『べこべこ赤べこ、ちゃんちゃんこ』

2024/3/25「べこべこ赤べこ、ちゃんちゃんこ」

離れられないことが固有の問題を作る。いや、それを作らざるを得ないことによって問題は固有となるのである。それは幸せでも不幸でもない。ただ単にそうであるだけである。

享楽というのもこのことと同型である。それぞれに固有の享楽があり、それぞれは享楽せざるを得ないことが固有性である。

もちろん、このような構造を「人間一般」のように抽象化することはできるだろう。いや、そもそもそれができなければ何もできないのである。このことはウィトゲンシュタインが『哲学探究』第一部の二四二節で語っていた。覚えがある。確認はしていないので違うかもしれない。

裁判モデルで考えない。もしくはもう少し綿密にそのモデルを使用していることを自覚しつつ考える。

「告発」とか、「告げ口」とか、そういうことはなぜつまらないのだろうか。

私は勉強がつらいと思ったことがない。それはおそらく私がある程度それが得意だからであり、それが享楽だからである。私にとっては。それは別に成績が良くて気持ちが良いということではない。それもたしかに気持ちが良いかもしれないが、それよりもむしろその緩やかさがちょうど良くて快い。そういう気持ちの良さがある。リズミカルな気持ちの良さが。

なぜ私はメシアを求めないのか。大前提としては求めていたとしても自分で気付けないということがある。元も子もないが。それを前提とするとすれば、おそらくはメシアなきメシアニズムを知っているからであると言えるかもしれない。ある特定の何かに救われると思っていないからであると言えるかもしれない。そもそもあんまり救われたいと思っていないのかもしれないが、そう思っているとしても何かに頼るということがない。頼るとしても「未来の自分」さらには「未来の読者たる自分」もう少し一般化すれば「未来の受容者たる自分」を頼っているだけである。だからおそらくあまりメシアを求めない形になっている。人生なり生活なりが。もちろん、この背景には死を、もしくはその近接領域としての転生(?)をある程度考えたという、そういう感覚があるだろう。主に永井均の考察を通して。もちろん、死は怖いし、転生を信じたいとも思っているようなところがないわけではない。ただ、ある程度は考えたという自負はある。だから、元来救われたいと思っていないのか、それとも考えたからそう思っているのか、それはわからないとも言える。だから、別の言い方で言えば、そもそもあんまり問題を掴んでいないと言えるかもしれない。ただの一例としてしかここでの議論をしていないとも言えるかもしれない。

「ただの一例としてしかここでの議論をしていない」というのは往々にしてあることである。「これが私の問いたい問題だ!」と言えないばかりに、もしくはそのように言える問題をある程度問い尽くしたと思っているばかりに。

生花的文章。瑞々しく切る。

オートな反転システムは基礎的なものである。それに加えて発展的に比重系の問題があるのである。

肌感でわかる。ということを特権化せずに、されど無碍にせずに、それと付き合っていこうとする、そんな生活。

なぜあるかわからぬものはそれがなくなったときにもなぜなくなったがわからぬ。

基本的な考え方というのはいつの間にか、いつの間にかそのようなものになっている。

何かを待つ。何かが来るという、それを待つという、そういうことをする。一人でひたひたと迫るそれを待つ。来ないかもしれない。私のせいで来ないかもしれない。しかし、別に待ってないような、そんな何かを待つ。

とりあえず自分のできることをする。そういう共同性。もしくは共同性感覚。

「考える」というのは「より良い共立を発見する」ためになされる活動全般を指すように思われる。

不連続に見えるのは外から見ているからである。連続的である。外から見ない限りは。いや、そもそも見方によって連続性が何を指すかが変わるのである。

私は歴史的に思考できない。というのも、おそらく歴史的に思考するためには順序と共立という二つの操作が必要であるが、私は後者しか受け入れられないからである。もちろん、順序を準備と本番みたいな構造的なものとして見るなら多少は受け入れられるのだが、それだとなんだか取り落としているような、そんな気がするのである。

勉強しなくちゃいけなくなったらする。が、別にそうじゃなくてもしなくちゃいけない部分だけであるわけではない。なんというか、たしかにあまり勉強にはなっていないのだがなんとなく、なんとなく響いたところというのは重要であるように思われる。

