あるテーゼに関する私の理解の変遷に関する私論

 ここで書くのは「偶然性の自覚が深まれば深まるほど、倫理的に振る舞うことが可能になる」というテーゼに関する私の理解の変遷です。
 まずはこのテーゼの出どころから確認しましょう。とは言ったものの、出どころは過去の私です。だいぶ昔の私です。いつの日か私は急にこのテーゼを一言一句違わぬ形で書きました。そして私は思いました。「これこそが真実だ。」と。ほとんど啓示のように訪れたこのテーゼ。私はそれ以来、時々このテーゼを理解しようとしています。その理解の変遷を書くのです。
 初め、私はこのテーゼを前半と後半に分けていました。そして主にそこで用いられている概念、例えば「偶然(性)」「自覚」「倫理」「振る舞う」ということに着目して考えていました。例えば、「偶然(性)」については九鬼周造の『偶然性の問題』を最もちゃんと読みました。関連書籍にも当たり、私はそれを理解しようとしました。その過程では入不二基義の『現実性の問題』や永井均の『哲学探究1』なども読みました。また、千葉雅也の『動きすぎてはいけない』や國分功一郎の『ドゥルーズの哲学原理』などを読んでドゥルーズの議論にも触れました。後にドゥルーズの『差異と反復』を千葉や國分の書籍以外の関連書籍にも当たりながら理解しようとしました。もちろん、この期間の学びすべてがこのテーゼの理解に充てられていたわけではありません。しかし、時折私はこのテーゼに帰り、考えていました。「自覚」についても同様に哲学における議論、例えば京都学派の議論やハイデガーやレヴィナスの議論などを参考に考えていました。ここで重要なことはその内容というよりも態度です。私は「偶然(性)」や「自覚」という概念に照準を当てて理解しようとしていました。
 このような理解とは少し異なり、「倫理」や「振る舞う」については主要な対比があり、その対比の理解についても主要な参照点がありました。もちろん、「偶然(性)」や「自覚」についても「偶然(性)」なら「必然(性)」が、「自覚」については……特に思いつきませんが、とにかく主要な対比がなかったり(これが「自覚」ですね)、主要な対比があったとしてもその対比の理解については主要な対比があるわけではなかったり(これが「偶然(性)」と「必然(性)」の対比の理解ですね)したのですが、「倫理」と「振る舞う」についてはそうではありませんでした。しかも、いま振り返ってみればこの二つの対比の理解は一人の思索に依拠するところがとても大きかったと思います。その一人とは古田徹也です。私は古田の『行為の哲学入門』と『不道徳倫理学講義』に影響を受け、「倫理」と「振る舞う」を考えていました。そして「倫理」は『不道徳倫理学講義』に、「振る舞う」は『行為の哲学入門』に対応させることができるように思います。さらには、『不道徳倫理学講義』には「人生にとって運とは何か」という「偶然(性)」に非常に近い、さらに言えばこの本を読めばわかるのですが「人生」は「自覚」とも非常に近い議論を含んでいるのでもしかするとこのテーゼは古田に触発されるところがかなり大きいのかもしれません。
 ただ、二つ書いておきたいことがあります。まず、これは二つのどちらでもないのですが、私はこのテーゼが仮に古田の思索に私が思っていたよりも大きく依拠していたとしてもどうでもいいですし、プライオリティを争うことはありません。現実にもそれはないでしょうけれど。その上で二つ書いておきたいのはおそらく、記憶によれば私はこのテーゼを書いてからこのテーゼを理解しようとして古田の著作を読んでいったという順序が正しいということと私は古田の「人生」という問題設定に共感ができないということです。結果的にプライオリティを主張しているように見えるかもしれませんが、ここに見てほしいのは私が概念に注目してこのテーゼを理解しようとしていたということです。思ったよりも古田に依拠していてびっくりしたので少し口籠もっていますが、とりあえずそれがここでは重要なことです。これをとりあえず前期と呼びましょう。この理解の仕方を。
 次に、私はこのテーゼの「深まれば深まるほど」という表現と「可能になる」という表現について考えるようになりました。もちろんこんなに明確に分かれているわけではないのですが、これを中期と呼ぶことにしましょう。前期が概念だとすれば、中期は文法ですね。これは実はウィトゲンシュタインに似た変遷です。意図せず、ですし、少しねじれた関係があるとも思われるのでとりあえず書いておくだけにします。後にもう一度触れます。この二つの表現は特に依拠したところもないので、さらに言えば現在進行形で続いている着目なので触れにくいのですが、前者が「成長」に対する「成熟」を提示している表現で後者が「努力」に対する「構造」を提示している表現であると言えるかもしれません。もう少し細かく言えば、前者は「変化」に対する「変容」を提示している表現で後者は「主体」に対する「場」を提示している表現であると言えるかもしれません。細かく言えていませんね。ここはまだ整理できてはいないのでとりあえずテーゼに「成長/成熟」や「変化/変容」、「努力/構造」や「主体/場」というテーマを明示していることだけ確認しておきましょう。
 ところで、いま思い出したのですが、「倫理」に対比されるものと「振る舞う」に対比されるものとを確認するのを忘れていました。古田の著作を挙げて満足してしまいました。「倫理」に対比されるのは「道徳」、「振る舞う」に対比されるのは「行為する」です。そして、いまから確認する後期はこの対比の理解を刷新しようとするものであると言えます。なので焦って確認しました。焦っていたのでしょうね。似すぎていて。
 私は前期において「倫理」と「道徳」を「規則に従う」というテーマに対する二つの形態であると考えていました。とても単純に言えば「倫理」は「規則に従う」ことを肯定するか否定するかということで「道徳」は「規則に従う」ことを肯定した上でどのように従うかを考えるものという感じで私は考えていました。しかし、いまの私はそうではありません。いまの私は「倫理」を「道徳」との対比というよりもむしろ「生活」との類縁性によって捉えています。この移行はかなり大きな移行で、正直なことを言えばこの文章はこのことをしっかりと記録するというか、考え始めるというか、そのために書かれ始めています。この移行が起こった理由はよくわからないのですが、一つキーとなった本をあげるとすれば『歪な愛の倫理』という本が挙げられると思います。その本の中で小西は次のように述べています。

