『対比と類比という対比』

2024/5/13「対比と類比という対比」

何もしたくないなら何もしなくてもいい。別に誰も何も言わない。そのまま何もしたくなかったら死ぬだけだ。

私は先受けしているのだろうか。私は私の作品が死後に残ろうと残らまいとなんでもいい。と、しきりに言っているし、「私が死んでも作品は生き残るはず。」と言う人に対して違和感がある。しかしこれがもし、私自身の自信のなさの表れ、それがバレないようにするための工夫なのだとしたら、それは言い訳にすぎない。しかし、このように言ってもなお、私はその先受けとして考えられることに真実があると思われるのである。

緩やかに貪欲であること。

聞こえるものを聞く。聞こうとするのは下品なことである。

と、言い切ることはできないが、私にはそういう品性がある。

私はただ素敵に生きたいだけだよ。ただ、素敵に生きたいだけだよ。でも、別に素敵に生きられないからといって死ぬ必要はないよ。落ち込むのは仕方ないことだ。しかし、死ぬ必要はないよ。君は幸運にもその死を悲しむ人の中で生きているのだから。そうじゃなくなったら死ねばいいじゃないか。私は止めないよ。

私は君の本心とやらを言い当てる気はまったくない。だから安心してくれていい。

人を馬鹿にする人になってはいけないよ。

私は私が怖いのだ。優しすぎたり、酷すぎたり、そういう私が怖いのだ。

怖くて怖くてたまらないのだ。だから私は踏み込めない。何か、変容の可能性、いや、おそらく変容は確実にあるのだろうがどうも、どうも踏み込めないのだ。

私は私にビビっているのだ。死にそうな私に。

「死ぬ」というのは身体的にも精神的にもそうである。私は怖いのだ。

私は私に厳しいのだ。特に「他人を利用するな!」という命法に厳しいのだ。

いやあ、私が私に厳しいのはおそらく、私が根本的に酷いからである。根本的に優しいからである。だからどちらも怖くて仕方ないのだ。

わざわざルールを守るのは怖いからなのである。そしておそらく、優しくなりすぎること、冷酷になりすぎること、このどちらもが怖いのだ。

どちらがどちらを隠そうとしているのか、そもそも隠そうとしているのか、私は知らない。

ただ、なにをしているのかは一応わかる。彼岸に行ってしまわないようにしているのだ。

我々はもったりした、そのような持続性によって苦しんでいる。が、その持続性なしに何もすることはできない。いや、何かすることはできるがその何かが何であるかを決めること、共有することはできない。それゆえにその苦しみは必然である。しかし、それが苦しみであることは必然ではない。

病気や苦痛はこの必然性の一つの発現である。

しかし、持続性なしの決断などあり得るのだろうか。のっぺりした持続とみょんのりした持続なしの決断など。

私は信念を決断を持続させることだと思うのである。

サモハンテレビジョンというYouTuberのショート動画に「右左どっちで左翼になった人」という動画がある。私はこの動画を見たとき、なんだか感動した。その感動の理由をここで考えてみたいと思う。(感動?)

ちなみに私は動画の作りとして「左翼」が選ばれただけであり「右翼」が選ばれていたとしてもストーリーが大幅に変わるわけではないと思っている。つまり、私は政治的な主張をしたいわけではなく、ただ単に自分の感動のわけを考えたいだけである。だから別に「右左どっちで右翼になった人」だったとしても特に感動は揺らがない。

さて、動画については30秒もないと思うので見てきてほしい。(YouTubeを開いて「右左どっちで左翼になった人」と検索すればショート動画というところの一番上に出てくると思う。)ただ、ここからの考察に必要なので構造化して下に示そう。それぞれの番号はシーンの移り変わりを示している。なお10.以外はこの動画の主人公(?)の視点からシーンは描くことにする。

1.「右左どっち」の要領で「右翼/左翼」を選ぶ
2.「左翼」を選ぶ
3.みんなに思想を傾けさせるために「右左どっち」を布教する
4.「右左どっち」の要領で「右翼/左翼」を選ばせる
5.「右翼」を選んだものは始末する
6.「左翼」が浸透しきったとき「左翼」を選ばなかった自分=「右翼」を選んだ自分に再会する
7.正気に戻る
8.これまでの罪を償おうとする
9.「左翼」の人たちによってその償いが拒否される
10.国が崩壊する

何度でも言うがここで重要なのは「左翼」だろうが「右翼」だろうがどっちでもいいということである。そもそも「右左どっち」というのはYouTubeのショート動画で流行っている(流行っていた?私はあまり詳しくないのでわからない。)演出の一つで運ゲー感を演出しているものであると考えられる。なのでここで重要なのは「左翼」だろうが「右翼」だろうが運ゲーによって決まるということである。そして私が重要だと思うのはそのことがこの動画では強調されていることである。

さて、私の感動の理由を端的に言うとすれば、真に問題なのは「○○イズム」の「○○」ではなく「イズム」の方である、ということをこの動画は表現しているように思えたからである。言い換えれば、真に問題なのは「決断」ではなく「持続」の方である、ということをこの動画は表現しているように思えたから私は感動したのである。つまり、私はこの動画が「○○」に「イズム」を入れた「イズムイズム」が真の問題であることを表現してくれていると思ったのである。

私たちは特に何の理由もなくした「決断」をそれとして「持続」させなければならない。そう思っている。それは理由なきことではない。そうしないと「人間」やら「意味」やら、そういったもの、というかおそらく言語そのものが成り立たないからである。もちろん、言語を成り立たせる道義はないのだが。しかし、それが成り立たないとそもそもこのように何かを書くこと自体が成り立たない。いや、成り立っていることにすることができない。しかし、それでもなおこの問題自体は直視される必要があると思うのである。

そもそも、7.で正気に戻る前に反対側の自分と出会う6.があるが、この出会いを自覚したのが6.だっただけであり、わざわざ反対側を抑圧しようとするのは出会いを自覚しないためであると考えられるのである。しかし、そもそもその自覚するとかしないとか、そういうことは「決断」を「持続」させよ、という要請から生じたものなのである。そのことが9.によって表現されているのである。

また、隠れた構造として、1.ですでに「右左どっち」と「決断」を迫るものが存在すること、個人と国がパラレルな構造にあること、などが指摘でき、それもとても重要であると思われる。前者に関しては言うなれば1.は3.や4.の段階の人が主人公に話しかけてきたということである。その話しかけは暗に「決断せよ!」と迫るものである。言い換えれば、主人公を「左翼」と「右翼」に分離させるものである。そして主人公は理由なく分離したわけである。そしてその分離が周囲にもてはやされ、上のような自覚をするかしないかのさなかに置かれることになったのである。ここから時間のずれによる世代間の連帯みたいな話もできるかもしれないが、とりあえず言っておきたいのは「左翼」にせよ「右翼」にせよ、「決断せよ!」で「決断」と呼ばれるものをした人たち、そしてそれを「持続」させた人たちがもてはやされていることに変わりはないということである。これは別に政治的な信条に関わらず信念一般に言えることである。「決断」とその「持続」、いや、「持続」しない「決断」などありえないと考えるなら(私がそのように考えているわけではない。)「決断」が「持続」を象徴しているのであり、それはなぜかもてはやされるのである。

少し長くなったので塊を分けて後者を考えよう。後者に関しては主人公の「左翼」と「右翼」の対立が国の「左翼」と「右翼」の対立として読み換えられるということが10.で起こっていると考えられる。ここではどちらかしかいなくなった場合に「崩壊」が起こることが示唆されていると考えたい。私は。しかし、そもそもそんな大雑把な対比で物事が理解できるのだろうか。そもそも、対なのだろうか。それが私にはよくわからないし、それゆえに「理解できるはずがなかろう。」という声がこの動画からは聞こえてくる気がする。そしてそもそも、仕方なく物事を理解する、という大前提はすでに飛び越えられていることが示唆されているように思える。

苦しみは「決断」から生まれているように見える。そしてその背景にある「持続」から、そしてそれをもてはやすことから生まれているように見える。たしかに「持続」がないと色々と不便であろう。私たちにはもうすでに想像できないような不便がそこにはたくさんあるだろう。しかし、「持続」と「決断」は即時接続するようなものではないのではないだろうか。そもそも「決断」を迫るというのはそのことの逆説的な表現なのではないだろうか。私にはそのように思える。しかし、この塊の冒頭の「苦しみ」というのは私が感じるそれであり、みなさんがどう思っているのかは知らない。仮にみなさんがそうは思わないのだとしたら私もまた「決断」したふりを続ける必要があるだろう。しかし、「ふり」は見抜かれない。なぜなら、それを見抜き続けることはここまで指摘したようなことに到達する一つの道だと思われるからである。私はみなさんに発破をかけているわけではない。し、「到達する」などと言ったけれどもそこに「到達する」のは偉くもなんともない。ただ単に私はそういう「到達」があると思っただけである。

もう少し細かく考察してもよいのだが、今日はこれくらいにしよう。どうにも収まらない考察への意欲があっただけだから。本当は私は『左右を哲学する』という「左翼」とも「右翼」ともまったく関係のない本を読もうと思っていたのだから。

「信念が体に浸透しきった」というときの「た」はなんなのだろうか。過去?それだとしたらすでに浸透しきったスポンジだけがあるのか?そうだとしたら、かなりニヒリスティックである。しかも、かなりロマンティックなニヒリズムである。

展開のために要請された、実際はもっとモザイクな、というがそもそも「モザイクな」と言えるようなものを生み出すためのものであるとすれば、それはそれで渋い。

ぎゅわん、ぎゅわん、ぎゅわんぎゅわん、ああ、世界と私。私の世界ではなく世界と私。私。

君のそのカウンターが成立するのはなぜか、それを考えなさい。それがいつでもどこでも通用するならそれは真理かもしれない。しかし、それだからと言って得意になることを私は素敵だとは思わない。君が素敵だと思ったとしてもなんだか、私は生理的に嫌なのだ。

内面化された法廷性。それを綿密にせよ。それを放棄することもできるかもしれない。

オートシステムで働いているそこ、そこにおいて私の働きというのは、働きというのはおそらく、止める、ということだけであり、私はそれを「働き」として考えるという任務があるのである。

無感動になるたびに感動に飛びつきたくなる。

君は素敵に生きるために哲学を、そして他の学問を学んできたのである。それを忘れてはならない。

君に教訓を語る。そういう形式で私は誰かにアドバイスすることがない。それはなぜか。単純に恥ずかしいからである。何も成し遂げていないからではなくアドバイスという形式で話すのは恥ずかしいからである。ただ、私に向けてそれをすることはある。それは恥ずかしくない。それは励ましであるから。

君がその怯えによって遠ざけることのなかに君も気づいているように君にとって重要なことは存在する。しかし、とりあえず遠ざけることは必要なことである。

よくわからない強度をよくわからないものによってとりあえず釘付けにすることは必要なことである。それが美しいことであるかどうかもたしかに重要なことではある。

これは誘惑だ。乗るか乗らないか、にすらなっていない。その問い、「人生の意味とは何か」という問いは。誘惑ですらないが存在するのはそれを存在させなくてはならないからでしかない。

なんというか、問いというのは興味があるから乗るようなものなのである。このことを共有できない人たちと話をしても仕方がない。これは私が興味を持とうと努力しないことを意味しない。しかし、興味がないのに興味があるふりをすることに私は気乗りしない。これは乗るか乗らないかとは別の話である。しかし、私はそこでも気乗りしないのだ。それは仕方のないことである。

もし仮に、この庭の配置の全てが遠くから聞こえる鳥の声によるものだったとしよう。もし、その鳥がいなくなり、もはや完全な静寂に等しい状態になったとしたら、その庭は何になるのだろうか。