自己暗示をかけ続けている。私は私に。しかし、私は思ってもいる。その私、たちは私ではない。と。

一つ一つ、異なるリズムとスケールで、私の中に前フリたちが身ぶるっている。「身ぶる」というのは「身を振る」ことである。

私は舐めた態度をとっている。ことがある。が、それは「正当化の正当化」に対してバリエーションも困難もないことを知っているからである。おそらく。少なくとも知っていると思っているからである。そしてどちらの「正当化」も結局、特に根拠もなく解釈も無限なのであるから、そしてそれらを無視するには私たちの「生活の形式」とやらに訴えなくてはならなくなるのだから、より普遍化されたものであっても「器質」に還元しなくてはならないのだから、結局困難は存在しないしバリエーションも多く見積もって四つしかない。もちろん、その四つは単数で主張されることもあれば、複数で主張されることもあるだろう。しかし、それは別に区別できるし、組み合わせとして提示できる。したければ。だからなんというか、私はこれを覆す可能性がないと思うのだ。これは抑圧だしパターナリズムであろう。しかし、それもひっくり返して私は、しかしこれらがないとそもそもコミュニケーションができないと思ってしまうのである。

「まるで運命のようだ。」というのは信じられる。が、「運命だ!」は信じられない。というか、身を引き剥がしてしまう。私はそれらの言説に対して。その根拠というか、拠り所は可能性と現実性は同時に生起していることと言語が現実になることで現実性は次元を一つ上げるし可能性は次元を一つ下げること、そしてそれゆえに二つの次元は裏表となることにある。「語る」ことは「可能性の中の現実性を言い当てる」ことである。だから、「こんなに可能性があるのに現実性としてこう現れている!」という「運命」は「そりゃあ構造的にそうだから何も言っていない。」と思うのである。もちろん、もう少し複雑だと思うが基本的にはそう思うのである。

いやあ別にねえ、「運命」を使ったっていいんですよ。別に。ただ、ここでの言い方で言えば「使う」が「運命」にそぐわないとか、そもそも「使う」ことはできないとか、「使う」ということの奥には何もかも使えると思う傲りがあるとか、そういうことを言われたとしてもそれは一つの解釈であって、それで言うなら別にそれぞれの解釈は反転させられる。それが無理だとするならば、無理であるということにするならば、それはある規範を用いてなされる。が、別に規範に根拠はないし解釈は無限である。そのことは変わらない。それが変わるとしてもその変わり方も語れないことか、語れるにしても特に目新しくないことである。別に私は新しくないことや語れないことを批判してもいないし、それらを盾にしているわけでもない。盾にしているように見えるとすれば一つの解釈、もしくは態度決定である。それに与しないと私は言っているのである。

精神分析に関する議論を読んでいると、なんというか、私を社会人にしようとしている力を感じる。それは別に不快でも快感でもない。ここでの「社会人」は「社会から遊離していない人」くらいの意味である。

素敵な詩を素敵に読む。二重の「素敵」を素敵にする。

別に詩に限らなくてもいいが、なんというか、繰り返し読むというのが私の享楽にはあるように思われるので大抵は詩である。少なくとも私は。

もし、私の文章を詩論的に読むとして、そのときに困難な課題となるのはおそらく、おそらくは「ひらがななのはなぜか?」という問いに「感覚的に」と「多義性を強調したいから」という二つの要素があり、どちらかであることもあればどちらもであることもあるということであると思う。

2024/3/26「南部はとても雨」

考えるというのは自己防衛である。そこでは「自己」と「防衛先」が指定される。明確に指定されるわけではないがそれがされていないことを考えることはできない。

これは言うなれば、考えるのは仕方なくすることである、ということである。し、考えざるをえないときにこそ考えるということの本領は発揮されている感覚がある。私も。ただ、考えなければならないときはないとも思う。

ただ、これは反論できないという点で仮説ですらないことは確認しておく必要がある。

自分が何に悲しんでいたり、苛ついていたり、言わばマイナスの感情を持っているのかをちゃんと見つめる必要がある。別にちゃんと見つめたところで何かわかるわけではない。が、マイナスの感情はプラスの感情よりも特にそうなのである。見失いやすいから。

