「言語化」とはそもそもなんなのか

 私はかなり「言語化」しているタイプだと思う。一日少なくとも五千字くらいは何かを書いているし、本を読まない日はほとんどない。多くの場合は二、三冊は読む。もちろん一日で通読するわけではなくある程度の期間で通読するのだが。そんなことはどうでもよくて、今日は「言語化」について考えたいと思う。

 まずは二つのことを確認したい。一つはこのようなことを書く理由である。その理由は端的に言えば、ある知り合いが「人生」(もしくは「老い」)について考えているときに現れていた私と彼との相違を「言語化しよう!」と提案してきたからである。別にそういう提案は大して珍しくないかもしれないが、私は何となく「変な表現だな。」と思った。それが理由である。この「変な表現だな。」が何を意味しているのかを考えたいと思ったから書き始めたのである。もう一つはこのように書く理由である。私は特に誰の文章も参考にせずここから書いていこうとしている。バイクに乗って家に帰っているときに「言語化」について書くということは決めた。そしてその書き方として「言語化」というテーマでnoteに投稿されていて人気のある(簡単に言えば「スキ」の多い)文章をまあ、五つくらい読んでから書こうと思ったのだが、思ったよりも面倒くさそうだったので何も考えずに書くことにした。もしかするとこれは準備作業で後から読んで書くかもしれない。何か、納得できないことがあればそうするだろう。なければおそらく、もう一度考えたい、ということがない限りはそうしないだろう。
 このように確認した上で思ったのは私の言う「言語化」はもしかすると「差異化」に近いかもしれないということである。もう少し言えば、曖昧な差異を明確な差異として強調することとして「言語化」という表現を用いることの不思議に対して思うことがあるのかもしれない。そしてその思うところというのは端的に言えば「言語化」には「差異化」と「主題化」があり、それぞれはそれに関わる人、書く人でも読む人でも話す人でも聞く人でも、そういう人たちに「主体化」を求めると思うのだが、その「主体化」とは何かがあまりに限定されて理解されてはいないだろうか、というようなことであると思われる。そしてその限定というのはおそらく「コメンテーター」としての「主体化」というふうに言えるだろう。もちろんこのような見立て自体が的外れな可能性も存分にあると思うが、その可能性は危険性でありかつ創造性でもあると信じて進んでみよう。
 まず、「言語化」にある「差異化」と「主題化」の作用について考えよう。「言語」というのはそれが「理解」される限りではおそらく対比とその対比を成り立たせる事柄とによって成り立っていると考えられる。言い換えれば、「言語」というのはそれが「理解」される限りでは相違点と共通点によって成り立っていると考えられる。相違点の点が対比であり、共通点の点はその対比を成り立たせる事柄である。例えば、赤と青であれば色という共通点とそこでの色彩という相違点がある。赤と青という対比を成り立たせる色という事柄がある。この色も例えば形と対比される。これは例えばこの二つがある物体の属性という共通点を持つからである。ここまで挙げたのは比較的共通認識として理解できることである。でも例えば、キャッチーな例で言えば、犬派と猫派という対比はそれを成り立たせる愛玩動物という共通の事柄と好みという共通の事柄があると考えられる。この愛玩動物の方は色や物体の属性と同じような事柄、共通点であると思われるが、好みという事柄は対比を成り立たせる事柄ではあるが共通点というよりはむしろ共通の話題であると考えられる。このことをまずは区別しておこう。共通点と共通の話題。後者には前者と違って好みというような、言うなればそれぞれが異なることを含む余白がある。(もちろん、アポリアの問題を考慮すれば前者にも余白は存在するが、一般に余白が存在すると考えられているのは後者であろう。)しかし、これらも対比を成り立たせる事柄であるという意味では共通している。し、これは別にそれぞれが異なることを含むとは思われない、精確に言うなら「理解」という条件のもとでは含むとは思われないので共通点である。(ちなみに気になる人がいるかもしれないので言っておくと「理解」に限らない場合というのは「言語」的に「理解」することと「身体」的に「理解」すること、いやこのように対比するとするならば「精神」的に「理解」することと「身体」的に理解することにおける後者を指す。なので、この対比を成り立たせている事柄として「理解」は存在するから結局限っても限らなくても同じと言うことはできるが言わないこともできるし、それを例えば「無限」と「有限」や「必然性」と「偶然性」、「現実性」と「可能性」などに類比して、対比ではなく類比して「表現」すること、「理解」ではなく「表現」することはできると思う。いや、思いたいのかもしれない。ので、とりあえず限定している。ことにしている。)