他に選択肢があったのではないかと思われるような死や、避けられたように思われた死を、ただその人のあり方として見つめることはできないだろうか。

『歪な愛の倫理』213頁

 ここでは「死」というテーマがあるので少し引っ張られるかもしれませんが、ここで確認したいのは「ただその人のあり方として見つめること」という表現です。小西がこの本の「まえがき」の註で「倫理(ethic)の語源はギリシア語のエートス(ethos)であるが、エートスには、住み慣れた地、習慣、性格、気質、風習、人柄など幅広い意味がある」(『歪な愛の倫理』15頁)と指摘していることを踏まえると、ここではある人のエートスを「ただその人のあり方として見つめること」が言われていると言えるでしょう。もちろん、この語源については知っていましたし、ここで言われていること自体もそれほどユニークなことであるとは思われません。しかし、小西の議論は私に「倫理」に「生活」を近接させることを勇気づけたとは言えます。そして少し反省すらしました。ただただ概念や文法を弄んでいるだけで理解が成就すると思っていた私を。もちろんその私も「生活」していたのですからこの反省は徹底されえないのですが。
 もちろん、このように考える前にも精神分析の議論、特にその中でも「特異性」の議論に触れていたこと、さらには同じときくらいに文学をもう一度ささやかにではあるものの読み始めたり読み直したりしていたこと、また「癖」や「偏り」について考え直していたことなどが影響していないわけではないでしょう。ただ、ここではそれらとは異なる決定的だと思われるようなことをもう二つだけ確認しておきましょう。
 一つはレヴィナスの読み直しによる影響、もう一つは千葉雅也と山口尚の対談による影響です。レヴィナスの読み直しからいきましょう。
 私は最近、レヴィナスの初期の文章、「逃走論」を読み直しました。上でも書いたように「自覚」という概念について考えるとき、私はレヴィナスを一度通過しました。しかし、そのときに抱いていた印象と読み直したときの印象は劇的に違いました。特に次の文章はここでの劇的さに関係のある文章だと言えると思います。

逃走は存在そのもの、「自己自身」から逃れるのであって、存在に課せられた制約から逃れるのではない。逃走において自我は、自分がそうではなく、また、決してそうならないだろうもの、すなわち無限と対立するものとして、自己から逃れるのではなく、自分がそうであり、そうなるであろうものそれ自体と対立するものとして、自己から逃れる。逃走の関心は有限と無限との区別を超えたものであって、ちなみに、有限と無限という観念は、存在という事実そのものには適用不能で、存在の力能と諸特性にのみ適用されうる。逃走する自我は己が実存というあからさまな事態しか見ておらず、この実存が無限という問いを提起することはない。

