「生活」と「読み書き」

 私は歩く。私は乗る。私は歩く。着く。そういうことをしていると、いや、そういうことがしばらく反復されるのだと思うとなんとなく、なんとなくこういう生活でしか書けないことがあるような、そんな気になる。
 この信念を支えるのは単純な思い込み、もしくは洞察である。それは「生活」と「読み書き」は連動しているという、そういう信念である。信念を支える信念というのも変な言い方だが、どちらも信念であることに変わりはない。だからそういう言い方をさせてもらおう。

 さて、私は最近「緩やかさ」みたいなテーマを考えることが多い。そのテーマと連動しているのは例えば「幸福」みたいなテーマである。「緩やかであるほど幸福だ。」みたいなことを単純に言えば思っている。し、このテーマに上で書いた信念、二つの信念は関わっているような気がする。
 ただ、その関わりはよくわからない。「緩やかさ」というのは複数化とメシアなきメシアニズム化の二つによって考えられるだろう。この二つは言うなれば二つの相対化である。しかし、その形式は空間と時間に分かれている。しかし、そのどちらでも絶対化が避けられている。相対化したいというよりも絶対化したくない、みたいなことである。ここにあるのは。これがおそらく関わり方である。
 眠たいのでもう書く気はない。寝たいので。しかし、「生活」と「読み書き」の独特の連動は私に上で述べたような相対化を促進する。それに私は乗っておきたいのである。私にとっても享楽だから。このことは心理学でも議論されている気がしたが知らない分野なのでキーワードだけ置いておこう。「時間選好」である。しかし、私はおそらくこのキーワードの意味では「緩やか」ではない。もちろん、「緩やか」ではないからそれを求める、というストーリーは分かりやすくもある。が、私はそれをある意味脱したからこのように書いているとも言えよう。ややこしくなりそうなのでこれくらいにしよう。毎日毎日書く。読む。眠たいと思いながらも受容する。疲れているからこそできる受容もできたらする。表現する。そういう訓練によってやっと、やっと生活を楽しめるような、そんな気がするのだ。私は他人にこの訓練を強制することはない。しかし、案外楽しそうだ、くらいは思わせられたら嬉しい。

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