「悟る」こと、もしくは「悟る」ことに似た確信

この、私の確信はなんだろう。「おそらく、私はもうすでに悟ってる」という確信。悟りという宗教色を抜いていきたい。

 ここからは徒然に私のある、確信についての文が続く。適宜注釈をしていきたい。ちなみに、この連続的な文はある程度は公表するために書かれている。
 では、行こう。冒頭が一文字空いているものが注釈で、あとは文。連続した文である。昨日書いたもので考えも変わっているだろうが、とりあえず修正は誤字の修正のみにする。あと、注釈は一文に一つ入るわけではない。入れたいときに入れる。だから一つも入らない可能性がある。では、行こう。

なんというか、わからないことはない、という感覚にも近い。いや、仮にわからないことが出てきたとしても大抵は「わからなくてもいい」と思うだろうし、そのように思わなかったとしても「なんにもわからない」にはならないと思うだろう。そういう確信。

もちろん、新しく知ることはたくさんある。しかし、私は揺るがない。これは信念ゆえにそうなのではなく、ただ単に揺るがないのである。

なんというか、一貫した意見を持った、ということではない。「一貫した」わけではないのか「意見を持った」わけではないのか、おそらくどちらでもない。

 いま考えてみると「持った」と「持つ」の関係がここでの議論にとって重要かもしれない。しかし、ここでは示唆に留まらざるをえない。とにかく、記憶にはないがこのような文脈も背景にある。それだけは指摘しておきたい。

いや、もちろん、変容はありえる。から、未来の私は揺らぐかもしれない。しかし、明日は明日の私が居る。今日は今日の私しかわからない。ただそれだけのことである。

 ここでの「変容」は「変化」と対比されて用いられることが多い。私の文の中で。「変化」とはある基体が変わることであり「変容」とはある基体自体が変わることである。つまり、「記憶」を例に取れば、変化を記憶するためには変化前と変化後の記憶が基体として必要であることがここでは重要である。つまり、その意味で言えばここまで言われている「確信」は「基体」のことであり、ここでの「変容」はその「基体」自体が変わることを指している。もちろん、それをそもそも指せないと考えることもできる。しかし、私はどうせそのように考えたとしても「変化」と「変容」が「基体」を必要とし続けるという規則はおよそ言語を用いる限りは逃れられない規則であるように思われるのでどうせ「変化」と「変容」は二重化するように思われる。これを「持つ」と「持った」に適用してみてもいいが、その場合「意見」は「基体」の役割を果たすことになって、それはかなり特殊な「意見」の用例になると思われる。とりあえずは示唆に留める。これは示唆に留めるしかないわけではなく示唆に留めるのである。

これは別に「人生は単純だ。」みたいなことではない。人生は複雑すぎる。しかし、なんというか、これはなんなのだろう。

何度か考えようとしたができなかった。そしてできそうにない。

なんだろう。深まることはあれど広がることはない。そんな感覚にも近いかもしれない。

私は悟った。何を?

 ここでふりだしに戻っているように見える。それは間違いない。なぜか。私はここから「考えるぞー」と思い始めたからである。記憶では。

私の「悟る」への違和感はこれに凝縮されている。というのもわざわざ「悟った」と「言う」ことが意味不明なのである。もちろん、言わない方がいいというわけではない。だから別に言ってもいいが、それを言う意味がわからない。もちろん意味など求めるのは変なのかもしれない。もちろんそうだが、なんというか違和感がある。

もちろん、「言う」ことは遊戯であると言うこともできよう。実際そのように言っている人もいる。が、遊戯だとして、その「遊戯」は何を目指すのだろうか。いや、「目指す」というのは言い方が悪い。明らかに。

 ここでの「言っている人もいる」ということで想定されているのは『仏教思想のゼロポイント』における魚川のことをとりあえずは指している。ちなみに私はこの「悟った」と「言う」ことの違和感がこの本を読んだ後から生じたのか、それともそれ以前に生じたのかを忘れてしまった。これはおそらく本質的なことではないが、ここでは本質的かもしれないので書いておいた。私には予感しかない。いまは。いまも。