『レヴィナス・コレクション』152頁

 ここに示されていることは最近読んだ『バタイユ エコノミーと贈与』の表現を借りれば、実存の問題化は「不可能性の可能性」によってではなく「可能性の不可能性」によってなされるということであると考えられます。(ちなみに『バタイユ エコノミーと贈与』においてこの対比は前者がハイデガーやコジェーヴの問題化として後者がブランショやレヴィナスの問題化として取り上げられていて、バタイユはまた別の問題化を示したものであると指摘されている(『バタイユ エコノミーと贈与』186頁)。この議論はとても興味深いが、とりあえずは置いておこう。関係がないわけではない。)もちろん、「逃走」という主題はレヴィナスに特有の主題で、その描き出しの見事さにも驚くばかりなのだが、ここではこのような問題化の組み替えが私の「偶然(性)」の理解に対して与えた影響について確認しておきたい。(ちなみにここでの驚きについては「レヴィナスの「逃走論」の冒頭を読んで」という文章を書いているので興味のある人は読んでほしい。)
 二つの問題化は「偶然(性)」という概念の理解における「可能性」を重視する問題化と「現実性」を重視する問題化として考えることができる。「偶然(性)」をとても簡潔に定義するとすれば、「可能性」における「現実性」の重みのことである、と言えるのではないだろうか。この定義をとりあえず受け入れてもらえるとすれば、二つの問題化は「現実性」を軽くする問題化と「現実性」を重くする問題化であると考えられるだろう。ここでの軽重は別に問題の価値を示すものではない。しかし、いまの私はレヴィナスのような問題化に前期の私がいわば概念的にしか理解していなかった「ただその人のあり方として見つめること」を可能にしてくれる力を感じている。前期の私は「現実性」を軽くしていた。それゆえ「偶然性の自覚」というのは「現実性」を相対化していくことをほとんど意味していた。そのような相対化のなかで反転して絶対化が起こることなしに「自覚」はありえないと思っていたがそのことは軽く取られていた。言い換えれば、そのような絶対化が起こったとしても相対化は可能であるし、それが可能であることがある種の爽やかさを生んでさえいた。しかし、レヴィナスの読み直しによって相対化がもはや不可能な絶対化があるかもしれないと、いや、そうであるのだろうと思うようになった。もちろん私は揺れ、分裂していて、そうは言っても、とひっくり返そうとしていないわけではない。ただ私はレヴィナスのところに留まって、そこで考えようとしている。それゆえに前期の私の爽やかさがある種の軽さに見えてきているのである。
 ここまで語ってきた一種の停留はそれ自体でも勇気づけられている。それが千葉と山口による対談である。千葉と山口は『現代思想』における「哲学のつくり方」という特集の冒頭の対談の中で次のように言っている。

山口 私の場合は哲学的エッセイだったり哲学の学術的な文章だったりするのですが、作品をつくるときは必然性を追求すると進まなくなりますね。絶対のものなんて無理です。だからそのときに何か自分をドライブするものというか、今これがやりたいとか、今これが大事だからこれでいくとか、偶然的なものにのっていったんつくってしまう。そうすると一つできて、それは検討の対象になったり<ふまえるべき何か>になったりして、その結果、新たなものを生み出していくことにつながります。
千葉 わかります。大きな必然性の追求としてではなく、その都度、機会的につくる。機会とは偶然性です。偶然性によらなければ、ものはそもそもできません。究極の必然性を求めていくと、結局のところ世界そのものと一致するような理論を目指すことになるでしょうが、そういった仕方で一つのものが結晶することはないと思うわけです。
山口 だから何か作品をつくるときも最初から主義やイズムみたいなものがあるというのりも、たまたまの具体的な問題があってそれをきっかけにいったん作品が結晶化する。面白いことにいくつか作品をつくってあとから振り返ると、そのときは気づかなかった筋があったりします。回顧的に筋を見出すのもまたひとつの「創造的活動」なのでしょうが、自分はこういう主義を取っていたのだと気づくのは事後的であるほうが面白い。