まあ、マイナスの感情というのもちゃんと見つめていないから生じるのかもしれないが。プラスも同様に。

霧が深い日には思う。「ああ、霧の向こうに誰かが居るのだろうなあ。」と。

教訓的な解釈をすぐさま提示するのははしたない。

私は私が道徳的な振る舞いをしているときにびっくりする。不思議なのである。

なんというか、私は自然の成り行きというか、特に何も思わなければ自然に道徳的になるのである。別に他人がどうかは知らないがそうなっている。本当にそうなのかはわからないがそうなっている。びっくりするのである。

ここにあるのは「振る舞い」が「演技/本心」を包み込む不思議、そしておそらく包み込まれた対比がそれとしてまた、また出現してくる力強さへの信頼のようなものである。

私は意外とせこいし意外と優しい。

私は先んじて考えている。が、別に先んじて結論を出しているわけではない。先んじて問いによって広がる、広大な豊穣を予感しているだけである。

2024/3/27「からんころんとねんねんこ」

考えることの楽しみというのはおよそ、跳躍と測量に他ならない。そして、そのペアもまた跳躍と測量によって存在させられるということの覚知に他ならない。

今でもたまに、私のところに飯盛の「スイングバイ」としての哲学という営み、-性が現れることがある。しかし、私はそれをちゃんと掴めていない。私はそれをちゃんと、掴めていない。

ズレの接地、おそらくはそれが「身体」ということの本義である。階層の違いを股にかける、それが「身体」の本義である。

しかし、私はこれが感覚としてしかわからない。つまり、わからないのである。

ラカンの「鏡像段階」に関する議論に触れるたび、「他者」ということよりも「喜び」ということに疑問を感じる。「子供が、まだ自らのものになっていない自己支配を大喜びで引き受けるということ、それがこの時期[=「鏡像段階」:引用者]に生じるのは他者の像を介してなのです」の「大喜びで引き受ける」というところがよくわからない。

『』の肉感よ。

言われなくてもわかっている。ただ、言われたからそのことがわかった。

もう少しビガティックな文章を読みたい。いや、ビガティックに読みたい。文章を。

身体同士がクワイングしている感覚がある。それゆえに身体はそれとして護られている。

ちなみに「ビガティック」も「クワイング」もなんとなくの響きで使っているだけです。

信念を持つ、というのはどういうことなのだろうか。信念は持たされたもの、みたいな感覚が強い私にはよくわからない。別に「持たされたもの」という言い方は批判ではない。ただ、そういう感覚はわかる。

ナルシシズム的解釈が成り立たないことはありえるのか。しかしそもそも、ナルシシズム的解釈の極点なしに解釈はありえるのか。

いや、ありえるけれど、随分と変な人間観が必要であるように思われる。

2024/3/28「からからかん」

どうしようもなく、どうしようもなく反応してしまう。そんな、そんな享楽がある。いつでも反応してしまうような、そんな享楽がある。

私は私に「悟ったふりすんな」と言ったり「悟りたくない」と言わせたりする。が、それはなぜか。

対比を三つの項の連結にするという、そういうレトリック。

大したことが書けなさそうなときは書かなければいい。その通りである。しかし、私は書いてしまう。これは本当にアディクションである。何もしないということができない。そういうアディクション。

旗がバタバタ揺れている。私の奥底。崖に立つ、おそらく女の人。なぜだろう。このイメージはなんだろう。どこから来たのだろう。いや、別に女の人じゃなくてもいい。バタバタと揺れている。風が吹いている。波がぶつかっている。白く、空もまた青く、白く、そういうイメージ。