なんで哲学書は大して疲れず、文学はとても疲れるのだろうか。一文一文に立ち止まらせられるのだろうか。文学には。哲学書にももちろんそういう瞬間がある。しかし、文学は立ち止まることそのものがリズムなのである。哲学はそういうものではない。アクセントはあってもリズムが崩れることはない。あるとしてもそれは私の疲れゆえのものである、と私には思われるのである。実は同じことが起こっているのだとしてもその頻度からそれは違うように見えるし、それを乗り越えたとしてもそもそも振り返りの仕方が違うからなんともし難い。

オートシステムをとどめ、宥め、私はそこを見る。見つめるのだ。

醒めていない部分によって醒めている部分を見澄める。哲学がしているのはそういうことである。精神分析がしているのはその醒めていない部分を直視させることである。

しかし、直視するためにはおそらく、一つの典型が必要である。それが権力に見えることもあるだろう。

この文章は推敲者も執筆に参加している。その箇所は[]の括弧で示す。その他は推敲前も書かれていたものである。だから()ももともと書かれていたものである。

特に考えたいことはない。というか、「これについて考えましょう。」という「これ」がない。が、とりあえず実践として何か考えてみることにしよう。なんだか久しぶりに健康なので。

この「健康なので」というのは理由づけである。しかし、理由なく考えてはならないのだろうか。いや、これは一つの先受けなのだ。先んじて応答することなのだ。「なぜ君は考えるんですか?」ということに対する先んじた応答。それが「健康なので。」である。

しかもおそらくこの応答は積極的な意義も持っている。それは「健康」というテーマ以外で理由を探らせないという意義である。それ以外のテーマについては「そんなこと言ってませんよ。」と言うためにそのように言っているのである。ただの深読みだが。

当の本人は「そうも言えますね。」とそっけないだろう。あまり私は考えるのに理由が必要だと思っていないから。だからこそこんなことが書けるわけである。[本当か?そもそもそんなことを思っていないのだとしたらそのようにすら書けないのではないか?]

ドリンクバーで飲むものを取ってくる。今日は『

やめておこう。三つの本を読んだがとりあえずやめておこう。私は辻褄を合わせたがるので。

しかし、君も知っているように私たちは辻褄合わせでしかエネルギーを得られないのかもしれないよ。いや、「エネルギー」という概念そのものがその習癖(習慣と嗜癖を合わせた言葉。いま作った。実際にあるのだろうか?)の産物なのかもしれないよ。[「エネルギー」と嗜癖は相互に依存しているのだとしたら二つの領域があると考える理由を書かなくてはならないのではないか。その理由がないなら二つに分ける必要がないからである。

いや、そんなことはないだろう。なぜなら、「エネルギー」という概念についてその概念が私たちの嗜癖を産むのではなくて嗜癖がその概念を産むのだという反転がここにはあるから。

本当にそうだろうか?「反転」があるというのは理由になるのだろうか?]

なんというか、あ、君の質問にこたえるのだけれど、なんというか、私は最近辻褄合わせをする気が起きないんだよ。いや、なんだろう、辻褄を合わせても、いくらうまくそれをしてもなんだかつまらないんだよ。

どうしてだろうね。

とりあえずドリンクバーに行ってくるよ。

[抹茶オレをいれた。別に書かなくてもいいが隙間を作っておきたかったので書いた。]

おかえり。君は最近何だか忙しないよ。君はいつも過剰適応している気がするな。本当はできないくせに。

どうだろう。私が嫌なのはゆったりとした、例えば揺れる木を見るような快楽さえ何かのためのものであるかのように考える私だよ。

その嫌さは二つあるんでしょう?

ご明察だね。そう、二つある。一つは勝手に考える私、もう一つはそのように考えているのだろうと考える私。この二つだね。[前者は行為の忙しなさ、後者は解釈の忙しなさ、と言ってもよいかもしれない。この対比については『庭のかたちが生まれるとき』という本の「ここでは研究者と庭師、解釈と行為が対比されている。石がなにを求めているのかを"研究者のように解釈する"のではなく、しかし、石の乞うところにしたがって"庭師として行為する"。」(『庭のかたちが生まれるとき』51頁)という対比の仕方を参考にしている。さっき読んだ本の一つはこれである。]

どちらも忙しないね。忙しないことを嫌っているくせに自分がそうだから嫌なんだよね。

いや、私はそういう自己矛盾で嫌になることはないんだよ。たぶん。私が嫌なのはただ単に息が詰まるような、それが「忙しなさ」だね。それが嫌なんだよ。

でもさ、それが嫌なのもよくわからないけどね。

そうなんだよ。そこでも私は忙しなく目的合理性批判みたいなことを考えてそれを抑制してるんだよ。それはしょうもないんじゃない?みたいな感じで。

それだと、でも、それだと八方塞がりじゃない?

そうなんだよ。だから結局そこから逃げ出そうとして飛びついちゃうんだよ。飛びついちゃってるんだよ。私はもはや言い訳ができなくなってるんだよ。その忙しなさも価値があることだ、という言説を騙し騙し信じられなくなっているんだよ。[少しわかりにくいが「騙し騙し信じ」ることすらできなくなっているということである。おそらく。]別に他人が信じてようとどうでもいいんだけどね。

話は変わるがその「別に他人が信じてようとどうでもいいんだけどね」をわざわざ言うのはなぜだい?それは自分を非道徳的だということに怯えている人が道徳にたくさん言及する可笑しさ、微笑ましさに似ている気がするんだけど。

まあ、たしかにそうかもしれない。「別に〜」って僕はよく言うけどそれは大半そうだろうね。しかし、テーマというのは、議題というのはそういうふうにしか存在できないものだよ。その手がかりを失えばもはや私にはザラザラしたところがなくなるよ。

君はそれが怖いんだね。

そうだろうね。私がたまに言う「オートシステム」というのも私の預かり知らぬところでザラザラが失われていっていることの表現だろうね。

どうしてそれが怖いんだい?

どうしてだろう。それは難しい質問だね。

(抹茶オレをくるくる。氷を鳴らす。うなだれる。口を尖らせる。眉をしわしわにする。)

よくわからないなあ。うーん、なんでだろうなあ。すごく単純に言えば、たぶん、うーん、疲れなくなるからだと思うよ。なんというか、スピーディーすぎると疲れとかがそもそもよくわからなくなるからだと思うよ。

疲れたいから怖いってこと?

うーん、そういうことでもないんだけど、

本当に怖がってるの?

まあ、たしかにそれもわからないんだよね。ほとんど拒否反応的だから、私にはそう見えるから「怖い」が適切だと思っているだけで実は拒否反応ですらないかもしれないもんね。

うーん、まあ、それはなんとも言えないけど、その怖がりのせいで動けなくなるんじゃないか、って私は思うよ。反転のための前フリならいいんだけど。それが本当にそうなのかは後からしかわからないじゃない。だから怖いんだよね。私は君が。

そうだよね。八方塞がりじゃなくて二方塞がりだね。ツルツルすぎることとザラザラすぎること。どっちでもダメな気がするよね。でもねえ、難しいよねえ。

なんだろう。単純で素朴な快楽がないんだろうね。いまは。

うーん、なんというか、連鎖の中の部分、以外の意味性とか価値性とか、そういうことがよくわからなくなってきているんだろうね。[このような発想、「連鎖の中の部分」としてしか意味とか価値とかがわからないという発想、ラカンに見られるような発想を私は随分前から否定しようとしている。が、それができていないことがここで言われている。]プラグマティズムがわかるのはいまなのかもね。

たしかに。いままではなぜか知らないけど理論だけで楽しめてたけど実践が必要なのかもね。まあ、こんな対比は大雑把すぎるかもしれないけれど。

こういう留保みたいなもののせいでリズム感がないというのもあるかもしれないね。「大雑把すぎるかもしれないけれど。」みたいな。まあ、あと、単純に眠たすぎるのかもしれない。まあ、これが症状だと言われるならそれも否定できないのが困ったところだけれど。

Aするべきなのにそうできていない。このようなことで私たちは苦しむ。だからと言ってAを相対化しようとするだけでは苦しみからは逃れられない。さらに言えば、その相対化は「するべき」ということ自体を相対化することに向かうことが往々にしてある。それは危険なことである。[いや、危険なのは相対化を絶対化することによって仮住まいすら存在しなくなることである。ここでの書きぶりは少し雑である。]

私が危惧しているのは、いや、危惧していることの一つはおそらく、先んじた否定によって本来否定しようとしたことではないことまで否定することになってしまうのではないか、ということである。

もちろん、このことを知っているから「健康」をテーマとして扱うようにする限定が行われているよ、くらいのことはわかる。ただ、それも別に習癖によるものなのか、それともそうしなくてはならないくらい怖いのか、それがわからないのである。そして仕方なく後者を取ることになるのである。[なぜそうなるかと言うと仮に後者なら死に関わることだからである。もちろん、「死ぬかもしれないよ。」という脅しがここにあるかもしれない。それはそうだがそれがわかるかどうかとそれに屈するか否かは別の話である。]ここでの仕組みはこういうものである。それがわかったとしても別に何も変わらない。認識したところで存在は揺るがないからである。

「考えすぎないようにね。」とよく言われるが「考えなさすぎるのも怖いなあ。」と思うのである。なぜ怖いのかはわからないが。[これが仮にナルシシズムによるものならまだ希望はあるのだが。「あの人って考えないんだってさ。」みたいに思われたくないから怖いのならまだ希望はある。考えなくてはならないという信念だったり周りの目を気にすることだったりをなんとか克服すればよいからである。しかし、そうではない気がするのである。]

結局の問題はこのわからなさにあるのだと思う。もちろんこれを考えないようにすればいいのかもしれない。それはもちろんそうである。しかし、それは私を呼んでいる。私は聞こえないふりをしているがその事実によってそれは聞こえているのである。

[ツッコミを入れるのは楽しい。私は嫌なやつだからである。しかしそれによって救われている感じもした。まあ、そういう感じがしたせいで遠慮してしまったところもあるのだが。]

それは私を呼んでいる。私は聞こえないふりをしているがその事実によってそれは聞こえているのである。

これは反証不可能な、それゆえに仮説ですらないのだが真実であると思わされる。いや、別に私は科学的ではないと思うのでこれはレトリックに過ぎないのだが。

多義性はかえって私たちの理解を一義的にするのだ。逆がそうなのかを私は知らない。すなわち一義性がかえって私たちの理解を多義的にするのか、私は知らない。

具体的に考えることは難しいことだ。そもそも「具体的に」ということも「考える」ということもよくわからない。こうすれば「具体的に考える」ことができていることになる、こともよくわからない。

まあそうか、「多/一」の対比は大袈裟すぎるか。

君は規範を探すために本を読んでいるのではないだろう?

ここからの君は私のことである。

君はどうして「別に」と言って目配せするんだい?

別にいいじゃないか。

別にいいんだよ。でもさ、なんだか不思議なんだよ。君は何も気にしていないみたいな顔をして方々に気をつかっている。それがなんだかおかしくてさ。別にいいんだけどね。

君はどうして死にたがっているんだい?死にたがってなんかいないよ、とは言わせないよ。君は「トラックが突っ込んできてくれたらいいなあ。」と思っていたじゃないか。バイクに乗っているとき。急にハンドルを切って壁に激突してやろうかなあ、そう思っていたじゃないか。あれが嘘なら君は君自身を騙そうとしているわけだ。なんのために?

問いが多すぎて難しいが、たしかに私は死にたがっている。しかもできるだけ理由なく死にたいと思っている。いや、私の欲望は、私の欲望と言えるのは「理由なく」のところだけで死は別にこだわっているところではない。

本当かい?でも、「理由なく」が使えるのは「死」とか、それに類することだけではないかい?