『現代思想』(特集 哲学のつくり方 
もう一つの哲学入門) 12頁

 ここでも「偶然性」が語られていて少しわかりづらいですが、ここで重要なのは「筋」に多様性を見出すということだと思います。上で二つの問題化として分けていた二つの道をしっかりと二つの「筋」として描き出す。だから私は前期の私の議論も軽いけれど爽やかであると思っています。ただ、いまはそういう仕方ではなく重くて痺れる、そんな仕方で考えられている。それぞれを「筋」としてしっかり「回顧」しておくことで私は私の揺れや分裂をそれとして守っているわけです。この文章をドライブしているのはレヴィナスの読み直し、そして小西の「エートス」としての「倫理」の具体的提示です。とりあえず書いてみているわけです。
 また、もう一つだけ注目しておくとすれば、前期の私は「究極の必然性を求めてい」たと、言い換えれば「世界そのものと一致するような理論を目指」していたとも言えるでしょう。このことはまるで前期ウィトゲンシュタインがしていたことのようです。しかも、いま、私は「エートス」としての「倫理」、言い換えれば「生活」と近いものとしての「倫理」を考えようとしています。それはまるで後期ウィトゲンシュタインが「生活形式」への帰還したことのようです。ウィトゲンシュタイン自身の表現で言えば次のようになります。

我々はツルツル滑る氷の上に入り込んだのだ。そこには摩擦がない。だからある意味で条件は理想的である。しかし、まさにそのために前に進めないのだ。我々は前に進みたい。だから"摩擦"が必要なのだ。ザラザラとした大地に戻れ!

『哲学探究』(鬼界彰夫訳)第一部一〇七節

 ここでの「ツルツル滑る氷の上」というのは『論理哲学論考』における「論理の結晶の様な純粋さ」(『哲学探究』(鬼界彰夫訳)第一部一〇七節)を指している。そしてここでの「ザラザラとした大地」、その「摩擦」は『哲学探究』における「生活形式」のことを指していると考えられる。
 ここまで書いてみて、私は私が無理やりウィトゲンシュタインの前期・中期・後期という変遷に私の変遷を重ねようとしているのを見る。が、実はそれは初めから間違っている。前期ウィトゲンシュタインは、いや、おそらくウィトゲンシュタインは概念を把握するという仕方で世界について考えていない。そして私はむしろいま、中期と後期の間にいて、その二つをどちらとも尊重しようとしている。けれどたしかに私にはウィトゲンシュタインとの相似性が見えていた。あれはなんだったのだろうか。勘違いであったと言えばそれまでだが、そうではないとすれば私は何をしようとしているのか、ということについて考えておきたい。重ね合わせがすんなり終わってこの文章は首尾よく終わる予定だったのだが、最後に峠が来た。
 私は重ね合わせの最初に次のように書いていた。

[私の変遷の:引用者]前期が概念だとすれば、中期は文法ですね。これは実はウィトゲンシュタインに似た変遷です。意図せず、ですし、少しねじれた関係があるとも思われるのでとりあえず書いておくだけにします。

