『ジャムおじさんの日記』

2024/4/29「ジャムおじさんの日記」

今日もまた、読書の楽しさについて考える。

少し視点を変えて実用性について考えてみることにしよう。

読書が実用的なのはメシアなきメシアニズムを獲得できるからである。

この「メシアなきメシアニズム」というのは「救世主なき希望」みたいなものである。またそういった経験の構造を指す。おそらく。高橋哲哉が『デリダ』でそう言っていた。気がする。

30代になったら再読をメインにしよう。これまで読んでおそらく骨肉となりそうだと思ったような本を再読する期間にしよう。

別にいまでもいいが。

緩やかな流線。物語、個人、解釈。

線ではなく流線であるということ。

表現というのは偏りを自覚しないことによって受容というのは偏りを自覚することによって努力の素地ができる。

私は君の邪魔をしているのではないか。君は私との思い出とやらに執着しているだけなのではないか。そしてそれは君の幸せにとっては余計なものなのではないか。私はそう思うのだ。

叩きのめせるものなら叩きのめしてみてほしい。しかし、私は死ぬか、それか生きながらえて哲学(もどき)をするか、そのどちらかでしかない。

私がしていることは何か。哲学ではない。私のしていることは何か、それはわからない。ただ、私は何かしている。

快楽はどこかに消え、私は私。

何かが揺れている。それによって揺れていない時よりも存在している。屹立している。

見つめられると困るなあ。窓から入ってきた、おそらく泥棒である君に。いや、君が。

別に不満はない。いや、不満があるとすれば、もっと根本的なことに対する不満である。

私は私を苦しめるために哲学してきたわけでも文学してきたわけでもない。倫理学してきたわけでも美学してきたわけでもない。

どうして私は同一性、継続性に固執しているのだろうか。私にはわからない。私はそれを忌避していたはずで嫌悪していたはずではないか。ただ、このような語りも同一性、継続性に則った語りである。

高止まりする。そこまでたくさんの何かを集める。それによってやっと高止まりで止まらなくなる。かもしれない。

この「高止まり」は経済用語ではない。

私がしているのは「自己嫌悪」か、それとも「『自己』嫌悪」か、私にはわからない。

私は私の批判が鋭すぎて恐れ慄いているのか、それともその奥にあるマッチョイズムにビビっているのか、それともその奥にあるニヒリズムを隠しているのか。私にそれを判別することができるとは思えない。したとしてもまた私は思うのだ。

私は何に困っているのだろうか。

私は君に問う。問うてしまった。「必要なことなどあるのだろうか。」と。意地悪である。私は意地悪である。

たしかに理解は対比によって成り立つとは思うのだが、「理解した」を正当化するために対比を持ち出すことと対比を発見することで理解することを区別する必要はあると思う。

2024/4/30「さんじゅう」

どうしようもない同一性。

どうしようもない同一性まで行く。

君が生への繋縛なのか、それとも生への繋留なのか。私にはわからない。

あれよあれよ、となる前にあれよ。

できないことをまるでしないことみたいにする。信念を持つ。

2024/5/1「ついたち」

魔法というのはコツの象徴化である。

考えるということには二つある。はやいやつとゆったりしたやつ。私は前者がとても苦手らしい。

なんというか、やることが明確でやるために考える、みたいなのが苦手なのである。できないという苦手ももちろんあると思うがそれ以上にそれをしようとする私を私が嫌いなのである。

問題にしてしまうこと。どうしても問題にしてしまうこと。

別に君がいない世界に価値がないわけではない。ただ、別に君がいない世界に価値があろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいのである。

八方塞がりはなぜ辛いか。それは「八方」はあるからである。

その、へなちょこなメシア、それを手放しなさい。

私は私に言っている。何か言っている。しかし、本当にそれは私なのか。この問いはとても危険な問いだ。しかし、それは本当に私なのか。

私は当てつけのように君に怒る。私はそれが嫌なのだ。

2024/5/2「あてこすり」

君は君自身を説得せよ。

すべてが連鎖だとして、その始まりを問えないとして、だからなんだと言うのだろうか。

「だからなんだと言うのだろう」と思ったから、言ったから、なんだと言うのだろうか。

辻褄の合わせ方が変わっていく。

「次止まります」のボタンがどんどん星に見えてくる。疲れている。

耳を澄まして感覚を研ぎ澄まして、私はそれを聞いてみようと思う。聞ゆ。

ああ、今日はくるくると上に螺旋。あれはなんだか、なんだか気持ちよかったなあ。

私は私の分身を求めていたのかもしれない。

「その情報は今は欲しくない。」そういうこと。

バスで帰るときとバイクで帰るとき、私は違う。その違いとは何か。それはおそらく、結構重要な違いである。だが、それが何であるか、よくわからない。

例えば、バスに乗っているときに泣くことはできるだろう。が、バイクに乗っているときもそうだろうか。

なんというか、私には妙な出し惜しみ癖と妙な極端癖がある。例えば、このバスとバイクの話は自己啓発の話や仕事の話、人生の話などと接続できる。そう確信して話し出しているが、それを書こうとは思わない。それは確信が揺らいでしまうのが怖いからかもしれないし、後から読んでも私ならわかるだろうという傲慢さからそうなのかもしれない。