それは君の視野狭窄のせいだよ。別に「生」にも、それに類することにも「理由なく」は使える。

まあ、それはそれでいいけれど、君は実際に死のうとしていたじゃないか。

別に死のうとしていたわけじゃないよ。別に死んでも後悔というか、恨みというか、そういうものはないなと思っただけだよ。

それを「死にたいと思っている」と言うんじゃないの?別に「死にたい」というのは死を真っ直ぐ見つめてそこに向かうことじゃないんじゃないの。君はいつもそう言っているじゃないか。それともまさか「死を真っ直ぐ見つめてそこに向かう」ことをそう言っていたのかい?「死にたい」ってのはそういうことだって。

そうかもしれない。私はこの気持ち?のようなものを認められなくてそういうフィクションを否定しつつそれを誰かさんに押し付けていたのかもしれない。けれど、

たしかに。これを「死にたい」であると認めてしまうとそれに見合う生活をしなくてはならないような気がして辛いよね。というか、君の辛さはおそらくそこにある。君は同一性が嫌いだけどそれは君が同一的であろうとするからだもんね。ようやくそれがわかってきたよ。

そうなんだよ。おそらくそうなんだよ。ただ、別にこの嫌さはみんなにあると思うけどね。

君にしては随分適当な意見だね。別にみんなはそう思っていないと思うよ。いや、わからないけれど。

そうなんだよ。わからないんだよ。みんなはこのことをあまりテーマにしていなさそうなんだよ。

たしかにね。でも、哲学者たちはそれをテーマにしているよ。君はもしかすると哲学に罹患しているだけなのかもしれないね。ただの凡人なのかもしれないね。

私は私のことを凡人だとも凡人でないとも思わない。というのは嘘である。凡人ではないと思っている。これが自尊心ゆえのことなのか、それとも周りに言われるからそうなのか、それはわからない。おそらくはどちらもだろう。でも、本当はどうでもいいと思つている。いや、思っていてほしいと願ってはいる。だから、他人にむやみに天才幻想を押し付けているところがあるのかもしれない。わからないが。

私は私を卑下するために考え始めたわけではない。卑下しないためでもない。それは何度でも確認しておきたいことである。私は考えたくて考え始めたのである。

君は君が思うよりも普通の人なんだよ。きっと。

普通の人?

うん。別に天才じゃない。

うん。別にそう思っているよ。本当はそんな話をしたいわけじゃないでしょう?

そうだよ。でも、君はそれに苦しんでいるようにも見えるから。

いや、別にそういうわけじゃないと思うよ。否定はこれくらいしかできないんだけど、別にそういうわけじゃないと思うよ。

ばたばたと理由を探さなくてはならないことなんて本当にあるのかな。

君は怖がりなんだよ。

それはそうなのかもしれないね。最近やっと気がついてきたよ。

君はもっとさ、君がしたいことをしたらいいと思うよ。読書も生活も。それでさ、疑問に思ったり違和感を持ったりしたらさ考えればいいじゃない。それ以外はのびのび世界と呼応すればいいじゃない。君はそうやって生きていきたいんでしょう?私は君を見てきたから知っているよ。君より少しだけ素直だから、知っているよ。知っていることにさせておくれよ。なにもかも疑わしいのはわかるよ。でもさ、それは楽しまないことの理由にはならないじゃない。そんなふうに私は思うよ。

私はいつも犬のぬいぐるみと一緒に寝ている。今日は一緒にお布団に入っている。

君は変わっているよ。あとはそれを認めるだけだよ。完全に同意なんてしなくてもいいけれど完全に否定するのはほとんど同意みたいなものだよ。追い詰めるわけじゃないけど、変わっていることは変わっていると言ってもいいんじゃない?同一性が嫌ならとりあえず何かに預けとけばいいからさ。慣習とか言語とか、作品とか他人とか、彼らに預けときなよ。一旦。思い出したら返してもらえばいいじゃない。

今日は寝よう。ラーメン屋さんの「いつもありがとうね。」がやけに染みたことを想って。

2024/5/14「動かす烏合の衆」

家の近くにあった精米機がなくなり、そこにはツツジが植えられている。すでに成人したツツジ。なんだか広くなった空間を見て私はなんだか「ああ、綺麗になったなあ。」と思った。少しだけ寂しさを感じながら。あるのはさびれた電灯だけである。私は時折ここにきて、別に泣くでも怒るでもなく、ただ考え、ただ夜風を浴びていた。それを知っているのはこの電灯だけで精米機はもはや存在しない。

どうにも具体的ではない。これはどういう批判かと言えば、素朴に言えば「抽象的だ。」ということなのだが、それこそもう少し具体的に言えば、「引っかかりがない。」ということであると思われる。

文学は基本的に書き継ぐものである。だから断絶なき文学は存在しない。これは別に展開としてそうなのではない。

書いていたときの私に寄せるわけではない。しかし、自然に寄っていってほしいという思いはある。それは統一感とかそういうことではなく受容のためにそうしたいのである。

たしかに。僕は僕自身を騙そうとしているのかもしれない。けれど、僕は「僕自身」がすでに騙りなんじゃないかと思っているんだよ。

奥行きがなくなってきている。そういう感じがする。しかし、奥行きがないわけではないのだ。

俳句の宇宙をドーム化したい。

天命を聞くと同時に天命を知る。

「。」をつけて俳句じゃない感じにしておいた。

作品は思い出すために存在する。何を思い出すか。作品が思い出させてくれることを。

ほんまは思ってませんよ、と言えること。それが作品を作る理由なのかもしれない。

作品は思い出すために存在する。何を思い出すか。作品が思い出させてくれることを。

 これは私の「作品」に対するスタンスを明確に表現したアフォリズム?である。いや、精確に言うなら「作品を作る」に対するスタンスを表現したアフォリズムである。
 私は私の作品が大好きである。これは何度も言っていることである。しかし、これは私の名前が記された作品が好きということでもないし、状況証拠的に私が書いたとしか言えない作品が好きということでもない。私は「作品を作る」ことになった何か、それを感じたときにそれを「私の作品」だと思っているのである。しかし、大抵は他人の作品と私の作品はそれを作った人、作者で区別されているからこれは詭弁なのかもしれないが。
 しかし、他人の作品でも上に書いたようなアフォリズムのような受容が可能になることがある。「そうだよなあ。」と言いたくなるような、でも誰も言ってなかったような、そんなことを見つけることがある。しかし、私は同時に思うのだ。「そうやってさぼってんじゃないよ。」と。他人さんが言ってくれたことをあたかも自分が言ったと錯覚して、その錯覚を見ないふりをして、それでいいのか、と言いたくなるのである。しかし、私は同時に思うのだ。「でもさあ、別にいいんじゃないかな。それが『私の作品』に近づくことに集中すればいいんじゃないかな。」と。別に他人の作品が「私の作品」と誤認(?)されても問題はない。あるとすれば、それはプライオリティの問題だけである。一人で楽しむならそれは別に問題じゃない。
 「作品を作る」ということが最も重要な「作品を受容する」の練習である。私はあくまで「作品を受容する」のが本番だと思う。私はあまり「作品を作る」ことをしたいとは思わない。作っているときはあるし、そこで作られた「作品」はとても素敵である。ときもある。しかし、そんなに覚えてられないし、そもそも「私の作品」というのも「作品を受容する」の一つの形式にすぎない。何かが譲歩された形式にすぎない。私が何かをしなくてよくなった形式にすぎない。
 たしかに「作品を作る」ことは「作品を受容する」をより素敵にするだろう。それはまったく間違いではない。しかし、「作品を受容する」ために「作品を作る」というのはなんだかおかしなことである。何が言いたいのかはわからないが、二つのこと、「作品を作る」ことと「作品を受容する」ことにもし関係があるとすれば「練習/本番」という対比がいいのではないか、くらいに思っている。そして、それくらいに思うのが良いのではないか、とも思っているのである。おそらく。
 ひさしく私は「私の作品」を作っていない。それがなんだか寂しいだけなのかもしれない。まあ、「作品を受容する」をあまりしていないから仕方ないのかもしれないが。

水口に清明の雲はしりけり 大嶽青児

コンプレックスという単純さ。

前提が共有できないことは大いにありうることだ。問題はそこからである。どうすれば共有の可能性が見えてくるのかを考える。それこそが思考という実践である。そしてそれこそが刺激的なのである。

無限に細い糸は無限にしなやかな糸となる。

触手と触手が触れ合うように、私とあなたは触れ合うのだ。その触れ合いのことを「私」と呼んだり「あなた」と呼んだり、「私たち」と呼んだりする。

弁護士でもなく紹介者でもなく、私は彼について話したい。

反論したくなる文章を書く人がいる。感服したくなる文章を書く人がいる。何も思わない文章を書く人がいる。私は彼らに感謝している。

私はみんなの目を開かせたいとは思わない。興味のないことに対して哲学性のようなものを振る舞うつもりはない。

たしかに君は私の生きる理由なのである。良くも悪くも。しかし、君に言いたいことがあるのだ。それは私を背負って生きなくても構わないということである。私は弱く、それゆえにあなたに頼ってしまっているのだが、別に私は捨ててもらっても構わないのだ。このように言うと君は泣いてしまうかもしれないけれども、これは真実なのである。このように言うことによって君に気にかけてもらおうとしているのではないか?と何度も自問した。しかし、私はついにこたえることができなかったのである。だから暫定的にそうではないと結論を出した。そしてそれを言わなくてもいいのに君に言っている。

恋愛について考えてみよう。それは『恋愛の哲学』の第二章まで読んで違和感があるからである。こうした違和感は往々にして最後まで読めば氷解するものである。しかし、私はそれを踏まえてもなお反論したいことがあるのである。

ちなみに私は戸谷洋志に反論したいことが多いらしい。少し前もそういうものを書いた。いや、かなり前にもそういうものを書いた。このよにはおそらく三種類の著者がいる。自分を除くと。一人目は反論したくなる著者、二人目は感服したくなる著者、三人目は何も思わない著者である。どの著者が優れているということもないと思うが反論したくなるのはある程度整理されているからであると思うのでそういう意味では優れているのだと思う。

まず確認したいのはおそらく私の感覚はあまり一般的ではないということである。これは私の少ない恋愛談義から思い知ったことである。私はそもそも「恋愛」にあまり興味がない。なので「恋愛」について話すことはあまりない。周りがそれを話しているとすれば、私はその中に哲学性、文学性などを発見しようとしてまるで話を聞いていない。それは恥ずかしいからの可能性もあるにはあるが、私はそうは思えない。単純に興味がないのではないだろうか。私はそう思う。

あと、私は「恋愛関係」を私と特定の恋人のペアとして考えることがよくわからない。いや、なんというか、「愛」をそのペアの特定のあり方として考えることがよくわからない。だからそもそもあまりよくわからない、実感の湧かないことに関する議論を読んでいる感じがある。

あと思うのは、この本に対して思うのは、「常識的だし、その常識を問い直してる感じがしない。」ということである。もちろん、「常識」は格好の前フリであるからそれを使ってはいるのだが、使うところがつまらない気がしてしまうのである。例えば、愛と暴力の関係については快楽に基づく愛と狂気に基づく愛の関係を簡素にすれば「愛:暴力=狂気に基づく恋愛:快楽に基づく恋愛」みたいに描いているのだが、「快楽」と「狂気」の関係がそもそもよくわからない。この区別はおそらく「理由を説明できるか否か」で考えられているのだが、すなわち「快楽」の方は「理由を説明できる」もので「狂気」はそうではないとされているのだが、そしてその背景には「理由を説明できる」というのは「他の人もその説明に該当する」ことを意味するという問題意識があるのだが、私はこの問題意識と議論が接続している気がしないのである。別の言い方をすれば、たしかに私はここで問題意識として挙げたことに興味があるのだが、それがおそらく戸谷が問題にしていることと接続する姿が想像つかないのである。

