『猿真似の猿真似』
2024/4/22「猿真似の猿真似」
ご飯がまだ美味しい。良かった。
そう、もう少しねじって、もう少し引き剥がして。
生存バイアスということを真剣に受け止める。
既存の問題は私の中で育まれる。しかし、子どもが親の鏡であるのと同じように問題は私の鏡である。
生存バイアスと振り返り、後付け。
人間の強調としての個人。
君には言わないが君は一つの主題なのである。
私は「主体」となれぬのだ。リズムがなく、リズムから外れたものとそうではないものの区別さえつかない。それゆえに私は楽しむことすらない。ただぼんやりとした苦しみだけがあり、私は「主体」とみなされないのだ。
もちろんそうだ。程度の差である。仮に「程度」が「環境」とそこに存在する「生物」との間にあるものだとするならば、その一般的法則があるにしても、あることにしたとしても私の「程度」はそれとは違う。同じであるとみなすことはできるが。
そう。私がどっちつかずでうだうだしている間に私は結局死ぬのだ。
悲劇にすらならないだろう。悲劇にするためには相当の努力が必要で、その努力を見せないようにするためにもまた相当な努力が必要である。私は努力できなくて困っているのだからこれは解決不可能なのだ。
理由の理由の無理由。ニーチェがそのようなことを言っていた。たしかにそうだ。だから困るのだ。それを知ると理由というものは仮に存在するとされた次元に頼ってしか存在できないのだから。ただ、これはちゃんと理由になっていない。
なぜか慣れる。そういうことはもちろんあるだろう。しかし、「慣れるだろうよ。」というのはその真理の表現ではあるがそれだけであることができない。
読むのはたしかに楽しい。しかし、それはなぜ楽しいのか。
とても良い問いだ。なぜ私はこれまでこれを問わなかったのだろうか。問うていたとしてもその問答を覚えていないのだろうか。
なんというか、ミニマムなリズムというのがキーワードだと思う。
2024/4/23「テンションに」
なぜ読書は楽しく労働は楽しくない、辛いのだろうか。
読書と君と居ることとはどのように似ていて、どのように似ていないのだろうか。
低気圧で頭痛。そういうずんむりした存在の繋縛。別にどうしようもないわけではないがどうでもいいわけではないような、そんな痛み。
私はどこかを見ている。何かを見なくてはいけないときは。
何も直視できない。そう言えばそうだろう。
妬みというのは突出への人間的反応ではあるが別にその突出が妬みの原因かと言われればたしかに生まれなければ楽しさも苦しさもなかったという意味での原因であってほかの原因ではない。おそらく。
もちろん、二つの原因性をどう区別するかはわからないが。
もちろん「比較」はだいぶ前から言っているように悲しみ・虚しさの原因である。しかし、対比自体を成り立たせる基盤の「比較」は悲しみ・虚しさそのものである。
私は最近「死」というものを身近に感じるが、それはおそらく根本にある「死の欲動」みたいなものに対する制限が疲れやら永遠やら、そういうものによって取り払われたがゆえである。もちろん、これは私がそう思っているだけであるが。
言いたいのは何かがあって「死」が身近になったのではなくて何かはもともとあってその何かに対する制限が緩くなったから「死」が身近になったということである。
もちろん、前者でも後者でも「労働」がアンサーではあるのだが。
くそどうでもいい対比。ブルシットな対比。それは存在しうるか。ある対比に対してブルシットであると言い得るか。
そう、決断の根拠は衝動であり、私たちはそれを知らないようにするために理由を付けるのである。
なぜ自己矛盾は最も啓発的なのであろうか。
そう。別に特に理由なく接続したそれを魅力的にするのだ。
マゾヒストすぎる。
マゾヒストというサディスト。
2024/4/24「拳銃と研修」
希死念慮念慮。
生きているジェルのような血と油。
ジェルを噛む噛む自販機の前。
何について書いたかはわかりませんが何かについて書きはしました。