どうしようもない快楽。それを見つける。

しゃぱんとする。そういう感じ。しゃっきりでもなくしゃんしゃんでもなく、しゃぱんとする。

眠たい。というよりも瞼が重たい。

「今日は生きている意味について考えてみようじゃないか。」
「そうだね。私の答えを先に言おう。」
「いや、早すぎる。」
「答えに早いも遅いもない。私の答えは簡単だ。生きている意味なんてない。生きている意味というのは生きていない意味と対比されるだろう?しかし、そんなものを私たちは知らない。だから生きている意味なんてない。生きていることがすべてなのだから。死ぬことと対比しても無駄だ。多くの人が言っているが私は死なない。他人は死ぬけれど。それでアンサー。終わり。」
「君の答えは穴だらけに見える。」
「そうかい?じゃあ生きている意味はあるんじゃない?」
「そういうスタイル?」
「いや、違う。興味がない。」
「なるほど。だから教科書みたいな答えを言っているのか。」
「いや、対比のところは別にそんなことはない。それに、それを乗り越える可能性をその後にすぐ提示しているから教科書は最後だけ。」
「ハイデガーみたいなところね。」
「そう。」
「でも、別に答えようとしていないというのは変わらないね。」
「まあ、そう言われるとそうだね。ただ、そう言われると別に興味があることなんてない。」
「へえ、それでよく生きていられるね。」
「なぜか知らないが享楽はあるからね。快楽もいくつか。」
「それは生きている意味じゃないのかい?」
「どうだろう。別にそれにもできるがそれだけではない。一例として生きている意味になるだけ。生きている意味は?なんて問われなければ私は興味がないからこれはもっと別様に考えられている。ついでだよ、ついで。アンサーは。」
あ、電話だ。

自分を疑う。私はそのことを疑う。そこでの「自分」とはなんなのか?と。

というか、疑うも一種の加速であり、その加速のための初速は「自分」の設定にあることを忘れて「自分を疑う」はできない。そんな感じである。

なんだか乗れないなあ。そんな感じ。そういうときがある。

もちろん自己防衛のためにずっと「乗れないなあ」と言っていてはアパシーになるのだけれど、乗れないものは乗れないからそれは正直になったほうがいい。

まあ、「正直」なんてものがあるのかはわからないが。

私はレミオロメンの『粉雪』の「素直になれないなら喜びも悲しみも虚しいだけ。」という歌詞が好きで時々思い出すのだが、私はなぜあれが好きなのだろう。「素直」があるかどうかもわからないなら。

久しぶりに文学を読んだのだが、文学には哲学が眠っている。だから、私は起きていることを自覚する。そういう感じがある。

哲学に文学が眠っている感覚もあった。昔は。いまはよくわからなくなってしまった。その感覚は。

いい感じの別れはどうすればよいのだろうか。照れちゃうなあ。

2024/3/29「いーあーるでぃー」

なんというか、哲学することには、哲学を学ぶことには二つのイメージがある。一つは全体が綿密に網化していくというイメージである。もう一つはその網のどこかに何かが落ちてきてその網全体が震えるのを感じるというイメージである。後者において網は巣になっている。そして私は蜘蛛になっている。そういう、でもまた蜘蛛は巣と一体化し、それは綿密になっていく。いつの間にか。網になっていく。そういう、循環。連関。反復。

私はちゃんと享楽できているだろうか。享楽し続けられるだろうか。これこそが私の不安であり、それ以外は大した不安ではない。というか、不安を感じることができない。不感症。

乗り越えるという身ぶりへの、よくわからない違和感。私にはそれがある。変わることを「乗り越える」と言いたくないという、そういう感情。それが私にはある。

2024/3/30「そらをもちあげる」

端的に愛していた。みたいなこと。それをちゃんと感じること。

欲望の在処は問いにあるのだろうか。それとも言語?言語的認識?

同時に生じたものは本来区別できないはずなのではないだろうか。

「運命だった。」というのはなんというか、私は嫌。だって可能性を開くことが運命に使われる感じがするから。いや、もっと言えば可能性を開けば現実性がぎゅいんと存在するのは当たり前だから。偶然性が高いとか、それをいくら押し進めても結局あるのはその当たり前のことだけだから。解釈を享楽に差し向けようとすること自体を否定する気はない。幸せとか、人生とか、そういうことはそれによって成り立っているし、それらは私たちに必要なことだと思われるから。しかし、そのことと元も子もないことをどのように考えるかは別のことである。