なぜ想像つかないのかといえば、戸谷「説明する」というのは「他の人たちが理解できる」ということを目指して行われると考えているが「他の人たちが理解できる」というのは「他の人たちにもその説明が該当する」ことに他ならないのだから「説明する」ことを区別として選んだ場合問題は解決できないものになっていると考えられるからである。そして、私は「他の人たちが理解できる」というのは「他の人たちにもその説明が該当する」ことに他ならないということをその通りだと思っている。だからそもそも解決不可能な問題を持ってきているのだからそれがなぜ解決不可能なのかを考えるほうが哲学的には重要なのではないかと思うのである。

この意味で私はこの箇所を読んでいるときに「名指し」の問題から「愛」において「説明する」ことの問題を剔抉した『恋愛の不可能性について』や「愛」における「暴力」と「承認」の問題を絡めてより人間学的に考察した『歪んだ愛の倫理』などのほうが優れていると思ったのである。もちろん、この本はプラトンの学説を現代の常識と対比して理解していくこと自体の価値を説くものである。おそらく。だからこの批判はそもそも正当ではないのかもしれない。しかし、第二章でデカルトに触れるときにも恋愛における「錯乱」についての議論を提示するだけでそれを深める示唆もないとなれば、もちろん私の受容に問題があるのだとしても面白くはない。これは批判というよりも私と戸谷の議論が活性化されないという不満である。

ただ、戸谷の議論は「相互性」について着目するところ、そしてそれをとてもクリアーに示すところに特徴があると思うし、その真価はまだ発揮されていないと思うから時期尚早なだけだったのかもしれない。

あと、あまり関係ないが、私は恋人が何をしてようと何も思わない、と思っている。あまり何をしているのか知らないからそうなのかもしれないが、そもそもあまり興味がないのである。しかし、お出かけをしていたら楽しいし、一緒に映画を見たり美術館に行ったり、そういうときにはそのセンスに驚くことがある。いい意味で。だからこれが好きな理由と言えばそうなのかもしれない。だから、私が仮に「快楽に基づく恋愛」をしているなら「どうしてセンスが悪くなっちゃったんだよ!」と怒ったり勝手に失望したりするのかもしれない。しかし、私はそうなることがまったく予感できない。彼女はおそらくずっとセンスが良い。悪くなったら私が私を疑うべきだとは思わないが、そう思ってもおかしくないくらいにはそのセンスを信用している。そもそも、「センス」というのはあまり説明をしないための概念選択なのかもしれない。

私はこの本に対して「常識に対する常識的な反論?みたいなものが書かれている本」くらいにしか思えない。あまり楽しくない。もちろん、何度も言うが私の力不足のところもあるだろう。しかし、反論する気すら起きない文章というものは存在するのである。これは実感としてそうなのである。なんとなく反論したくなると思ったがそのようにはならなかったらしい。それはそれで悲しいことだが、まあいい。まあ、私が机上の空論をしているからこうなっているのかもしれない。しかし、そのような批判がまるで私の耳を痛くさせないのである。いまは。

私は私が問題や課題を否認していることを認めるのにやぶさかではない。しかし、それは問題や課題に取り組めることを意味しないし、もちろん取り組むことを意味しない。

「抽象的だ」という批判には「具体的なことから考え始めているはずなのになぜそれを隠すのか?」という問いがある気がする。しかし、その前提は本当に正しいのか?むしろ、がんばって「具体的なことから考え始めている」を作ることが「考える」ことや「書く」ことなのではないか?ナチュラルメイクの方が時間がかかるというのを聞いたことがあるがあれと同じことなのではないか?

それは言うなればどちらがより自然であるかという争いの一つの形態なのである。しかし、そんな争いはなぜ必要なのだろうか?それはよくわからない。

不感の理由を考えることは楽しい。私にとっては。

最近はやる気が出るだろうなと思って書き始めてもやる気がないときがある。「ああ、やる気なかった。」みたいなことがある。逆にこれまでどうしてそこでやる気が出てきたのだろう。不思議だ。

「インプット」とは「情報を入れる」ことである。もっと言えば「情報を押し込む」ことである。さらに言えば「押し込まれるもの」が「情報」と呼ばれているだけだから「押し込む」ことである。押し込まないと「インプット」とは言わない。押し込むためには抵抗が必要である。

対比を閃きそうだというのは「対比」をそれとして存在させる基盤、構造を見つけられそうだということである。

私はもうすぐ死ぬかもしれない。だから私はちゃんと生きるのだ。これは死への先駆ではない。ただ先駆している私を死によって限定しているのである。その限定によってエネルギーを得ているのである。

私はいま、おそらく「人間観察」と呼ばれるようなものをしている。しかし、私は極度に人間をモノ化している。機械化している。その振る舞いを解釈するためにか、そもそもそのような見なしを隠すために解釈を強調しているのか、それはわからないがとりあえず「人間観察」のようなものをしている。

趣味を「人間観察」と言う人に出会ったことがない。というか、あまり他人の趣味を知らない。何人かの友人の趣味を脳内で検索したが何もヒットせず、あるのは状況証拠だけである。

私はおそらく私のステレオ化に怯えているのである。ステレオ化してしまう自分が怖くて怖くて仕方がないのだ。それゆえに私は他人に趣味を聞いたり出身を聞いたりできない。これはときに「変人ぶってる」と言われる所以なのだが、私はむしろ私の中の人間性、そしておそらく私が醜いとみなしているそれを隠すためにどうしても変人になるしかないのである。その意味でそれは哀れである。

もし、このような嘆き、いや、これは嘆いているのだろうか?このような振る舞いを「変人ぶってる」と言う人がいるなら私からその人に言うことはない。なぜか。それはつまらないからである。そんな人と話してもつまらないからである。これは別にその人が思うように思ってほしくないということではない。私はあなたをつまらないと思うから、しかもそのつまらなさを考えることもできないくらいつまらないと思うから私からは話しません、ということである。まあ、これも想像上の誰かを思い浮かべていて、その執拗さをむしろ欲している、承認してほしいよお、という目配せであると考えることができるのだが。

さて、話を戻して私は「人間観察」をしている。が、何もわからない。いや、解釈にまるで停滞がなく、すべてはするりするりと過ぎ去っていく。ショッピングモールの椅子に座っているのだが。

ただ、「人間観察」をしてみて思ったことがある。それは人間は複数人いた方が観察しやすいということである。言い換えれば、解釈の止まり木のようなものとして一人よりも複数人のほうが存在しやすい。存在感がある。一人はなんというか、何でもない。やたらと変な動きをしていない限り手がかりもないし手をかけようとも思わない。

解釈ということが可能であるのはある程度の複数性が担保されているからである。複数人いるときは複数性を開く可能性がある。例えば、あの二人は恋人なのかな、とか、あの二人は喧嘩中なのかな、とか、そういうことを思ったり、恋人だとしてどういう恋愛関係なのかな、喧嘩中だとしてどんな喧嘩をしているのかな、とか、そういうことを思ったり、そういうことをして複数性を開く可能性がある。一人のときはそれがない。関係を見出すのが困難である。群像劇、という言葉があるが、劇はそもそも群像劇でしかないのかもしれない。しかし、それが偶像劇ではないのはなぜか。

私のこたえはとりあえず、とりあえず、そんなことを言ったら「劇」自体が「偶像」的だからというものである。言うなれば、「偶像劇」に対比させられるものが思いつかないからである。しかし、私はいまそれを「群像劇」と対比させようとしたのである。そもそも、「群像劇」も対比することがない気がする。それは私が一人で存在する人たちに何も思うことがないことからそういうことになった。

もちろん、一人でいる人にも歩き方とか、目線とか、そういうものを枠組みとして付与すれば複数性は担保される。しかし、それはなぜか「群像劇」とは違う。ストーリーがない。ただの個体が存在するだけなのである。しかし、本当はただの個体が存在するだけなのではないか。

さて、いろいろ散らかしたのだが私の能力不足ゆえに片付けることができない。もしかすると片付けるための準備ができていないのかもしれないが。

モノから人へ、という移行、転換は何によって起こっているか。それはその移行を起こさせるものに私が反応したから起こっている。解釈が始まるというのはそういうことである。そして私はその解釈において「偶像劇」性を「群像劇」性に変えようと必死である。私にはそのように見える。なぜか。というか、それはどういうことなのか、私にはわからない。

ここに重要なピースがあるとすれば、「人生」であろう。それぞれの人の「人生」。しかし、私はその「それぞれの人」がよくわからないのだ。ここにあるのはスケールの問題、次元の問題である。たしかに私はこれまで存在してきた。皆に呼ばれる名前もある。しかし、それぞれの私もまた他人の集まりとして存在してきたのである。それがまとまる術はないのか。他人の集まりとしての私として集まる術はないのか。その可能性を私はおそらく「群像劇」に見ている。どうしてか「偶像劇」になってしまうことに抵抗するというビジョンに見ている。

仮に整理しておくとすれば、ここには解釈の始まりに関する主題と解釈が始まって「集まる」ことに関する主題とがある。しかし、この二つの主題の関係という主題もある。し、おそらく最後の主題を考えられていないからその前の二つが考えられていないのである。いや、別にそういうわけでもないかもしれない。よくわからないが、とりあえずピースが足りない。私の力ももちろん足りないのだが、ピースが足りない。しかも、いくつ足りないのかがわからない。仮にいくつ足りないかがわかるなら仕方なく形を見て、とりあえずこれ嵌めとけ、みたいな感じで考えることができる。しかし、私にはそれができない。それがなにゆえなのか、それがわからないのである。

考えることに落ちてしまった。私はただ「人間観察」がしたかっただけなのに。この「観察」に仮説は存在しない。いや、存在する。ただ、私の興味はそこにない。私は仮説を存在させようとする私の努力にあるのである。これは何をしているのか、それが気になるのだ。

微かに思っていたことを書いて終わろう。おそらくこれがピースであるわけではない。いや、そうだろうか?わからないがとりあえず書いておこう。見られている人たち、ショッピングモールに来ている人たち、彼らは「見られている」とは思っていない。もしかしたら思っているかもしれないが思っていないように見える。なにせ私はただ椅子に座って携帯でこの文章を書き、たまに顔を上げているだけの人なのだから。この非対称性、あちらは見られていて私は見ている。しかも私は見たことを書いている。その人たちには秘密で。というか、秘密で、という感触すらない。この感触があるのは立ち止まっているからである。このような文章を書いているからである。これはどういうことなのか。フーコーという名前が思い浮かんだが私はフーコーをあまり知らない。対面の椅子に、結構遠い対面の椅子にこの文章の途中からずっと座っている人がいる。何を思っているかはわからない。けれど、その人と私の姿はほとんど同じである。その人は携帯を見ているわけではないからそれは違うのだが。

誰かを待っているのだろうか。あの人は。私は誰も待っていない。一人でバイクでブーンと家に帰るだけである。まあまあ時間のかかる家に。

さて、特に書くこともないので終わることにしよう。一回だけ読み直してやる気が出たら書こう。最近はあまり書く気が起きない。

どうして私はあの人、もう居なくなったのだが、あそこにいた人が誰かを待っていると思ったのだろうか。思いたがったのだろうか。私にはわからない。けれど、私は、そのような私を見てなんだか嬉しかった気がする。たくさんのピースがあり、それらはまだピースになってすらいない。だからおそらく、私が「ピースが足りない」と言っているのは一つの希望なのである。そうであるといいなあ、という希望。それなのである。

もう帰ろう。これ以上ここにいるとなんだか、みんな私に見えてしまう。それは重すぎる。そろそろ夜も深くなる。店員さんたち、そこに来ているお客さん、二人は儀礼的に存在できている。それを見るたびになんだか、私は安心する。「ああ、私はそうはなれなかったのだな。」と思えるから。一人で歩く人たちはほとんど無表情である。彼らは私に見えてしまう。夜、川に飛び込むしかないと信じた、あの私に見えてしまう。

店員さんが私を見た。いつ?