そう、素晴らしい問いだ。そう、その問いとは「読むのはなぜ楽しいのか。」という問いだ。私は結構切実にこのことを問うている。その理由は端的である。その理由は私が働き始めたからである。私は働き始めた。そしてその中で本を読む楽しさを忘れかけ、そしてそれをかすかに思い出し、というようなことを繰り返している。そして私は生活ではなく労働を変化させようとしている。私の中から読書という快楽を消し去らないために。だからその快楽を少しでも明瞭にしておきたいと思ったのである。もちろん、解き明かそうとなど思っていない。私はただ単にその快楽が何であるかを見極めたいのである。もちろん、これは本末転倒かもしれない。そもそも快楽である読書をそれとして掴もうとするのは。なぜならすでに快楽なのだから。ただ、私は掴みたい。そしてもっともっと愛したい。そういう気概である。
私の快楽はおそらく構造?の発見、そして構造同士の構造?の発見にある。まとめて言うとすれば、体系の発見である。
ただ、これはなんというか、相当エネルギーを絞った言い方である。
というか、そもそも構造は「構造同士の構造」のことである。みたいなことがエネルギーである。
2024/4/25「珍語国家」
私は何も忘れていない。なぜなら忘れたことすら忘れているからである。同じように私は何も覚えていない。なぜなら覚えたことすら覚えているからである。
君は寝た。私は起きている。
対比でのみ理解を認める。いや、対比を意味がわかるように提出できたら理解とみなす。しかし、この場合の「意味がわかる」はなんなのか。
2024/4/26「大魔王」
ぐおんぐおんと適応していく。心が体を追い越す。体が心を追い越す。
なぜ生きるのかと問われれば私は答える。「本を読んで素敵に生きるためだ。」と。ここで注目したいことは二つある。一つは「素敵に生きるためだ。」ではなく「本を読んで」というある種の限定を含んだ答え方をしていることである。もう一つは「なぜ生きるのか?」という問いを「どのように生きるか?」という問いに対する答えにある種付随するような形で答えているということである。言い換えれば、「(死ぬこともできるのに)なぜ生きるのか?」という問いに対して副次的にしか答えず「(生きるにしても)どのように生きるのか?」という問いに対して主題的に答えているということである。
風に揺れるネモフィラが地球の集まり、星の集まり、銀河の集まりに見えた。
そう、これが事実。現実。ここから始まる。ここから始まる。
どこまでが振る舞いか。どこまでも振る舞いなのか?
かすりもしないよりはかすりはするのほうがよい。本当にそうか?
さて、強調はなぜ成り立つか。強調は確かに存在ではあるのだが、仮に完全に充満した存在というのはもはや存在として名指すことができない。ということはここで言っていることは語り得ない。しかし、それはなんらかの構造、そしてその構造を見えるものにする何かによって語り得ている。ことになっている。
あからさま。明らかなさま。
繰り返しの中にある突出。
もちろん、対比さえあれば理解はできる。振る舞うことは可能だ。もちろんその振る舞いもなぜか逆側から対比に取り込まれるが。
ある人間について考える。私について、あなたについて。私はちゃんとあなたについて考えるように私について考えられているだろうか。
「エネルギーとその制御」という概念をどういう像で理解するか。その一つの魅力的な実践者としての千葉雅也。
太陽にそれ餞と我は死ぬ
わかりやすい対比を立て、そしていかに喧しく賢ぶって話したところでなにになろうか。もちろん、ここでの対比、すなわち「わかりやすい対比/わかりにくい対比」もまたわかりやすい対比であるから理解されるのである。
問題の前でエネルギッシュであるために必要なのは二つの対比である。
いや、エネルギーが「二つの対比」であるとも言えよう。「一つの対比/二つの対比」。
夏に死ぬ教祖が死んで蝉が泣く
私の文学性。それは「直視しない」ということにある。