身を引き剥がす。その抜け殻は文学と呼ばれるだろう。

そうか。あなたが「A時点では決心した」というのはA時点で「よっしゃやるぞ。」とやり始めたということではなくもっとモザイク状なのだが一言で言うとそう言えるということだったのか。まあ、本当にモザイクではなく決定的な瞬間があったのかもしれないが。ただ、その瞬間をメシアに仕立ててしまうことへの一つの忠告としては機能するだろう。この気づきは。

「偽メシア/メシアを仕立てる」はどう理解すればよいか。どういう対比を当てたらこれは理解できるのか。

まず、名詞と動詞の違いはある。それと、というか、それはどういう違いなのか。

いま思いついたことを言うと、「メシア」は「仕立てる」ことをがなされていない「メシア」を指していると言えるかもしれない。つまり、「メシア/偽メシア」を「X/仕立てる」で理解できるのではないか、ということである。

じゃあ、Xは何か。

私はあまりに言語論的転回的なので思いつかない。

反実在論的と言ってもいい。

ただ、別に観念論的であるわけではない。(観念論/実在論)/独我論を私は信じている。というか、そうだと思っている。信じる信じないとかではなく。永井均的な用語を使うと、並在論/独在論みたいになるかもしれない。が、この「在」は実在論の「在」とは異なる。が、これを言うのはすんごく難しい。考えるのも。

別に私は物語られない過去は存在しないとは思わない。が、物語られない過去は存在するとも思わない。なんというか、これがどちらも思えるし、逆に言えばどちらも思わないこともできるのはなぜか、というのが問題だと思う。どっちでもいいのだがどっちでもいいのはなぜかを考えている。

スラスラしゃべるとき私は考えていない。ただ単にこれまで身につけたものを出しているだけである。たしかに、つまっていたとしても、どれだけ革新的なことを言っていると思ったとしても、このことは変わらないと言えば変わらない。

頭がずっきんじゃっきん。

リフレッシュはリ・フレッシュの時点でフレッシュじゃない。

ただ、これはどのようなことにも言えることであり、反復可能性と言語の考察が思い出される。

もちろん、このこと自体も反覆可能性(デリダ)があると言えよう。

同一性と言語。

もともとあったのは差異である。みたいなことは「もともとあったのはXである」に対する一つの仕方である。

なんだろう。わかってるとかわかってないとか、理解できているとかできていないとか、そういうことを別にすると哲学者のうちで最も読みやすいのはヘーゲルであるように思われる。特に「区別」と「存在」の関係を説いたところなどはまさにそうである。

2024/5/3「では私が舞台を!」

何について考えるか。それを考えることはできるか。

「AとBはCの点で同じでDの点で異なる。」さて、どういう順序なのか、そしてなぜその順序で考える必要があるのか。

アパシーを隠すための感受性。

Aを隠すためのBがそれとして判明するのはいつか。

例えばこれはハイデガーの真理に関する議論にもラカンの似たような議論にも見られる問いである。

なぜAができないのか。(Aはとりあえず伏せておく。が、私は知っている。)

それを考える前になぜ現在の仕事を辞めたいのかを考える必要があろう。

それに対しての答えは二つ。そもそも働きたくない。もう一つあげるとすればAができないからである。

Aができないことが仕事を辞めたい理由になるのか。それはわからない。し、結局それは解決されるだろうと思われるかもしれない。二つの答えは別に同じ資格を持っている。理由になるという資格である。しかし、おそらく「そもそも働きたくない」は許されない。

それは何故に許されないか。それはおそらく同一性及び継続性の問題からそうである。が、もちろん結局はそれを信じるか信じないかは私の行動によるから私は私で私を苦しめているわけである。

ただ、私は自己嫌悪しているわけではない。話をややこしくしたくはないが、そもそも「自己」が何かわからなく、それを成り立たせるものに拒否反応があって苦労しているのである。だからこれはおそらく自己嫌悪ではない。もちろんこれもねじれた自己嫌悪だと考えることはできるだろう。しかし、そう言って何か変わるのだろうか。何か素敵な考察が展開できるのだろうか。