詩の誘引力は恐ろしく、それゆえに私はいくつかしか詩を書いていない。

「死んでも自分が作ったものは残る」という言い分自体はわかるがそれが人生の目的になるとは到底思えない。他のことも然りなのだが。

夜の住宅街を散歩する。まだ寒い。

私は閉じこもっていたのかもしれない。コミュニケートできていなかったのかもしれない。そう思わせられる日々。

どうしようもないことをどうやってかんがえるか。それが問題なのである。

怯えるために、萎むために、私たちは学ぶのだろうか。私はそれを即座に否定したい。けれど、そうもできない。

歌うこと。踊ること。リンクするのだ。

一旦通俗的な語りに巻き込まれてみる。そういう方法。

反転の感覚、それがあるのはわかる。しかし、それを通俗的な語りに任せては、別にそれでもいいんだけど、なんだかつまらないじゃない?

私の拒否反応が生物的なものではなく社会的なものなのだとしたら?

変化、成長、反転。

たいていの哲学はつまらない。しかし、それはなぜか。

「哲学は役にたつか?」という問いにおける「役に立つ」とは何か?それを明らかにしないことにはそもそも話ができないではないか。仮にそれをとりあえず保留したとしてもその答えになるのは「人生に役に立つ」とか「精神が豊かになる」とか、他はなんだろう、わからないがそういう答えだろう。しかし、「人生」とはなんだろう。「精神」とは、それが「豊かになる」とは、そもそも「なる」とはなんなのか、それがわからないではないか。私は別に煙に巻きたいのではない。むしろ、煙に巻かないからこそこれらを考えないといけないのだ。そうしない人を哲学している人であると私は思えない。

私は君を否定しないよ。ただ、哲学というのは「私とあなたは違う。」とできるだけ明確に、そして素敵に言うことだろう?

哲学とは問いを仕立てることである。問いをできるだけ素敵にすることが哲学することである。それ以外の定義を私は知らない。

私がこんなに哲学について言及しているのは「哲学するとは?」「哲学する意味とは?」みたいな記事が総じてつまらないからである。別につまらなくてもいっこうに構わないのだが、なぜか反応してしまったのである。そして「それは違う。」ばかり言っていても仕方ないので私自身を振り返ってみようと思ったのである。

さて、私は昔、始めたての頃どう考えていたのだろう。上のような問いに対して。それはもはやわからない。2020年5月22日に発表された文章を見つけた。私が哲学に関する本を読み始めたのはおそらく2018年の3月くらいなので2年ほど経ってからの文章である。タイトルは「「哲学」と「哲学すること」について」である。ありがたいタイトルだ。読んでみよう。

比較的まとまった美しい文章だった。が、あんまり本気じゃない気がする。誰でも言えることを美しく簡素に装飾した印象を受ける。「で、結局お前はどう思うんだ?」と言いたくなるような文章である。しかし、あまり、実存というか、人生というか、生きる意味とか、いかに生きるべきかとか、そういうことを気にしていないのは感じられる。まあ、これは深読みだろうが。

いい文章を見つけた。「僕の中の哲学の本質」という文章である。2020年7月24日の文章である。読んでみよう。

よくわからない。が、存在論が気になっているらしく、そして「超克」とよく言われているのでニーチェ及びハイデガーが気になっているのだろう。あとは文学と哲学の両輪性のようなものを指摘し始めている。ちゃんと指摘しているわけではないが。あと、言語学、おそらくソシュールやヤコブソンのそれのことだろう、それが気になるらしい。

ここらへんから「思想の強度と段階」という文章が始まって、おそらく私のここまでの集大成が始まるのですが、今日は眠たいので明日、やる気があれば読みましょう。

私の違和感、彼ら、哲学を語る彼らへの違和感はおそらく、哲学が生活とどう関係するか、ということについてのスタンスが違うことにあったのでしょう。私は昔から哲学少年?だったわけではありませんし、哲学のことばかり考えているわけではありません。私は私のしていること、それを哲学と呼んでいるだけです。いや、彼らもそうでしょう。しかし、私は人生を問うとか、生きる意味を問うとか、そういうことがどういうことを指しているのか、おそらくよくわかっていないのです。この、私のしていること、そこで参照されていること、それが哲学だから、していることも哲学と呼ばれている。ただそれだけでしょう。私は「存在の探究」とか大仰なことを言っていますけど、それはおそらく木田元先生の受け売りです。そこにあったのはおそらく独我論の問題です。それが存在の問題に見えたのでしょう。というか、それにしか見えなかったのでしょう。おそらく。あとは意外と言語論的転回みたいなことをなんとなく実践している気がして、なんだか不思議な気分です。素養があったのだな、という感じで不思議な気分です。

私の彼らへの嫌悪感?のようなものは薄まりました。借り物の言葉ばっか使いやがってよ、と思っていた、その心がなくなりました。私も見事にそうだったからです。しかし、私は酷な要求をしたくもあります。それは「君の語りたいことは本当にそういうことなのか?」と、君自身の哲学を語ってくれよ、つまらないから、という要求です。もし、2020年の私がこれを聞いたらどう思うのでしょうか。おそらく「借り物の言葉で語んなよ。」に対しては「たしかに。それはそうだね。」と言うでしょう。しかし、彼はおそらくこうも言うでしょう。「私はたしかに借り物の言葉で話していますが私の考えをそこに乗せていないとは思いませんし、独我論?それは知らないですけれどそれではないこともあるんじゃないかって思います。」と。私はあまり納得できないし、それは言い訳じゃないか?とも思うでしょうがとりあえず認めるでしょう。だってそれのほうが面白いですから。

私の中には哲学マッチョが、文学マッチョが、います。私のとこまで来てくれ、と素朴に言えてしまうようなマッチョが。

そんな私に「そんなところで満足しているのか?」と言うことは意味がありません。だってそれもマッチョじゃないですか。

私にはボロクソ言える。しかし、おそらくあちらもそれは同じことである。別に喧嘩でもプロレスでもない。筋肉の見せ合いでもない。なんだろうこれは。

ただ、「あちらもそれは同じ」ではないとも言える。なにせあちらは過去でありあちらからすればこちらは未来だからである。そして4年の間に私は結構本を読んでしまったからである。

あちらはなんだか闘争という感じがなくおおらかである。しかしそれはゆるやかさとは違う。

私は彼を第1形態だとは思わない。言い換えれば私になる前の私であり、いまの私の方が優れているとは思わない。進化だとか成長だとかは思わない。いや、思えない。思おうとしても。

私には成長がわからぬ。短縮が成長だと言うのならそれはつまらぬものである。

目を瞑ると彼らは勝手に話し出す。眠ろう。今日はもう、眠ろう。

なにもしない、そんな時間。脳が休み、行き渡る。

頭の中が騒がしい。何の音やら、人の声やら、それはそれは騒がしい。眠りたい。しかし私は話す。それはなぜか。私一人の方が静かだからである。

ああ、だめだ。なんだか危険な気がする。さっさと寝てしまおう。すんごく眠いので。

2024/5/15「トランジションマン!」

言い訳でも、嘘でも、なんでもいいから話してみな。通俗的な語りを恐れずにさ、話してみな。

そもそもさ、君が思う「通俗」が全然通俗じゃないことはあり得るだろう?

上下を決める。それが鏡となり私が見える。私の鏡。私という鏡。

エフェクトによる奥行きと構造による奥行き。エフェクトというのは「奥行きですよー」という感じがする。構造の方がエフェクティブなのではないか?

なんだか頭がとても重たい。今日は展覧会に行って三時間強、頭を休ませることなく、いや後半は少し休ませていたが、ほとんど限界まで頭を使ったので誰か知らない人に、いや、知っているけれど特に特定のモデルがない人に話していることにして頭のガスを抜こう。その労働、頭の重労働からもう6時間弱経っているのだが頭が重くて仕方がない。寝たのにもかかわらず治らなかった。困ったことだ。

理解というのは対比を見つけることである。対比というのは共起と対立のあいだに存在する。それぞれを書き分けるために記号を導入しよう。「・」と「-」と「/」である。九つの要素からなる体系を考えるとすれば、「集める」と「理解する」と「強調する」という三つがあるカテゴリー、「・」と「-」と「/」という三つがあるカテゴリー、「テーマ」と「主題」と「議題」という三つがあるカテゴリーが縦方向に「集める」「・」「テーマ」、「理解する」「-」「主題」、「強調する」「/」「議題」というふうにあると考えられる。これを仮に表にするとすれば、縦方向は列であり横方向は行であると考えて、行の方にはカテゴリーが列のほうにはタイプがあると考えられる。

ここには表は入れられない(やり方を知らない。)ので頭の中で作図していただくことにすると下のように書ける。(*は間があるということを示す。)

「集める」*「理解する」*「強調する」
「・」*「-」*「/」
「テーマ」*「主題」*「議題」

余計分かりにくくなったかもしれないが、横方向は見た通りであり、*を軸に考えると左側と真ん中と右側がありそれぞれがタイプであるということである。横がカテゴリー、縦がタイプである。

さて、私がこんな表を考えるのはなぜだろうか。それは私が対比のカテゴリーの成立として主題のカテゴリーが気になるからである。これは問題意識としてそうであるとも言えるが、もっと根源的なものであり、おそらく、おそらくはそういうものであり、だからこそそれを詳しく理解するためにとりあえず三つにしておいたというわけである。特別三つにした理由はないが、強いて言うなら「均衡」のレトリックが私は好きだからである。「二重制限」のレトリックと言ってもいい。冒頭で私はこう言った。「理解というのは対比を見つけることである。対比というのは共起と対立のあいだに存在する。」と。さらに言えば「理解というのは集めることと強調することのあいだに存在する」ということになる。こういう「あいだ」性が私は好きなのである。それを見出すのが。

では、「主題」が、と思ったが、もう一つ言っておくことがある。「主題はテーマと議題のあいだに存在する。」と。「表記法」、すなわち「・」と「-」と「/」はそれぞれ「共起」「対比」「対立」を示すためのものであった。だからここまでの議論の「表記」についてはそれぞれに読み換える必要があるかもしれない。ここまでは普通の訂正だが、それ以上に重要に思われるのは、「表記法」が「タイプ」の名前なのか、あくまで「対比」が属するカテゴリーにおける簡便のための記号なのか、どちらか?ということである。そして私は「タイプ」の名前なのではないか、と思う。というか、そう考えたい。そう考えると、「タイプ」には「・」と「-」と「/」があり、それぞれ「集める」「共起」「テーマ」、「理解する」「対比」「主題」、「強調する」「対立」「議題」があることになる。

こうなると、「集める」「理解する」「強調する」などの行にも名前が欲しい。まあとりあえず、あまり納得はしていないが簡便のために「行為」「体系」「基盤」にしよう。「行為」は「集める」「理解する」「強調する」、「体系」は「共起」「対比」「対立」、「基盤」は「テーマ」「主題」「議題」である。これによって表はより綺麗になった。が、それを示す術が残念ながら私にはないのでみなさんに想像していただくことにしよう。申し訳ない。

さて、私たちの前には二つの道が続いている。一つは上でしようとしていたように「体系」においてどうしても「基盤」に着目してしまうというのはどういうことなのかを考えること。もう一つは……忘れてしまった。なので仕方ない、前者をしよう。わざわざ後者を出そうとしたということはおそらくそれがしたかったのだろうけれど。仕方ない。

私たちは議論を整理するとき、「体系」を用いる。「共起」「対比」「対立」が基本的な整理の仕方だろう。「共起」は「テーマ」によって「集める」ことであり、「対比」は「主題」によって「理解する」ことであり、「対立」は「議題」によって「強調する」ことである。私はそう言いたいのだ。ここで強調されているのはおそらく、「人間」の部分である。私たちはわざわざ「テーマ」や「主題」、「議題」を駆使して整理する。いや、整理するというのはそれらを駆使することなのである。