2024/3/31「じゃまぐちばんさ」

条件、限定、それをそれとしてちゃんと理解してから理解なり表現なりを始める。

言い得ぬことをそれとして認めること、そしてそのことを伝えることを諦めること。しかし、これができるためにはすでに伝達の可能性が保持されている必要があることを知り、それを信じたり疑ったりすること。

私が正しいのでもなく君が正しくないのでもない。しかし、正しいということが存在しないというわけでもない。

具体性というのはおそらく、複数性を股にかける、ということである。これもまた極度に形式化されているが、私はこのようにしか思わない。ある事例をどれだけ綿密化したところで同じ事例が見つからないことがわかるだけである。ただそれだけのことを具体性などと言えるはずがない。私はそう思う。

たしかに私はずるい。批判ばかりしている。私もそう思う。だから私はそれを問い、一時的なアンサーであるとは思うが、アパシーを私に見出し、賦活や享楽という助け舟を作ろうとしている。私は何かを渡ろうとしている。しかし、私にはそれくらいしかわからない。それ以外のことはまるでわからない。

一読してたしかに、たしかにわかる詩はある。が、暗誦などによって反復しているうちにふと、ある語彙やある文法がその「わかる」に抵抗してくるときがある。わからなくなるまではいかないが、一つの均衡が描かれる。それによってやっと、詩は輝き、自然と再生されるようになる。然るときに。

どうとでも言えることに均衡を作り出すこと。これがテーマの役割である。しかし、これはかなり抽象的な構造であり、さらには入れ子や累進を厭わない構造であるように思われるから複雑でよくわからない構造であるとも言えるだろう。

なにせやる気が出ない、ということはあることである。それは仕方のないことだから回り道をしたり標識を向け変えたり、そういうことをするしかない。それがいかに批判されようともそれは仕方のないことであり、どうしてもと言うならこちらも牙を剥くしかない。がおー、と。

私は社会学者の文章が好きだ。なんだか落ち着く。だらだらしてても読める。クリアーである。

まあ、ここでの「社会学者」には哲学者もしくは哲学研究社だとされている人もいるし、そもそも私は「この人は本物の社会学者だ」と思うような人と出会ったことがほとんどない。し、そもそも社会学についてあまり知らない。だから、実は何も言っていないが、他の人たちが別の言い方をしていることの言い換えとして「社会学者」という概念を使用しているだけであるとも言えるかもしれない。

考えてみれば、私は「書く」ことを「読む」ことの一つの形態であると信じているのだから、少なくとも私が書くどのような文章にも出典が示されるべきであるように思われる。しかし、おそらくは面倒くさいからそれはなされていない。

一つ、スパイシーなところを作る。一つだけ、隠し味としてそうする。そうしないと大味になるか、そもそも味にならないか、どちらかになるばかりだから。

勝手に起動する。作動する。分析が。それと付き合う。どうにか付き合う。

再帰の作動の不思議さ。

信じる、かかる、そういうのはどうすればできるのだろうか。すでに私はかかっていて、信じているのだけれど、おそらく。

私には真実をグリップすることができない。真実をタッチすること、撫で回すことはできるのだけれど。

答えがわかっている、ふりをしている、と私が思うような人を見ていると、なんだかなんだか、眉を上げてしまう。なにもわかっていないとは思わないが、私にはその確信がよくわからないのである。

どうして信念とやらにわたくしを託さなくてはならないのでしょうか。

エネルギングの形式について、私は他の形式を知らない。が、形式をいくつかに分けることは価値あることだと思う。なぜなら、そのいくつかを知ったり、実際にそういう人に関わったりすることで流線が描かれるのであるから。そしてその流線からしか私が「他の形式を知らない」ことは知ることができないのだから。では、なぜそのようなことを知る必要があるのか。これは倫理の問題である。

気遣いをしているのではなくて気遣いに見える、という可能性がある。もちろん全員にこれを突きつけるのはただの野暮だが。

なんというか、これに例えば「自然に」というような形容を付け加えたところで事情は変わらない。

答えというのは一つの諦めである。怠慢である。傲慢である。

しかし、でも、別にそれでいい。し、答えを出せている人は偉大でもある。しかし、その偉大さはその答えのもたらすものではなく答えをもたらした何かに向けられるべきである。ただ、その何かはきっと、諦めと怠慢と傲慢なのである。