あるテーゼに関する私の理解の変遷に関する私論

 ここではちゃんと「似た」とか「ねじれた」とか、そういうことが理解されています。しかし、最後に差しかかり私はそれを忘れ、相似性だけを見てしまっていました。それはなぜでしょう。それは簡潔に言えば、「究極の必然性を求めていくと、結局のところ世界そのものと一致するような理論を目指す」という千葉の言葉に前期ウィトゲンシュタインが見えたからです。そしてそれを千葉が「そういった仕方[=「世界そのものと一致するような」仕方:引用者]で一つのものが結晶することはないと思うわけです」と書いていることに少し反抗しようというか、そういう気持ちがあったからです。この反抗というのはウィトゲンシュタインの前期から中期・後期への転換をある意味では擁護してある意味では綿密化して行われようとしていました。そのことに目を奪われ、私はウィトゲンシュタインと私の違いを無視して私とウィトゲンシュタインの共同体を作ろうとしてしまっていたのです。勝手に。
 これが事の顛末ですが、ある意味弁明が成り立つと考えられる見方もあります。それは私が「文法」への着目と「生活」への着目において前者はかなり前期ウィトゲンシュタイン的に尖らせていこうとしていて後者はかなり後期ウィトゲンシュタインから千葉雅也的に尖らせていこうとしていたからこそこのような混同が起こったのだという見方です。これはウィトゲンシュタインの変遷を直線的に考えるとよくわからなくなるような見方です。なぜなら前者の先鋭化は中期から前期への移行に似ているもののむしろ中期の深化だと言えるからです。(これは私の中に前期ウィトゲンシュタイン的な問題意識がないということではなくむしろそれがありありとあるからこそ混同が起こったとしか言えないかもしれないのですがこの問題意識の共有はかなり局所的、すなわち独我論的な問題意識の共有であってその他のいわば「摩擦がない」ことを目指すような問題意識はないからこそ、そしてそのことを明瞭には認識していなかったからこそ混同が起こったと考える方が妥当だと思います。)また、後者の先鋭化は(一つ前の括弧で書いたようなことを一旦無視するとすれば)「生活形式」の議論が持つ極限化された複数性を前提としてその上で何ができるかという問題を問うものであると言えます。(ちなみに無視しないとすれば、ここには複数性をそれとして考えるための同一性をどこに見るかという問題があり、ここで考えられようとしている、言うなれば実践的な問題はウィトゲンシュタインの言い方を借りれば「ある表現を別の表現で置き換えるだけ」(『哲学探究』(鬼界彰夫訳)第一部二〇一節)であるような「解釈」のあり方の問題である。その場合、この「解釈」のあり方をばらけさせてしまわないのはある種の作品が存在するおかげである。そしてその作品はテーゼでも構わないのである。だからこの文章自体が一つの「解釈」、「ある表現を別の表現で置き換えるだけ」を続けたものであるとも言えるのである。しかし、そこでの複数性は「生活形式」のように極限化されるわけではなく「筋」として「一つの」ということを保って作品のようになるのである。)

 さて、一つ前の括弧がまとめにかかったので終わりにしたい。が、一つだけ強調しておきたいことがある。それは力尽きてしまったということである。もっともっとこれを読む人を賦活したかった。力が漲ってくるような、考え始めようとか、表現し始めようとか、受容し始めようとか、そういうことを勇気づけるような文章を書けなかったことである。私は私に渦巻くエネルギーを掴むことに必死で、みなさんに何かを与えられることはできなかったと思っている。
 最後にもう一度テーゼを読んでみよう。

偶然性の自覚が深まれば深まるほど、倫理的に振る舞うことが可能になる

 私はいま、二つのことを思いついた。一つは「倫理的に振る舞う」という表現のミスマッチ感はどこから生じるのかという問いについて考えること、もう一つは「偶然性の自覚」は私の「生活」に深く関わる緩やかな実践なのではないかという発想を綿密にすることである。ただもう、ここに書く元気はない。が、予感はいつも元気である。このテーゼを読むと私はいつも、何かを考えたくなる。概念や文法から「生活」へと移行したいま、私は私のスタイリング(スタイルを提示すること/問題を仕立てること)を問うているのかもしれない。今日提示できたのは、いや提示することになったのは「前言撤回」(これは後期レヴィナスのスタイリングの特徴である)ではなく「自己批判/弁明」というスタイリングである。言い訳がましく見えたかもしれないが、そしてたしかに言い訳がましいのだが、それでもそこに私なりの整理が現れたことは喜ばしいことであった。そういう種類の喜び、私はなんというか満足している。自己満足にすぎないと言われようと満足している。さて、もう疲れたので今日は、今日はもう疲れたので関係がありそうな詩を一つ作って終わりにしよう。作れなかったらまあ、どんまいということで。

君も一人なのか、街路樹よ
いや、君は一人ではないようだ
なにせ私が見ているのだから
なにせ君は美しいのだから
しかも君は街灯で美しいのだから
こんなにも単純に美しいこと
私は君に何を見ているのだろうか
いつ見ても君は美しいが、私はなぜ君を美しいと思うのだろうか
いつ見ても美しいというのは不思議なことだ
けれどそれは嘘じゃない
いや、嘘なのかもしれない
けれど美しい。君は美しい

 素直すぎて恥ずかしいがこれくらいが良いのかもしれない。さて、夜の散歩に行こうかな。今日はなんとなく、澄んでいるから、危険かもしれない。街路樹と街灯が素敵すぎて夜が明けてしまうかもしれない。それならそれで、いい。いつか君をもっと素敵に詩にできたら良いな。

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