そもそも森羅万象から「共起」を見出すためには引力が必要である。その引力を見るための概念が「テーマ」である。そして「共起」に引力以上の関係を見出すためには安定が必要である。その安定を見るための概念が「主題」である。また、その「対比」に安定以上の安定を、つまりは舞台のようなものを見出すためには闘争が必要である。その闘争を見るための概念が「議題」である。

ここまで順番であるかのように話してきたが、これらは順番にあるわけではない。むしろ、「体系」が先にあり「人間」と「基盤」は後から発見されるのである。しかし、これはおそらく時間的な順序に過ぎない。基礎づけている-基礎づけられている、という関係で考えると「体系」と「基盤」の関係づけが「人間」として考えられていると言えるだろう。

さて、これは別に整理にすぎない。私がこれで何をしたいのかはわからないだろう。しかし、申し訳ないが私はこのことを何かのために作ったわけではない。すでに作られていることを整理しただけである。だからむしろ、これは何に使えるのだろうか?という問いがここにはある。

私はこの何かを悟るために使いたくはない。なんというか、これらはおそらくすっと身を引くことに使える。し、「基盤」と「体系」の関係を考えること、別様でありうると考えることは「権力」について考えることであるだろっ。その意味で有益ではあると思うし、「権力」をこけにしたい場合は役に立つだろう。しかし、私はそれが行き過ぎてしまうと思うのだ。私がそうであるだけでみなさんがどうなのか、私は知らない。が、私は怖いのだ。それが行き過ぎてしまうことが。それゆえに私はこの何かを持て余している。私はどうしてもこのようなことを考えるのだが、それを有効活用する術が見つからないのだ。

だから、整理することにしか使えないのである。そして「基盤」のところでずれている場合の絶望を味わうことにしか使えないのだ。しかも、私はおそらく「基盤」で通じ合えないような、そんな気がしているのだ。

しかし、通じ合いたいのだろうか。私は。わからないのだ。それも。コミュニケートしたい気持ちはおそらくある。が、それがなんなのか、私にはわからないのだ。

目の前に絵がある。私はそれに触りたい。らしい。なぜかって?触ろうとしているからである。いや、何かしていて、その何かは「触りたい」に見えるからである。しかし、触ることは許されていない。私は目で触ってやろうと近づくが監視している人、なんと言えば良いのだろうか、美術館の館員さんは私に近づいてくるのだ。「君、何をしているのかね?」と言おうと。それは正当なことだろう。それは正当なことである。しかし、私は何も悪いことをしていない。触って壊したいわけではない。触ってみたいだけである。触ってビリビリと剥がしたいとも思ってそうだが実際にそうしているわけではない。というか、そうしなかったから、私はそうしなかったからいまこのように文章を書いているわけである。しかし、ストッパーはどんどん緩くなって、緩めているわけではないが緩くなっている、そんな気がするのである。

そうか。この何か、これはおそらく「遅らせる」ために使えるのだ。生きることはその「遅らせる」の上に成り立っている。そうだ。きっとそうだ。しかし、それを整理してしまって、いや、つまらないものにしてしまって、それで私のストッパーはもはや消え去ろうとしている。バイバイしようとしている、私はそれにストップをかけている。逆転しているのだ。私もストッパーの関係は。

さて、結局何も話さなかった。が、私は割と満足している。区切りがつけられそうになったから。しかし、区切りがついたら危険な気もする。どうにかしよう。そうするしかないのだから。

写実がそれとして良いのはその写実性が生活と世界を現実として繋いでくれるからである。私はそう思う。

ラカンの理論はもしかすると「解放」に向けられているのかもしれないがそれゆえに反転して「解放」の反対、なんと呼べばよいか、「拘束」?それを愛せるようになった気がする。

私は天邪鬼なのだろうか。私はそうは思わない。

なんというか、常識をちゃんとそれとして理解させてくれる、みたいな議論というものは存在する。ラカンの理論はそれである。なんというか、めちゃくちゃなところに着地していない。着実にめちゃくちゃなことをしようという、そういう感じ。

私は他人とあまり話してこなかったのである。そして、それを理解してもなお、なお他人と話さないのである。

掴み取れない。そういう危機。キキのような危機。

でも、やっと勉強する気が起きてきた。私は賢すぎたのだ。そして賢しすぎたのである。

「この理論は絶対です。」と言うのは確かに批判しやすいことである。しかし、なぜそれが必要なのか、と言えば、差異をより細かく知ることができるから、であろう。そしておそらくその批判もこのことを前提に批判を組み立てる。それならばそれを明言した方がよいだろう。そして、その明言には留保のようにこう言うことが必要になるだろう。「理論は私たちの集合場所だ。アゴラだ。私たちはここで話さなくてはならない。が、その前にここに来なくては話すことすらできないのだ。」と。これが開かれたものになるか、それとも閉じられたものになるか、歓待的になるか、排他的になるか、それが問題なのである。このことを明確にしないといつまでも「理論と実践」というペアリングがつまらなくなってしまう。ペアリング自体がつまらないのではない。そのペアリングの支配的な解釈がつまらないのである。

私は私を否定しない。が、否定されていることを直視することはする。しかし、その否定がなぜ可能なのかを考える。これが現実逃避なのかどうか、そんなことは知らない。

何かを否定するということにはある構造が必要である。私はその一般構造を示そうとは思わないが結果的にそうなる可能性はあると思う。この「一般」とは「みんなで話ができる」ということである。私は公共性への目配せゆえにこのように言っているのではない。ただ単に「一般」とか「理論」とかは、少なくとも出自においてはそういうものだと思っているのである。これは信念であり、ある種の希望というか諦めというか、そういうものである。

主題から逃げる。それは仕方のないことだ。最も仮借ない繋縛とは主題とその応答の制限であるから。

2024/5/16「しゃっくりしゃっくり、しゃくれしゃくれ」

本は何度読んでもいい。別に新しい本を読むことが正しいことじゃない。これは別に古典を読むべきだということでもない。

本を何度読んでも楽しいのは私が否応なしに変容することにある種の希望を感じられるからである。

私はその問題に関しては興味がない。ということ自体は特に何かを意味するわけではない。が、それが一つの連鎖、円環になるとき、それは私の核心を描き出すのである。

強風の中を歩くとき、私はなぜか穏やかである。いや、「これが『穏やかである』ということなのか。」と妙に納得できるのである。

知らず知らずのあいだに私は、妙な戦略をとっている。その戦略を明らかにすることで私は「私の知らない私」を知ることができる。それは説明できるということ、もっと言えばこの手に掴むことができるということである。

「考えすぎる」というのはどういうことなのだろうか。「考える」ということをもし順序よく展開を構築することなのだとしたら「考えすぎる」というのはむしろその順序を狂わせるか、それとも循環させることによって、終わりなきものにすることによって構築させないことであると思われる。しかし、問題は「構築」における闘争めいたものがなぜ生じるのか、それはなんなのか、ということではないか。

私は思い出す。時々。「振る舞い」、「媚び」、「嘘」、それらを思い出す。

私はなんとなく、私の奥底にあるエピソードを見つけた気がする。あの、「目的のためには手段を選ばない」が成立するとは、そしてそれが成立することによってもたらされる、そんな裂け目を。

「媚びる」ことについて考えよう。

「媚びる」というのは「ある目的を達成するためにある特定の振る舞いを選ぶ」ことであると考えられるだろう。例えば、「ぶりっ子」は「愛されるという目的を達成するために愛してほしい人が好むような振る舞いを選ぶ」ことであると考えられるだろう。しかし、これは「媚びる」ことの本質には届いているのだろうか?というのも、私たちは「ある目的を達成するためにある特定の振る舞いを選ぶ」ということを普段からしていると思われるからである。そもそも「目的」によって「ある特定の振る舞い」を「選ぶ」というのは私たちがそう語っているだけなのではないだろうか?

このようなことを考える私の奥底にはあるエピソードがある。しかし、私はそれを触れることができない。まだ、できない。だから、仕方ないので哲学的に書くことにする。哲学的?うーんと、構造的に書くことにする。

さて、私は「ぶりっ子」について書いたことがある。私の近くにそのように言われる人、言われているらしい人がいて、その人がそれで悩んでいたから私はそのことについて考えたのである。と思っていたのだが、実は結構本質的な問題がここにはあるのかもしれない。その問題のキーワードだけ書くとすれば、「媚びる」「嘘をつく」「振る舞う」である。そして、おそらく問題なのは「本心」である。「本心」の周りに「媚びる」「嘘をつく」「振る舞う」がある。そんなふうに私には見える。

とりあえず私が書いた文章を読んでこよう。ちなみに、このタイミングで言うことではないと思うが、私は本が読みたいのにこのことを考えなければどうにも読めなさそうだったのでこれを書いている。

私が書いた文章のタイトルは「演技と遊戯とぶりっ子と」であった。私はそれを読んだ。しかし、困ったことにほとんどそこに書かれていた。それが投稿されたのは2021年らしい。私は3年前と大して変わっていないのである。しかも、おそらく私よりも深く考えられていると思う。多少整理が下手ではあるが、私よりも真剣に考えているように見える。いまの私は私の一種のトラウマを克服するためにしか考えていない。そんなふうに私には見える。

なので整理だけしよう。つんのめるような勢いが私にはない。私はただおろおろしているだけである。

ここからの引用は「演技と遊戯とぶりっ子と」からである。

どのような段階にあっても、戦略的思考は究極「バレる」かつ「美しくない」時にしか真に批判されないのであり、その批判を共有できるような装置やシステムを私たちは持っていないと私は考えている。
「演技と遊戯とぶりっ子と」

まずは前半から考えよう。「ぶりっ子」というのは「ある目的を達成するためにある特定の振る舞いを選ぶ」という意味で「戦略的思考」であると言えるだろう。そして、それが批判されるというのはこの「戦略的思考」が行われていることが「バレる」こととそこで行われている「戦略的思考」が「美しくない」こととが合わさって初めて生じるとここでは言われている。さらに後半ではその批判を「共有する装置やシステムを私たちは持っていない」とこの文章における私は考えている。後半については後に回すとしてとりあえず前半について考えよう。

「戦略的思考」を行っているのが「バレる」というのは「ある目的を達成するためにある特定の振る舞いを選ぶ」ということの「選ぶ」が「バレる」ということである。しかし、どんな振る舞いも「選ぶ」ことによって生じたものであると考えることができるのではないだろうか。どうしようもなく、仕方なく「振る舞う」ことがないと私は思わないが、周りからその「振る舞う」を「選ぶ」ことによって生じたことであると考えられることは避けられないことであるだろう。そうであるとするならば、そのように考えられることにはきっかけが必要であろう。なにせ私たちはいつも「選ぶ」ことをそれとして考えているわけではないからである。

そのときにおそらく「美しくない」という判断が現れてくるだろう。しかし、ここで注意が必要なのはその「美しくない」はおそらく「ある目的」自体にかかっているか、それとも「ある目的」を達成するために選ばれた「ある特定の振る舞い」にかかっているか、を区別する必要があるということである。(ちなみに私の関心はむしろ「達成する」という考え方自体なのであるがとりあえずそれは置いておこう。後半に議論するだろうから。)「ぶりっ子」の「ある目的」を仮に「愛される」ということであったとしよう。そうすると、「美しくない」というのは「愛される」ことを「目的」にすることであり「美しい」ことは「愛される」ことを「目的」にしないことであろう。もっと言えば、そもそも「目的」にするとかしないとか、そういうことを考えることがすでに「美しくない」のかもしれない。どれでもいいが、とりあえずそういうことになるだろう。もし、その「目的」自体は別にいいと考えると、その次はその「目的」を達成するための「ある特定の振る舞い」が「美しくない」から批判されていることになるだろう。言い換えれば、「美しい」ような「振る舞い」もあり得ることになる。それがどういうものか、私はよくわからないがとりあえずそのように考えることができるだろう。