良き導き手はたしかにはぐらかしている。が、それによって導きは示されるのだから仕方ない。その構造は別に導きに限ったことではなく色々なことに共通である。この由来を尋ねることもできるだろう。しかし、ここではとりあえず良き導き手がその構造を示しつつ、それでも踏み込んで生きようとする、そんな人を賦活するそれを受け取ることを重要だと言っておきたい。

人生訓については興味がないが人生論については興味がある。

なんというか、私は哲学が人生(私はこの「人生」とやらがわからず、それを成り立たせているように見える数々の前提を掘り当てようとしてしまう。)に役に立つと思っている。別に大した理由はない。なんというか、人生に、いや、私に降り注ぐ数々のつまらないこと、些事、それらをそれらと言いのけ、言い、退け、素敵な振る舞いを私に授けるのは哲学なのである。距離を取り、馬鹿にするほど必死にならず、しかし無関心にもならず、そういう適切な距離感、賦活関係、そういうものを教えてくれるのは哲学なのである。

私はアドバイスが苦手。私の美学のようなものを提示することはできるしするけれど、アドバイスが苦手。私は私の感性を信じてそれを押し付ける。押し付けてしまうのだ。

まあ、美学を押し付けるというよりは「これが美だ!」という判断を押し付けるのだけれど。

なんというか、言葉にしてみるとかなり横暴である。し、実際そうなのだろう。それはなんというか、ある意味で照れ隠しである。別にだからと言って免罪符になるわけではないが。

私には信念がない。信念を持たなくてはならないということがわからないからである。信念があるふりや信念を持っているふりをすることはあるだろう。しかし、それは「ふり」である。

私はよく「自分に失礼だから。」という理由を言うことがある。思っているかは微妙だが、思っていないとも言い切れない。この理由はあまり聞いたことがない気がするので不思議だ。

やはりみな、真剣に考えたのであろう。やはりみな、仕方なく考えたのであろう。この「真剣に」と「仕方なく」のバランスを取るのがある人の哲学を理解するということである。

「考える」というのは「現実に身を浸す」ことと「現実から身を引き剥がす」こと、この二つのことである。表面と裏面。

シックな薄い青、私は生きている。

他人は他人、というときの前半の「他人」を私からどれほど取り除けられるだろうか。おそらくほとんど取り除けないだろう。

群れてゆく。私の受容たちが。移動してゆく、群れが、群れたちが。それが表現である。

すべては反動である。という仮説。それを立てるとよりよく受容できる。

なぜかあの表現が反復され、なぜかあの表現とすら言えない表現たちは忘却される。

「覚えている」ということには「反復」が必要不可欠である。

しかし、「反復」したから「覚えている」かはわからない。これはおそらく色々な理由があるのだけれど、私はスケールの問題を指摘したい。というか考えたい。

なんというか、語り切る、とか、世界観を作る、とか、そういうことができない。興味がない。他人に作ってもらおうとか、切ってもらおうとか、そういうことばかり思っている。

なにもしない、という練習をしよう。「なにもしない」ことをする、という練習をしよう。

なんというか、がんばって「なにもしない」ことをしてみたのだが、思ったことは「書く」とは「堰をつくる」ことであり、「読む」ことは「多様な流れを見る」ことであり、「生きる」ことは「堰を切って流れる」ことである、みたいなことである。

まあ、ものすごく単純に言うとすれば、書くと連想ゲームが遅くなる、みたいなことであり、その遅さはどんどん停滞に近づいていく。その極限は「共立」になる。つまり例えば、「世界と私」のように哄笑しそうになるような「と」による連結になる。そんなことを思った。

しかし、ただ遅くなるというよりはこの「書く」は「生きる」の流れの強さのための一つの工夫であるように思われる。

私の「前ふり」とか「後づけ」とか、ああいう感覚はなんなのだろう。他人がどういう感覚になっているか、およそ意味がわからない。

私は「なにもしない」を「休憩」みたいに思っていたがむしろ、むしろ「エネルギーを回復する」ことに近い。たくさんいろいろ、なにかによって失われるエネルギー、それを取り戻すことに近い。

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