかどうかの判断も難しい。

2024/3/8「帆」

私は私の快楽を知りたい。「汝自身を知れ」というのはおそらくそういうことである。私はそう思っている。しかし、「汝自身を知れ」は実は次善策なのではないかとも思っている。私は私の快楽ではなく快楽を知りたいのだから。人間としての快楽と非-人間としての快楽。私はその二つを持ち続けたい。し、それぞれでより豊かにしていきたい。この活動の全体が「享楽」である。だから緩やかで刺激的で、そんな活動を標榜するのである。

昔、悟り体験に関する本を読んだ。その本では「悟った」という瞬間、それがいかなるものだったかが羅列されている。私がそこに羅列されている多くの体験の中で一番真実的だと思ったのは「襖が閉まる音で悟った」という体験である。

私は私の中に怪物やら狂人やら天才やらを見つける。それらは私の私に対する制御できなさ、擁護できなさ、わけわからなさの思いである。

享楽と快楽は何が違うのだろうか。私はそれを存在論的差異のバージョンの一つであると思っている気がする。

「狂人」というのは「狂った/ている人」である。だから、私は私の中の「人」に収まらない、割と卓越していると思っている弁護術でも弁護できない、そして半分くらいは弁護したくもない、そんな性質(?)を「狂人」の「擁護できなさ」と呼んでいる。

比喩の豊穣なる、滞在。私は滞在するのだ。一つの形のもとに。私は凝集するのだ。一つの形のもとに。

したくなくてしていないこととできなくてしていないことはよほど極端な例を除けばほとんどモザイク状に分布している。

私は「考え始める」ということを基本的な体勢として取っているから怒られていても褒められていても素直に受け取っていないのである。それらを。

だから「振る舞っている」という意識が強い。が、別に「演技している」とは思っていない。本心を信頼していない。自分のものに対しても。

というか、本心の手前みたいなものは信頼しているが「これが本心です!」みたいなものは話半分で聞いてしまう。

だから「心を読める」キャラクターがよくわからない。本心の手前はほとんど読めないだろうし、「これが本心です!」は問いなしには生起しないと思うからである。

だから、そういうキャラクターを受け入れるとするならば、問いが恒常化していると考えるしかない。しかし、私は問いは自分で仕立てたいから受け入れられない。

私はかなり前に「問いを仕立てる」ということについて考えていた。し、いまでもたまに考えている。「問い」と「仕立てる」はミスマッチ感があってよい。私はそれほどミスマッチだとは思わないが。

私は私を賦活しようとしているだろうか。真剣に賦活しようとしているだろうか。していないように見える。私には。特に計画的な賦活が苦手なように見える。

その通りである。し、君に「計画することは賦活とは相容れない」と言ったところで「いやそれは大雑把すぎる。相容れるものもあるにはあるだろう。」と言われるのは目に見えている。もちろんそうなのである。

私は怠惰をそれほど悪いことだとは思わない。もちろんシオランまでは行かないのだが、別に行っても構わないくらいには思っている。

「欲しいものがない」と私たちは言い合っている。遠慮して言っていないと思いたがりながら。私は。君ももしかすると「君は金欠だからなあ」と思っているかもしれない。まあ、これは私が思っているだけで、互酬性を想定しているだけかもしれない。

「欲しいもの」って難しい。でも別に「欲しいもの」が欲しいとも思わない。「欲しいもの」がある人に憧れることもない。これが『暇と退屈の倫理学』を受け入れることによって形成された価値観なのか、そもそも元々あった私の価値観が整理されだけなのか、それはわからない。し、別にそういう拠点があることを知っているだけで、少なくとも私は充分である。

「悟ってしまう」という危機感。それがある。この危機感は何に由来するのか。最近私はわからなくなっている。だから私は惰性で「悟ってしまう」とあわあわしている。あわあわしているふりをしている。

「ふりをしている」と「している」の差は何か。そんなものはない。こともない。

いわゆる哲学的ゾンビの問題であるが、私はその問題がどのような問題であるかがわかってもその問題が問題であるという実感が湧かない。

なんというか、「わからないんだろうなあ」というか、「〜すぎてわからない」というか、そういうこと。それによって私は安心する。し、それをわかろうとして倫理的になる。そういう感じがする。

何回消しただろう。私は書いたものを。なぜ消したのだろう。もはや覚えていない。

2024/3/9「ちゃんちゃんこ、S」

予期しかできない未来についてはくよくよしても仕方ない。私の閾値は調べて得られる幸不幸を超えてしまっているからである。

結局未来の私が意味づけてくれるだろうという、それぞれに偏った未来の私がそうしてくれるだろうという、そういう確信。それによって私はいわば護衛されているのであって、私もまた過去の私が書いたものや考えたことに対して護衛しているとも言えるのである。

わざわざ対立するのなら素敵に対立したい。これが私の欲望である。

しょうもないところにきらりと一つ、煌めくような物語を。詩性を。

なんというか、身体を透明にした議論というのは成り立たないように思われる。私たちは個別の身体を生きている。そしてその個別性は精神の、そして議論の風向きにもかなりの影響を与えている。私にはそう思われる。もちろん「身体」とか「精神」とか「議論」とか、そしてそれぞれの関係とか、考えるべきことはあるが、人間というのは「要請-応答」によって成立するだけでなく「刺激-反応」によって成立することが大いにあるように思われる。

ちなみに私は「身体」と「精神」を「刺激-反応」と「要請-応答」に類比して理解できるのではないかと思っている。

ただこの理解も「身体」と「精神」によって理解されるとも思っていて、さらに非常に重要な観点であるとも思っている。

私の根本にはおそらくレプリゼント批判というか、ただの嫌悪というか、そういうものが隆々と存在する。代理表象をそれ以外としては考えまいとする、そういう決意がある。だから私に帰属させられうる性質を「○○は××である」みたいに代表されると「お前がそう思っているだけだよね。」と言いたくなる。もちろん、そういうことは制度的には必要なのかもしれないし、そもそも言語活動はそれを容認することを前提に組織されているのかもしれない。しかし私は嫌なのだ。

2024/3/10「不変の三」

満足した。そんなことをわざわざ言う。

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