かなり単純な整理だがとりあえずそういうことになるだろう。で、問題の本質、私がここで気にしているのは後半部分である。つまり、「その批判を共有できるような装置やシステムを私たちは持っていないと私は考えている。」というところである。私も同じように考えている。おそらく。

まず、私は上でも言っていたように「目的を達成する」というビジョンがよくわからない。わからないふりをしているのか、本当にわからないのかはわからないが、よくわからない。だから、もしこの「目的を達成する」というビジョンが「批判を共有できるような装置やシステム」であると言われたなら私は乗れない。その「装置やシステム」に。よくわからないから。これはある意味で消極的な結論である。もう少し積極的な結論について考えよう。「演技と遊戯とぶりっ子と」では上に引用した文章の少し後に次のように書かれている。

私がもしぶりっ子を過剰だと思っても、それは私にもあり得ることで、むしろ望ましいものであるように思える。
「演技と遊戯とぶりっ子と」

ここで言われているのは二つのことである。かなり深い問題があると思うのだが、ここで確認したいのは次の二つのことである。「ぶりっ子」は「目的を達成する」ことを目指すわれわれをその「過剰」によってある意味でおちょくり、ある意味で突きつける。「振る舞い」が「美しくない」というのはこのおちょくりや突きつけに反応しているだけであるのだ。わざわざ「美しくない」と言わせられているのだ。しかし、批判する人はそのことを知らずか、それとも知っていて隠したくてかはわからないが、その「ぶりっ子」の人だけが「過剰」であるかのように考える。しかし、私は私たちもそうだと思っている。というか、私は私もそうだと思っている。私はあまり批判されたことがないが私もそうであると私は自戒しているのである。まるで自分は「ある目的を達成するためにある特定の振る舞いを選ぶ」ことをしていないかのような、そんなふうに考えている自分を顧みているのである。このように顧みることが偉いと言いたいのではない。こういう構造がここにはあると言いたいのである。

そして、私が過去の私に愛を感じるのは「ぶりっ子」の「過剰」を「むしろ望ましいものであるように思われる」と書いているところである。これはたしかに私の自己欺瞞でもあるだろう。しかし、「ある目的を達成するためにある特定の振る舞いを選ぶ」ことの共有できなさ、「目的を達成するために」という「目的」のつまらなさ、そういう諸々を自覚しつつ、それでもなおそれをしてみようとする、そんな勇気、私はそれが素晴らしいと思うのだ。そして、いまの私にはそのようなエネルギー、踏み込みがない。だから冒頭にも言ったようにこのときの私の方が素敵であったと思うのである。

私は「ぶりっ子」を弁護しているように見えるかもしれない。しかし、それは半面であり、もう半面は私たちのどうしようもない「ぶりっ子」性、そしてそれを隠したくなるような心性を抉り出そうとしているのである。しかしそもそも、私たちはなぜそれを隠したいのだろうか。私は思うのだ。過去の私よりも意地悪な私は思うのだ。私たちはエネルギーを得るために「本心」とやらを作っているだけなのではないか?と。「本心」が「嘘」ではないということを確認するために、「本心」を事実にするために私たちは「ぶりっ子」批判のようなつまらない批判を繰り返しているのではないか?と思うのである。私たち、いや、私が恐れているのはエネルギーを失うことである。そして、素敵な私はエネルギーを得ることを見事に遂行している。まるで「ぶりっ子」を弁護しているかのように見せかけることで。

私はたしかに「みんなとは違う」と言いたいだけなのかもしれない。しかし、それは哀愁漂うものである。「ああ、私はみんなとは違う。残念ながらみんなとは……」というものである。みんなと同じになりたい。しかしそうはなれない。なぜなのか?なぜなのか?それを私は考えているのである。しかし、それは「みんなと同じになる」ことを「目的」にしているとは思えない。しかし、みんなはそれを「目的」にしていることにして、だからこそ私は「ぶりっ子」の人のように「美しくない」とか「バレてるよ」とか言われないのである。そう思うとなんだか寂しいというか悲しいというか、よくわからない気持ちになる。そうか、私はだから、むしろ「ぶりっ子」の人に憧れていたのだ。母を擁護する子どものように、母を擁護するしかない子どものように私は彼女を擁護していたのかもしれない。

まあ、単純に男女の差があるという社会的な要因からそうなのかもしれないが。これは事実だと思う。が、これをわざわざ言うのは照れ隠しのためである。おそらく。

ある議論に対して、さらに言えばその議論のテーマや主題、議題に対して「私はそれに興味がない。」と言うことは可能である。さらに言えば、「興味がないのに議論させられていることについて考える。」ということは可能である。しかもそれは別に議論をはぐらかすことになることはあってもそれを意図したものではない。そういうことはあり得る。議論の最大の問題はここにある。私はそう思う。しかし、このように思わない人がいても大して思うことはない。そもそも思うことはできるのか、それがわからない。

あることが問題であると言われるとき、それがなぜ問題なのかを「常識」で済ましてしまうとすれば、それは真に問題なのだろうか。

ある問題がとある問題の変奏にしか見えないこと。それは往々にしてある。それはどうしようもないことである。

極度に相対化された私。その私は真摯であるがゆえにニヒリズムに陥っている。いや、「陥っている」と言われうると知っていてもなお、真実のためにそれを信じている。

もちろん、解決されたことにする、というのは非常に重要なことだろう。しかし、私にはそれをすることができない事柄、問題が存在する。それがもし存在しないのだとしたら、それはそれで不思議なことだがおそらく不幸や幸福について考えないという意味で「幸福」であると言えるだろう。

「問題はそこにはない。」と言うことはもちろん困難である。しかし、私のコミットメントはそれを可能にはしない。これは能力不足なのか、それとも……

なんだろう。そもそも実感があまりない。「こうでしょう?普通に考えると。」と言われてもよくわからない。よくわからないぶってるのかすらわからない。

そもそもだが、ポジティブ/ネガティブという対比が必要であるのはなぜか?を考えなくてはならない。それが「対立」であることの意味を問わなくてはならない。

端的、素朴、それを私たちはそもそも解釈できるのか。それができると素朴に思うのなら、それはそれはおめでたいことである。私にはそのように思える。仮に私がそれをしたとしてもそれはおめでたいことである。いわんや他人をや、となるのかすらわからない。

「これらの研究から示唆されることは、「自分の生に意味はあるのだろうか」、「自分が生きる意味が分からない」という問いは、それを発した人の生にまつわる'深刻な苦しみの表出'だということである。特にそれが他者に向けて発せられた時には、'救いを求める嘆願'である可能性もある。」(『人生の意味の哲学入門』204頁)しかし、おそらく私はこう思っている。「『表出』や『嘆願』だと思われること、そして何かをされること、それが嫌なのである。」と。そしておそらくこのように言えば、私の周りにいる人は「もう何もしてやんね。」と言ったり思ったり、実際にそうしたりするか、それすら思わせないようにしたりそれを天邪鬼だと考えたりするか、どれかはわからないがそういうことをするだろう。そしてもしかすると、私はこのように思うことを忘れて、もしくは「表出」や「嘆願」であったことにして、これからも死ぬまでは生きていくのかもしれない。しかし、私が言うような嫌さが分からないならおそらく私は問題がわからない。それは仕方のないことである。ただ、「「私の生に意味があるのだろうか」という問いを発した人は、自分の生に意味があるかどうかを何らかの一般的な基準に基づいて判定してもらいたがっているのではない。その人は虚しさや疎外感に苦しんでおり、そしてその苦しみを知ってもらうことを願っている、あるいは救いを求めているのである。」(『人生の意味の哲学入門』204頁)の前半部分、そして後半部分のように解釈されることはわかっている。わかっているからこそ困っているのだ。

私はだからこそ、だからこそ私はあなたを神聖視したくないのだ。いや、神聖視するのは仕方ないとしてもそれをあなたに押し付けたくないのだ。それはおそらくあなたの破滅を導くものであるから。そして私にもし、生きる意味があるとすれば、それはあなたに幸せに生きてもらうことにあるからである。これが私の希望、同一性への応答である。それがなくなるとすれば、もう私はどうでもいい。私はどうでもいい。

君はこれを「ネガティブモード」と呼ぶ。その通りなら健康なのだが。

私は喜ぶ。私の中に未来やら過去やら、それらをまとめてみたいという、そういう不遜な感情が起こることを。

私は私を騙せるか。問われているのはこのことなのである。私は私を宥められるか。問われているのはこのことなのである。

私は修養として彼らを捉えない。私はすでに存在し、私はもはや存在しないからである。このことがわからない人の「わかる」がなんなのか、私はわからない。

私にもし、生きる希望なるものがあるとするならば、あることにするならば、私は、君が素敵に生きていることを見る、ということを挙げようと思う。

おそらく私の根本問題は「受容」にある。

未来の私の「受容」を信頼できなくなったこと、それが問題である。

他人をもっと豊かにせねばならない。私が想定する他人はいつもつまらないことばかり言ってくる。

実際の他人の言うことはほとんど聞いていないから実際の他人がつまらないかどうか、私は知らない。

いや、もしかすると、いや、おそらく、それは嘘である。君は聞いている。そしてそれをつまらなくしている。それを知りたくないと願っている。そうではないか?

つまらない声を聞かないこと。私はそれが苦手なのだ。私は私の判断を信じていないのだろうか。いや、判断とはそういう声を聞くことによって初めて価値があるものなのである。

頭が重い。明日が怖い。

韻を踏みたかっただけである。

頭が重いのは事実である。全身に重んでいたことはあったのだが。しかし、そのときはある程度「重ませよう」と思っていた。今回は勝手にそうなっている。困った。

お腹が気持ち悪い。頭が重たい。私はやっとちゃんと、レヴィナスの「最も仮借ない繋縛」を理解するための経験を得ている。これは一つのメシアニズムである。

一つの流線を奥行きとともに。

私はあなたたちの哲学を認められない。それが私の哲学である。これを「固執」と呼んだり「こだわり」と呼んだりしてもなお、ここで起きていることは何も変わらない。

揺籃がこの胸であり、私は動くからその胸にあるもの、それはわだかまりのようなもの、そういう呼ばれ方をする。

強調する、しているを見出すために構造を摘出する。

邪推期。いまは「邪推期」なのだ。

なぜ私は歴史に興味がないのか。歴史によって自らの見識を深めようという欲望を持たないのか。

私が興味を持たない、いや、持てないことについて書いてみよう。もちろん、真に興味を持っていないものはここに現れない。ただ、「興味を持てないなあ」と思うものは現れるだろう。さらに言えば、そのことについて考察することで私のことがよりわかるようになるだろう。

私が興味を持てないのは「歴史」である。もう少し精確に言えば、いま目の前にあるものの背景としての「歴史」である。さらに言えば、「歴史」の構造についても興味が持てない。「歴史は繰り返す。」と言われるような「歴史」、それにも興味が持てない。

私はある程度は不思議がっている。興味が持てないということを。私には「歴史」を学びたいという、そういう欲望がまるでない。と、書いてみて思ったのだが、私は「哲学史」においても「歴史」を学びたいという欲望があまりない。しかし、やはり「哲学」は学びたい。だから少し明確になった。私は「発展」や「成長」にあまり興味がないのかもしれない。「進化」は断絶していることが強調されてもいるから興味がある。構造が摘出されざるを得ない状況をその断絶は作ってくれるからである。そうか、私は断絶を繋ぐことには興味があっても断絶していないことを見てとることには興味がないのかもしれない。

もちろん、「歴史」も断絶と接続の連続ではあるだろう。しかし、接続がうますぎるとなんだかつまらなく思ってしまうのである。また、接続が強調されていても、言い換えれば断絶がありありと存在していても、それが「発展」や「成長」として考えられるとなんだか萎えてしまうのである。口をとんがらせて、「あーあ、」と思ってしまうのである。

だからおそらく、本質的には「発展」や「成長」アレルギーのところがあるのである。おそらく。

では、「変化」はどうか?