なんというか、「遊戯」を邪魔される気がするのだ。もちろん、これは意味を求める私の癖ゆえの疑問であるとも言えよう。しかし、私はこのような癖を介さないと違和感について考えることができない。

 最後の一文の「違和感」はここでの「違和感」を指すのか、それともあなた=私が抱く「違和感」全体を指すのか、これはここでは余計な問題であるし、前者であると読むのが妥当だろう。しかし、おそらく私は後者ゆえにこのようなことを書いていると思う。私がそう思うだけであなた=私がどう思うかはわからないが。

一つ、宙吊りにしてみよう。君はおそらく意味を求めたいと思っている。そして「悟る」というのはそういうことから脱け出すことであるとも思っている。しかし、「悟った」と「言う」ことは意味を求めることであるように見える。そう君は言うわけだ。君は単純に投影しているだけではないだろうか。言おうが言わまいがそれは「遊戯」なのである。君は「遊戯」にも外在的にせよ内在的にせよ意味を求めたいだけなのだろうか。その欲望を投影しているだけなのではないだろうか。

たしかにそうである。しかし、私は違和感を持っているのである。「悟った」と「言う」ことに。「悟る」ことに違和感があるわけでも、そうあろうとすることにも違和感があるわけではない。しかし、何か違和感があるのである。

テーマを変えてみよう。なぜなら、ここでの主題は「悟る」とか「悟った」とか、そういうことではなく私の根本的な確信、これから先何が起こっても大丈夫だろうなあ、という確信の所以を探ることである。

最もつまらない、そして端的にな答えは愛されているから、もしくは愛されていると思っているから、思い込んでいるからである。愛してくれるのは誰か、私であり他人である。

私はかつてこの愛してくれる私というものがこの確信の正体ではないかと思っていた。が、なんとなく違和感がある。もちろん、未来の私は私を愛してくれるだろう、ここでの確信はそう表現することもできそうである。しかし、それもまた他人の愛によって可能になっているように思われるのである。

ここで私の話がややこしくなる。私によって。なぜか。それは私は過去の私や未来の私は他人だと思っているからである。もちろんこれが精緻化されていないからここでの議論がよくわからないのだが、それを言っていても始まらない。

 これは上で書いた「違和感」がここでの論脈か、私という論脈のどちらに位置づくのかが曖昧であるということに関わることであるように思われる。そしておそらく、もし前者の論脈に位置づけるなら「一つ、宙吊りにしてみよう」というところで話は終わっているように思われる。一時的な非-賦活であるとしても。

私と私、戸籍上、社会関係上一応同一人物だとされている人たちは少なくとも私にとっては複雑な仕方、錯綜した仕方で関係しあっている。それは決して単線の上に左から右へと動いてはいかないし、複線だとしても左から右へは動いていかない。それらは常に問いと応答の関係にある。未来の私が問い、過去の私が応える。その間に私がいることもあれば、逆の場合もあるだろう。し、私は間にいるだけではなく問いと応答、どちらかを行なっていることもあるだろう。そういう複雑さがある。錯綜している。しかし、この錯綜を、複雑さを、単純化せず、しかしクリアに理解することを諦めず、掴もうとしている。そしておそらく、ある程度は掴んでいる。このことゆえに確信しているのかもしれない。

 ここでの議論はかなり重要だと私は思うが、とりあえず確認しておきたいのは複雑さをそれとして理解するがゆえの単純さへの気づきということがここでの「確信」の一つのメタファーとなっているように思われる。このことは上でも「人生は単純だ。」ということとの関わりで触れられていた。

一つの結論に到達したようにも見えるが、もう一つだけ考えたいことがある。それはわたしが極めて強く持つ「かたっている」ということにおける「騙っている」と「語っている」の曖昧さの感覚である。この感覚もまた、おそらくは確信の基礎となっている。