 このように考えるとすれば、「言語化」というのは「理解」に限るとすれば対比とその対比を成り立たせている事柄を示すことであると考えられる。そしてその事柄には「共通点」と「共通の話題」という二つの形態があり、それに伴って対比もまたその対比に関わる「それぞれが異なることを含む余白がある」か否かによって二つの形態があると考えられる。ところで、「言語化」が「差異化」と「主題化」であると考えるとすれば、それぞれはある種の強調であると考えられる。というのも、そもそも「言語化」以前に「言語」は「差異」と「主題」を含んでいる必要がある。なぜなら、「言語」はそれが「理解」される限りでは対比とそれを成り立たせる事柄が必要であると考えられるならば、対比は「差異」なしに存在しないしその対比は「主題」なしに存在しないと考えられるからである。それをわざわざ「言語化」とか「差異化」や「主題化」と呼ぶのはそれをある種人間の仕業として強調したいからではないだろうか。別に「仕業」と言っているからといってそれが滑稽だとか無駄だとか言いたいわけではない。そういう構造があるのではないかと言いたいのである。そういうことを想定しなければ理解できないような仕組みがそこには働いているのではないかと言いたいのである。
 私が「言語化しよう!」という提案にびっくりしたのはおそらく、「そもそも『言語化』はそういう作業なのにわざわざ『しよう!』と言うだなんて変な提案だなあ」と思ったからである。言うなれば、「息をしよう!」みたいな提案にびっくりすることに近いと思う。ただ、これは半面であり、もう半面はおそらくびっくりしているというよりもむしろ、ここまでの議論を引き受けた上で「その対比を成り立たせる事柄」を、さらに言えば「共通の話題」を抽出しようという心意気に新鮮さを感じているということであると思う。
 ここで「主体化」に戻るとすれば、「コメンテーター」は「その対比を成り立たせる事柄」を抽出することはしない。おそらくただ単に「共通の話題」に、そしてまたそこでのオーソドックスな対比のどちらかに身を置くだけである。もちろん「コメンテーター」の重要な点はむしろ、さまざまな話題とさまざまな対比に一定の身の置き方を提示することかもしれないが、それは見方を変えれば、「身を置く」という振る舞いに硬直化しているとも言える。もちろん、「硬直化」だからと言ってすなわち良いことではないとは思わない。それはそれで一つの流線を描くような爽やかさがあるとは思うのだが、そればかりになってしまっては「言語化しよう!」という心意気の素晴らしさに思い至ることはないだろう。そして「言語化しよう!」という提案の不思議さに思い至ることもないだろう。そうなってしまうとすれば「主体化」というのはあらゆる話題に一つの対比を見て身の置き方を示すことになってはしまわないだろうか。もちろん、ここにはもう一つ、一つの話題にあらゆる対比を見て身の置き所のなさを示すという振る舞いもあるが、「コメンテーター」はそういう人ではない。そういう振る舞いをする人はうだうだぐだぐだする人であり、「主体化」という表現にはそぐわないだろう。しかし、私はそういう人に「主体化」の新しい形、言うなれば「場化」という形を見ることができるように思われる。その人は一つの話題を言わば遊び場のようにして、そこでさまざまな対比を呼び寄せる。そこでの対話なり会話なりに意味を見出そうとするのである。「言語化」にはこういううだうだぐだぐだしたところもあると私は思うし、そう思いたいのだと思う。
 しかし、これはだいぶ「理解」に譲歩した文の運びであり、私としてはむしろ対比の連関によって区画化した「主体化」の、つまりある区画を指定するだけになってしまっている「主体化」の可能性として区画の結合と分離を混乱させるような「主体化」すなわち「場化」もまた「表現」には至っていないと言いたい。ただ、私の表現力不足ゆえに足がかりとして借りさせてもらった上におそらく、足を取られている。書きたいことはもう少しあるが、今日はとりあえずこれで置いておこう。発酵することを願って。
 最後に一つだけ。このように考えると「言語化がうまい」みたいなことは区画の提案と区画の把握がうまいということになるだろう。しかし、区画は地理や権勢によって決定されると考えるとすれば、それはそれでつまらないと思われる。それならむしろ私という大地における他者たちの区画を見つける方が楽しいのではないだろうか。ただ、このイメージを私はまだちゃんと「言語化」できていない。「表現」にもたらせていない。それはもはや「理解」できないのかもしれないが、それはそれで私の地理学、私の政治学が煌めく余地となるのではないだろうか。いささか希望的観測が過ぎるかもしれないが。

 さて、課題もある程度明確になったので人気の「言語化」論を読みに行ってもよいが、今日は疲れたのでまた今度。とか言ってたらしないかもしれないが、するべきときが来たらしよう。それまではまあ、これくらいでいいかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?