おそらくそれも嫌いである。「変化」のためには同一性を想定する必要がある。同一性を想定することなしに「変化」を考えることはできない。しかし、その同一性の想定には権力のようなものが働いている。それが嫌いなのである。しかし、この問題はあまり提起できない。なにゆえかわからないが。しかし、この問題をとりあえず保留にすることはできない。なぜか私はそうできないのである。

しかし、私は思った。「歴史」はそこまで闘争的ではない。なんというか、「嫌だなあ」というよりも「興味がないなあ」なのである。この差は何か。

おそらく同一性の想定を担保することを私が担わされているか否かが違うのだろう。「歴史」は国とか英雄とか大衆とか民衆とか、それらが同一性の想定を担保するのに遣わされている。私は残念ながらそのことにあまり問題を見出せない。しかし、「変化」、特に「成長」は私が同一性の想定を担保するのに遣わされる。個人として。それが嫌なのである。だって、私は多様なスケールで断絶しているのだから。それを単線にすることが許されるわけがないと思うのである。というかそもそも、線になる点の断絶は線になれるようなものではないと思うのである。

この嫌さを考えるのにもしかしたらベルクソンは役に立つのかもしれない。「変化」に代えて「変容」を考えたいと私は思っていた。少し前。「変容」は同一性の想定を担保する何かも「変化」しているとしたらその担保における同一性の想定を担保するものは何かと問えることを明確にする。もちろんそれだけではないが、とりあえずここではそのことが重要だろう。もちろん、このように考えることは無限を呼び込むだろう。どうしようもない無限。しかしそれでも、やはり、嫌なのである。興味を持ってしまうのである。

他人も生きている。それはよくわからないことである。しかし、だからといって自分だけ生きているかと言われると別にそういうわけではないと思うし、そういうことが言いたいわけではない。

2024/5/17「決戦投票」

どうしようもなさを直視する。それしか方法はない。しかし、「直視する」のにもどうしようもない問題、体力という問題が存在するのである。

「待つ」。何を待っているかを知りつつ。そういうとき、私はあれについて考える。あれについて、考える。

拡張と流線。

本を読む。人と話す。意外性を担保する。私はそれを担保する。ひどい言い方だと思うだろうか。しかし、これは少なくとも一面ではあるのだ。一面では、あるのだ。

2024/5/18「お手軽革命」

興味を持ってもらいたい。し、いいふうに思ってもらいたい。という、人間的な欲望。

黄金の雲の切れ端小鳥鳴く

雨が上がって、雲から太陽が出る。小鳥は鳴く。小鳥鳴く鳴く。

そうか。私には身体性やらイメージやら、そういうものが希薄である。それゆえの良さもあるのだろうが、それゆえの悪さも当然ある。それを見つめなくてはならない。

そう、そのためにはやはり、哲学書を文学のように読むことが必要なのである。もちろんそれは哲学の固有性を無視することではない。しかし、それが必要であることは変わらない。

手をくるりんくるりんとしてみなさい。宇宙があるのがわかるから。なんて言ったら「スピってるなあ」と思われるだろうか。しかし私はただ手の赴くその姿に自然を感じて、しかもそれが惑星の運行のように、そう、私たちがどうしようもない運行のように見えて、それはそれは気持ちが良いのである。

禁欲しよう。「はっとする」ことを。身をひくことを。身を引き剥がせ。

君は君の戦略を一旦解体したまえ。君に与えられたその時間によって。

例えばだけれど、ラップを聴いていて体が揺れる。そして私はそれを発見して、そのことを考える。そして見つける。「ああ、ここと私が反応してこうなっている(=体が揺れている)んだ」ということを。そういうふうに考えたり、さらには書いたりしたいわけだ。

ああ、あと、これに関係する比喩、私が好きなもので言えば、この「揺れる」ということ、そのことによって卵のような何か、何か均衡の象徴性のようなもの、それが生まれているのだということ、そのことである。

そのことの象徴的な表現はおそらくある種のグラス的な食器にある。

実は思うのだ。私は実は身体的すぎるがゆえに極度に形式的なのではないか?と。

複数性をそれとしてずっと保持することはできない。

私の変容についての宣言はある人にとっては同志を発見させるだろう。

どうにもワクワクしない。君たちの話は。面白くはあるよ。勉強にはなるよ。しかし、ワクワクはしない。なれて用例である。

さて、私はやけに私について考え、願わくば私の変容を促したいと考えている。

「私の変容について」ということについてかなりボリュームのある文章を書いてみたい。

最近の私は変わろうとしている。もちろん、私はいつも変わっていて、だからこそ「私」なんてものが必要であるとも言えるのだけれど、その「私」がもはや虚構に見えるくらい、そういうエネルギーを持った変化、言うなれば変容が起ころうとしている。そんな気がするのである。

その変化、変容を捉え、それをさらにぐわんぐわんと進めていくため、ここに宣言のようなものをしたいと思うのである。私はあまりそういう意識はなかったのだが、私は結構そういうものを重視しているらしく、それを利用してみたいと思ったのである。

さて、宣言らしく大きな転換を演出するとすれば、それはおそらく「身体性へ!」みたいなことになると思う。別の言い方をするなら、「概念からイメージへ!」みたいなことになると思う。

この宣言の内実を今から充実させていきたい。で、そこで重要なのは旧態を作り出すことである。しかし、それを「旧態依然」であると言って批判するだけではないことも重要である。別に何かを捨てて何かになりたいわけではない。し、実際問題そんなことはできない。

さて、私が変わると思っているのは私の極度な形式性の立ち回り?である。振る舞い?である。私は極度に形式的な議論をする。よくする。最近したもので言えば、「疲れきった頭で考える」で書いたような「理解」に関する議論がある。読み直すと改善したいところはたくさんあったのだが、とりあえず私の形式癖とも言えそうな形式性は垣間見えるだろうと思う。

もちろん、「改善したいところはたくさんあった」と書いているように形式というのはある種の集合場所であり話題であると考えられる。しかし、それがあまりにも抽象的であるばかりに誰も集まれず誰も話題にできない。そんな状況があるのである。

しかし、ここまで話してきて申し訳ないが、私が私の変容として語りたいのはそういうことではない。私が語りたいのは身体性、イメージを多用して語ること、さらには受容すること、そのことが生み出す、なんと言えばいいのか、確かな手触り?、ボリュームである。手がかりではなく手触り。これが一つのモットーかもしれない。

さて、宣言とモットーの違いを考えたくもあるがそれは置いておこう。ここで重要なのは「概念からイメージへ!」が「手がかりではなく手触り。」という落ち着きを得たことである。

さて、なぜ落ち着いたのだろうか。それはおそらく私が私の底に「コミュニケート」というテーマを発見したからであると思う。この「コミュニケート」は私と誰かのそれでもいいし、私と過去の私のそれでもいいし、私と作品のそれでもいいし、誰かと誰かの、誰かと作品のそれでもいい。そこに起こっている複雑な経験?みたいなものを考えたいという、そういうそれこそ抽象的であるが私にとっては確かな手触りのあるテーマ、それを発見したからであると思う。

しかし、私は別に身体性をおろそかにしてきたわけではない。しかし、私は書き始めると、話し始めると、やたらに形式的に、いや、抽象的に?なってしまうのである。

書くことと話すことの違いに着目しよう。書くとき、私は形式から始めることがある。こういう形式があります。だけで終わることさえある。それの出所を示さずに。出典ではない。出典はむしろ示しているときが多い。なぜその形式が必要なのか、どういうどうしようもなさから生まれたのか、それがまるでわからずに形式だけが提示されるのである。これはおそらく私の自閉、一つの閉じこもりなのだと思う。それはそれで大事だと思うのだが、それじゃあ過去の私といまの私ですら「コミュニケート」できない。それではわざわざ書いている必要がない。そんなふうに思っているのであろう。私は。

話すことに関しては、私は独特のオノマトペを使う。別にそうしようとしてそうしているわけではない。と、私は思っている。もしかするとクリエイティブぶっているのかもしれないが、私はそうではないと思っている。私はやたらとオノマトペ?正確な定義がわからないがとりあえずオノマトペっぽいものを使って、それで語ってしまう。それゆえに同じように「コミュニケート」できない。いや、もしかするとできているのかもしれないが、そのオノマトペに夢中になってしまって「コミュニケート」を忘れてしまう。自閉してしまう。いや、自閉すらできなくなってしまう。

あれ、なんか書くことがなくなってきた。というか、もはやない。ここからは振る舞いで見せるだけである。そんな気がしている。頭でっかちだったのかもしれない。いや、むしろ体でっかちだったのかもしれない。そのことをなぜか恥ずかしがっていたのかもしれない。実はずっと遠慮していたのかもしれない。

しかし、これも一つの物語であり、実はそんなことなかったのかもしれない。ずっと宙吊りにされ続け、いや、どうなのだろう。宙吊りにされ続けたのか、それが実は普通であるのか、わからないがとりあえずそういう感じだったのだと思う。私はずっと懐疑の海に溺れていたのである。いや、沈んでいったといった方がいいかもしれない。力を入れすぎて浮くことを忘れてしまっていたのかもしれない。し、浮いていたことなどないのかもしれない。

私はずっと「コミュニケート」が怖かったのである。いや、もちろんいまも怖い。それがなぜなのか、私はやっとわかった。のかもしれない。私は私の演技性を怖がっていたのである。それはどこまでも疑いうる。ここで打ち切ります!ができない。どこまでも疑いは続く。そして私はそのことを知っていながらも、そのことがなぜ起こるのかもある程度は知っていながらも、やはり怖かったのである。いまも怖い。私の「考える」はもしかするとこの恐怖に抵抗しようとしたものなのかもしれない。しかし、私はそのことを自覚しつつあるのだ。自覚したところで何にもならないのかもしれないが。

目覚めすらない。そんな微睡の中に居た。いや、もしかするといまから微睡みにゆくのかもしれない。それでもなお、私は醒めるのだ。どうせ。だから、それを信頼しつつ私はゆきたい。どこにかはわからないがゆきたい。生きてゆきたい。

箇条書きにしてそれぞれについて書こうと思っていた。が、別にそんなことはしなくてもいいのかもしれない。まだしなくても。私はそうやって考えてきすぎたのかもしれない。ボリュームはここから生まれる。物量。それは今日から生まれる。しかし、その元となるものはたくさんある。私はたくさん書き、たくさん読み、たくさん生きてきた。感じ、憂い、笑い、微睡んできた。ぼーっとしてきた。ずっと。

考えすぎないこと。さりとて考えること。それがここからの目標である。私は世界を愛し、他者を愛し、そして私を愛するのである。それは無条件な明るさではない。そこにはきっと恐れや諦め、醜さがあるだろう。しかし、だからこそそこには手触りがあるのだ。君は透明な膜に包まれているのではない。世界もそうである。君はもう、世界とまったく接することができないことに恐れることはないのだ。そうなったらまた誰かに包んでもらえばいい。

ある種の禁欲によってある種の欲望を見つける。

私は私を卑下しない。けれども、私は私を怖がる。

戦略というのは整理された整理のことであるのかもしれない。そうであるならむしろ、私はそれをしたい。そう思えるのかもしれない。

2024/5/19「たいした悩みではない」

さてさてさて、私は思うのだ。太陽が出てちゅんちゅこちゅんちゅこ鳴いている小鳥たちは喜んでいる。ように見える。が、実は恐れているのかもしれない。実は、恐れているのかもしれない。

太陽を。

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