 ここで私は「私」を「わたし」と書いている。こういうところに着目できる人はかなりセンスがあると私なんかは思ってしまうのだが、おそらく変換ミスである。まあ、これも騙りなのかもしれないが。

一つ、ここで重要そうなことだけ書こう。もう眠たいので。それはかたる(語る/騙る)ということは聞き手に一貫性を感じさせさえすればいいのだから聞き手同士の関係性と聞き手とかたり(語り/騙り)の一貫性のペアさえ作れれば、どんな行為も正当化されるということである。もちろん、原理的には(ウィトゲンシュタインやクリプキが明確にしたように)どんな行為も正当化される。しかし、原理と現実は違う。現実は人間的な規則が存在する。そしてその規則は上に挙げた「かたる(語る/騙る)ということは聞き手に一貫性を感じさせ」る必要があるということと「聞き手」が持続して存在しているということ(実はこの中にペアの話と聞き手同士の関係性の話は収まると思う)であると思われる。それゆえ、この規則さえ満たせば(もちろん、第三者的なメタ規則を含めるとややこしいが)「騙る」はいくらでも「語る」になる。

 ここで、わざと意地悪なことを言えば、問題がすり替えられている。しかもそのすり替えこそが真の問題であると考えることもできる。さらに言えば、その粉飾のために無駄な話が入っていると考えることもできる。ここでは「持続して存在する」という問題が急に現れている。ペアの話と聞き手同士の関係性の話とすり替わる形で。ここがすり替わるかどうかはとても重要な問題である。しかも、いまの私がそう思っているだけであるという可能性は捨てきれないが「聞き手同士の関係性の話」はここでは関係ない。いや、関係するかもしれないがそれこそ「第三者的なメタ規則」の話でややこしくなってしまう。もちろんややこしいことを避けないというのは一つの勇気、豪胆さであり、それは尊敬されるべきだと思うが、ここでの考察にとっては一つの穴ぼこ、しかもそこに吸い込まれてしまうせいで話がわからなくなる穴ぼこであり、それをしっかりと検閲できていない私の能力不足がここに現れているように思われる。

簡単に言えば、思っているよりも「語る」と「騙る」は近いのである。それゆえに「語る」ことが求められる場合も最低限の規則さえ守ればいい、と(もちろん実生活ではこのことが悟られないようにする必要はあるが)思うと気が楽なのである。

 ここでは暗に「気に病む」ということが対比の一つの項として導入されている。ここで「確信」の話はもはや消えていると言うことができるように思われる。もちろん、完全に消えているわけではないがもはや「確信」の話ではなく「心づもり」の話になっているように思われるのである。これは別に悪いことでも良いことでもない。しかし、それが見抜かれていないと話がわからなくなるだけである。

そして、上で挙げたような複雑で錯綜した(周りから見れば持続した個人である)私同士の関係はここでの気を楽にすることを勇気づけてくれる。もちろん私にとってこれは真実であり、疑う余地のないことであるから勇気など必要ないが、いざとなればここまで「語る」こともできるだろうという、そういう楽さがある。

 ここでは「確信」の話への揺り戻しがなされているように思われる。そして、おそらくは意図せず「複雑で錯綜した(周りから見れば持続した個人である)私同士の関係」の話が私の論脈によって滴り続ける蜜であることが表現されているように思われる。しかし、これらの関係は階梯におけるフロアの関係にあるわけではない。つまり、どちらがよりメタかという関係はここにはない。ただ単に賦活される論脈が違うだけである。

端的に言えば、私は舐めているのである。人間を。社会を。人間社会を。そして幾重にも張り巡らされた反転をすり抜けることはできないだろうと踏んでいるのである。

 ここで「すり抜ける」のは何か。それはおそらく他人の私に対する(ものであると他人においては想定されているだろう)教化(きょうか/きょうけ)的な発言である。その発言は結局すり抜けられない。私まで到達しない。それが「舐めている」ということである。別に外面が「舐めている」わけではない。