このままバスがあの谷底へ上で旗振る
そうか。私はこう思っていたのか!ということ。しかしそれは正しいだけである。
不気味に不器用に、照らされた夜の住宅街。
私は目が悪い。ので困っている。こともあるが逆に、そのおかげで想像が逞しくなった。そんな気がする。エネルギッシュな把握。それができるようになった。と信じたい。
なんでそれをわざわざ主題化するの?という問いには答えられない。
ラグがある。いま読んでいるものは少し後に出てくる。いま出てきているのは少し前の何かである。
食傷。私の一つのテーマ。
A→B、B→A、C→C(=A・B)
歯磨きの間、「なぜ読書は楽しいのか?」を考えてみよう。
難しいなあ。
とりあえず分けてみると、私は三つの種類があると思う。純文学、文学、哲学の三つである。この三つの種類はとりあえず「読書」の形態である。だから世間で純文学だと言われているものを純文学的に読むこともできれば、文学的に読むこともできる。(ここで純文学と文学の違いが気になる人がいるかもしれない。私もそうだ。が、とりあえず置いておこう。)そしてそれぞれの形態がなぜこのように分けられるのかといえば、楽しさの種類が違うからである。だから順番はおそらく、楽しさに三つくらいあって、それに名前をつけるととりあえず純文学・文学・哲学みたいな感じかなということである。純文学の楽しさは、難しい。言うのが難しい。とりあえず「海の底のドーム」という比喩が私は好きなのでそういう感じであると思ってくれたらいい。まあ、なにを思えばいいのかわからないが。文学の楽しさは多様性の楽しみであると思われる。特に生活の多様性の楽しみであると思われる。同じ文章を読んで違うことを思う。そしてそのそれぞれがちゃんと「違う」こととして集まれる。そんな楽しみである。実際の多様性がどれだけ凄烈であってもとりあえず「同じ文章」は間違いなく同意されるような、そんな楽しみである。「同じ文章」と言わず「同じ表現」でもいい。この楽しさは私に「もっと優れた表現はないか?」という欲望、表現者として存在することを求めるような欲望を湧き立たせる。
ある程度いいことは書いたと思うのだがいかんせん眠たい。寝ることにするので今回はとりあえずこれくらいで。寝てる間に整理されているとありがたいのだが。
2024/4/27「キミラシネ」
思い直してみると、どうしてただの栄養補給である食が快楽的であるのか、それはよくわからないことである。し、別に他のことも当然そうである。
扁桃腺が腫れる。空は晴れている。私は腫れている。空に腫れている。
私の中に何も流れていない。そういうエネルギッシュ。
結局、要点は「要点はここだ」という主題の設定にある。その設定に入れるか入れないか、問題はそこにある。
簡潔にタイプ分けするなら、表裏か共起か、それとも対立か、しかない。いや、精確に言うなら、それらしか語れない。
かの後輩は倫理を学んだときイデア論だけが真実として響いたと言っていた。この比喩を最も執拗に取るとすれば、真実はホールを作るものでもあるのではないだろうか。まあ、後輩は「イデア論だけが面白かったですね。」と言ってその後は世界観の話ばかりしていたのだが。もちろんその世界観もとても面白い。
君の胸の上下。私はそこに広さと個人との関係の真実がふくらみしぼみしているのを見る。
君が仮に神について語ったとしよう。すると私たち、つまり君と私は「神」という主題、どれほど細かくしようと「神のほにゃらら」について語ることになる。しかし、それは語れば語るほど一つの議題であることになっていくのではないだろうか。もしくはさまざまな議題に「神」がスライドしていくのではないだろうか。別に私はこのことによって何か言いたいことがあるわけではない。いや、議論とはこういうものでありこういうものでしかないということが言いたい。ただそれだけである。
ここからの文章はどこまでか、少し前に書いたものである。
さあ、そろそろ本気で哲学しようか。仕方なく。そんなことしたくもないのだが!