私の生を支えているのはおそらく、この「素敵な考察をする」がおそらく私の全人生(私は「人生」もよくわからないがとりあえずわかりやすそうなのでこうやって言っている。)を支えている。どんな羽目になってもそれはできるだろうという自負が全人生を支えている。が、ここはデッドロックだ。つまり、なぜ「素敵な考察をする」をする必要があるのか、と言われればよくわからない。それはみんなそうである。このことを見ないために「幸せ」のような抽象的な概念は存在する。

ただ、私は別にそれでもいいと思う。人のせいにしたり、訳のわからないことをしたり、そういうことでその人が苦しまなくて済むならそれはそれでいいと思う。というか、現実問題としてはよくないのかもしれないが「それでいいと思う」と言う人も必要であると思う。し、そう言っている人はあまりいない気がするし、そう言うことによって展開される素敵な考察もあると思って、そう思って言う。

さて、ずれてしまったが、私は仕事がしたくない。その理由をとりあえず「Aができない」に求めたわけである。では、

光の猫が私の目の前交差点

では、「Aができない」のはなぜか。それは単純に言えば慣れていないからである。しかし、「これから慣れるのだろう」という観測ができないのはなぜか。それはおそらく、やる気がないからか、承認への性急さがあるから、である。

私は前者であると思いたがっている。が、後者であると言われても特に文句はない。承認への性急さは言い換えれば能力不足を隠蔽したいという欲望であると言えるかもしれない。私は私の能力不足が露わになるのが怖いのである。簡単に言えば、「君(私のこと)は無能だ」と言われる(この「言われる」は言葉にされることも含まれるし態度でそう見えることも含まれる。前者と後者は違うかもしれないがそれを一緒くたにすることを誰が批判できるだろうか。私たちはみなそうしているとも言えるのに。というか、そうとしか言えないんじゃないか。)ことが怖いのである。

もちろん、彼ら(同僚のことを指す)に聞けば教えてくれるだろう。私はエージェントになるわけだ。狭義の。広義のエージェントから狭義のエージェントになるわけだ。しかし、私はそれも嫌だし、それ以上に現実的にあれもこれも聞いている暇はない。忙しないから。もちろんこれは思い込みであるかもしれない。しかし、これを思い込みであるか誰が判定できるだろうか。

で、「やる気がない」の方が現状には適合する、と私は思う。が、この「やる気がない」は許されない。と思う。まあ別に「許される/許されない」から逃走することはできるだろうり正当に逃走することも。しかし、私は申し訳なく思うのだ。いやおそらくそれ以上に、いや、とりあえずこう言っておこう。それとともに同一性や継続性を放棄するのが怖いのである。分裂して、際限なくそうしてしまうことが怖いのである。

もちろん、この(際限ない)分裂への恐怖が言い訳であると考えることはできる。が、理由が「言い訳である」がそうでないかはどう判断することができるのだろうか。それが同一性や継続性、それと近い持続性で判断されるのだとしたらそれはここでの問題がもうすでに通り過ぎられている。だからなにもわかっていない。そのように思う人は。しかし、困ったことにおそらくそのように思う人がほとんどである。というか、組織自体がそういうことを前提することによって成り立っているのである。

たまたま私はずっとあなたが好きである。たまたま。

この「たまたま」は様々に固定されてやっと愛とやらになるのである。いや、まあ、単純に言えば、だが。

で、私は思うのだ。私が「やる気がない」せいで気の良い同僚たちを苦しめることは申し訳ないと。もちろんこれも問題を通り過ぎている。が、単純に実感としてそう思うのだ。困ったことに。私は同一性に関して板挟みなのだ。しかもどちらも実感を伴って。

もちろん、これは、私の自己分析不足ゆえの弊害であるからそれに償う、ということであるとも考えられる。しかし、何度も言っているように私は「自己」がよくわからないのだ。よくわからないものを分析できるだろうか。もちろん「分析」は「析出」であると思えば、もう少し言えば「作ること」であると思えばそれを怠った弊害であると言えるかもしれない。が、私はなぜか統一性のようなものは持ちたいと願っているのだ。私はあからさまな態度に出してしまうほどそうなのである。いや、この「あからさまな態度」は問題を飛び越えた証なのかもしれないが。

私は人間としての私にまるで魅力がないことがわかってきた。ただ、この人間界で「人間としての私」以外の私など存在するのだろうか。

2024/5/4「でかい問いかけ」

私、あなた、私たち、私、あなた、私たち……

2024/5/5「あらあらあらあら」

ニヒニヒするだけじゃなくニヒリストになる。

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