もちろん、死ぬことや誰かを失うことは怖い。が、それもまたそのときの振る舞いを「語る」と「騙る」の間でなんとかかんとかすればよい、とも思っている。

 急に死や喪失の話が出てきているが、これはおそらく「舐めている」態度を取ることができない事象の例であるように思われる。しかし、それを振る舞いの次元まで持ってこれば結局「すり抜ける」ことはできない、つまり「舐めている」ことは維持されるだろうということがここで言われている。しかし、それは単純に言われているわけではなく「と思っている」ではなく「とも思っている」と言われているから、やはりそれが「すり抜ける」可能性は振る舞いの次元に支えられていることもここでは言われている。

人でなしであろうか。そうだとも言えよう。しかし、人であることがわかるためには人でなしであることができる必要があるだろう。もちろん、この「ある」とか「ない」とか、そういうこともそれぞれによる。

相対主義的すぎるだろうか。しかし、持続した個人という基礎を失った相対主義であるからそれを極限化したものが私の考えの基礎にはあるだろうから、そのようなものである限りの相対主義はそれであるとしか言えないだろう。しかもこれは単に持続した個人という幻想を暴いているだけでなく、個人ということの成立にもこのような相対主義的経緯が必要であることの証立てであると思われる。

 やたらとわかりにくい文である。しかし、二つの契機があることくらいはわかる。一つは「相対主義的すぎる」としてもその「相対主義」が「持続した個人という基礎を失った相対主義」が「極限化した」(ここでの「極限化」はおそらくデカルトの連続創造説のようなものを指していると思われる。)ものであるなら、私が考えていることからしてそれを採用しないことはあり得ないということを示させるような契機である。もう一つはこのようなことが実は「持続した個人」の成立には必要不可欠であるのではないかという契機である。この契機はおそらくメレオロジー(全体と部分の関係を扱う議論)的な契機であるとともにその契機がどのように適用されるかというおそらくはドゥルーズや九鬼周造の議論に関わる契機であるように思われる。示唆に留めるわけではなく示唆に留めるしかない。いまは。

そう、最後に一つだけ。私はおそらく根底がアパシックなのである。アパシー的なのである。だから、ここまでのように問題を立てていると「問題なんて存在するのか」という元も子もないことを言われて、それを否定してはいるが、根底はそれを否定しきれないのである。だから最終的にはそこに行き着くと、私はあらかじめ知っているのである。もちろんこれは私の限界でもあるのだが。

 ここでは「確信」の正体がアパシーかもしれないことが指摘されている。言わば、私は私に対して次のように言っている。意地悪に脚色しよう。「君は例えば「複雑で錯綜した(周りから見れば持続した個人である)私同士の関係」を作って、それ「私の論脈によって滴り続ける蜜である」とか言っているけれど、それは君が作り出した幻想だろう。その幻想が見せる問題、のようなものに拘泥する理由がどこにあるだろう」と言われている。そして私はそれを否定しきれない。もちろん、さまざまな理論によってそれに抗おうとすることはできる。しかし結局はすべては幻想になると私は思っているのである。

 さて、思いのほか楽しかったし、いいものになったのではないだろうか、と珍しく自信がある。しかし、ここでの自信は別に誰かに良い気づきを与えられたとか、考察が深まったとか、そういうことによるものではない。ただ単に私は私の文たちに注釈をつけることが楽しく、生き生きとしてきたので賦活力という意味で自信があるということである。最後にその賦活を終わらせるようなことを言っているように見えるかもしれないが、これが唯一ここで書かれるべきことであったように思われる。冒頭でも中盤でも終盤でもなく、最後にあれが書かれていることが重要なのである。だから、私は「悟った」と「言う」ことはもしかするとこういうことなのかもしれないと思った。大オチ。それを作った。それが「悟った」と「言った」ということであるように思われる。もちろん、この大オチを死とか喪失とかに見てもいいだろう。まあ、私は「大オチ」を「言っている」なあ、と思ってしまうのだけれども。

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