私はニーチェの「!」を見るとなんだか微笑ましく思う。なぜだろう。私は結構本気なのだが読んでみると同様に微笑ましく思うのである。
みんな、メシアを見つけている。
私と君は違うのだ。明らかに違うし、明らかになっていないところも違うのだ。私たちは何かを同一だということにして、やはりコミュニケーションを取る。
最も根本的な繋縛としての「疲れ」。それを無視した議論はなんの意味もなさない。
さて、これは自己嫌悪か。そう結論づけたいならそうすればいい。それが真実である。しかし、それに反論したい。なら、すればいい。別に考えることのエネルギーはなんでもいい。では、そのエネルギーすらなかったら?それがおそらく私の自己嫌悪の正体であろう。これが自己嫌悪なのだとすれば。
疲れているときに考えるべきではない。しかし、実は疲れているときは考えることができない。というのも、そこでなされているのはただの循環、スムーズすぎるか、スムーズじゃなさすぎるか、どちらにせよ実践になっていない何かだからである。もちろん、全体として経験にはなるだろうし、それを伝えることもできるだろう。しかし、それは「考える」ではない。私はそう思う。
私はたまに落ち込む。死のうとは思わないが生きたいとも思わない。そんなときがある。私は「疲れ」のせいにしているが実は「真実」のせいなのではないかと思うような、そんなときがある。
なんかなあ、乗れないんだよなあ。乗る必要がないからなのか、それとも私がそもそも乗れない体質なのか、それはよくわからない。おそらくどちらも、だろう。が、閾というものは存在する。
君は真実に無償の愛を教えてくれる。が、それゆえに私は不安になる。それは確実に私の弱さゆえ、である。あなたはもしかすると、もしかすると強すぎるのだ。あなたは、君は否定するだろうが。
なるほど、極めて情けない話だが、私は弱ってようやく、ようやく強さがわかり、愛がわかった。気がする。
私は貪欲が嫌いなのかもしれない。し、奥にある承認ではない承認が怖いのかもしれない。限定的承認。
共起。共立。想起。同一。
たしかに。私は思い出しているふりをしているとも言えよう。しかし、真実にそうなのだから仕方がない。仕方がないのである。
彼ら、哲学者たちはなぜ哲学せざるをえなかったか。私にはわからない。そう思っていた。し、思っている。しかし、現実と向き合わなくてはならなくなったとき、そのとき私は結局哲学する。
世界の隙間から、世界の隙間から流れる、そう、それがやはり涙なのである。ただの水ではない、涙。それがそれなのだ。
私は独我論によってやっと、やっと愛の伝えられなさを知ったのである。
「〜の可能性がある」ということの判断。それは判断なのか?実は決断なのではないか?
「精神分析とは、人為的に転移を生み出す実践であり、転移関係こそが分析に固有のフィールドとなる。」(『ラカンと哲学者たち』90頁)これはおそらく私が「他人はもう一度言ってくれる。」とか「私は私からしか批判されないのではないか=他人は私に何も言えないのではないか」とか、そういうことに深く関係する指摘である。
ただ、私はまだ精神分析における「他者」を理解していない。なんというか、先に「抵抗」が存在するのである。絶対的に先に。
そう考えるとすれば、「快原理が課すリミットを越えないことこそが欲望の日常を定義する。それは、私たちを享楽から隔てる見えない壁のようなものだ。だが、これはあくまで欲望の一面である。ラカンがカントの道徳法則の峻厳さに見いだしたのは、欲望のもうひとつの顔、致死的な享楽へと主体を向かわせる命令の残酷さにほかならない。」(『ラカンと哲学者たち』122頁)と考えるとすれば、リズムのやたらな同質性とリズムのなさへの同時的な拒否こそが読書の快楽の正体であると考えることができるかもしれない。
リズム感がないこととリズムがないことは別のことである。リズム感がないというのは「やたらな同質性」のことでリズムがないというのは「何もできない」ことである。
一つから二つになる。二つから一つになる。「一つ」は「二つから一つになる」を変化ではないと考えるときに、「二つ」は「一つから二つになる」を変化ではないと考えるときに、存在する。まあ、「変化」もこの作用によって存在すると考えれば、訳がわからなくなってくるのだが。
私は子どもたちに「話が終わってから質問しなさい。」と言う。が、その質問を話の終わりまで持ち続けられるだろうか。私は本を読みながらそう思う。もちろん本なら読み直せば良いかもしれません。それでも忘れてしまうときはあるでしょうし、そもそも読み直すことを忘れることもあるでしょう。忘れていることを忘れて。話はもっと困難ではないでしょうか。しかし、子どもたちは質問ができます。もちろん、実際忘れている人もいるでしょう。しかし、質問ができるのです。不思議なことに。
君がつまらないのは君がつまらないからではなく君がつまらない表現しかできないからである。なにせ私たちはそれによってしか君を理解できないのだから。そしてそれを逆手にとって君はみんなの受容を批判することもできる。
2024/4/28「トレンド」
シックなフラカス。
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