『一口の未熟』

2024/4/8「一口の未熟」

素敵に生きてほしい。私が他人に思うことはそれだけである。「素敵」とは何か。私にはわからない。が、私なりにそれを生きている。私はそれを「素敵だ」と言う。ここには少なくとも二つの方向性がある。一つは「素敵に生きよう」としてそう生きる方向性。もう一つは「生きる」が「素敵だ」と言われるという方向性。別にどっちでもいいと思う。し、どちらでも取りこぼしがあることを知ることが「素敵だ」と言えるかもしれない。

バス停に座ってふと、ふと見ると、目の前の建物の奥行きがなくなった感じがした。平面に建物とその横の布が掛けられた建物があった。あった!

「蜜満ちてありと思へり」から始まる歌を忘れてしまった。

かつて私はかなり多作だった。し、たいていは素晴らしい作品だった。私はもはや少ない作品しか書けず、そしてたいてい素晴らしくはない。ただ、書くことよりも読むことが素敵にできるようなった。と、信じている。

問答というのは自問自答である。自問自答というのは問答である。このゆらりゆらり、身剥がしの連続。

だって、結局自分で問うて自分で答えるのだから。誰かに、何かに問われているとしても、問えと言われているとしても、そうだとしても結局問うているのは自分である。答えも同様に、と言えるかどうかはわからないが。

応えなければならない/答えなければならない、この二つは違う。前者がなければ後者はない。し、前者を拒否することはできる。こともある。もちろん、もはや拒否できないこともある。私がここで想定しているのはレヴィナスの「吐き気」に関する分析である。

夢を見る。寝て、夢を見る。しかし、私は、「現実みたいな夢だった。」という感覚がほとほとわからぬ。ほとんどわからぬのではなくほとほとわからないのである。このことは何なのか、それもわからないが、私は現実を生きていないのかもしれない。接地していない、そんな感覚が時に現れる。が、この「時に」は実は嘘なのではないか、とここでは言っているわけである。

素敵に生きるというのは豊かに生きるとか強く生きるとか、賢く生きるとか、他の諸々の中に一つ、一つの屹立をもたらさんとする意志である。

他人がゾンビでも生きていようと思えるように生きる。結構きついことだが。少なくとも私には。

細胞のたぷんたぷんとXXXXX

私は素直だ。し、それゆえに恐れている。そのつまらぬ素直さが私の生活を殺し活かさないのではないか、と。

複雑な生を見る。しかし、私も生きている。

根拠のない自信という主題の押し退け。私にはそれがある。

根拠のない/自信という主題の/押し退け。私にはそれがある。

たしかに私は私の作品を私の作品であるから愛している。ときがある。「どうしてその作品を愛しているのですか?」と言われたときに「私の作品だからです。」としか言えないときがある。しかし、それは理由を求められるからであり、私はそもそも「私の作品」の「私」をいまの私と同じであるとは思っていない。だから単純によく読むのが「私の作品」であるとも言えるのである。

ちゃんと元も子もないところまで落とす。ちゃんと落とす。

問いを持つのではない。問いを持たなくてはならなくなるのである。

問いはエンジンではなくエネルギーである。初発は。しかし、それはどんどんエンジン化してくる。そういう感じがする。

私はお腹がゆるく、気圧に弱い。体力がなく、集中力もない。こういう基礎的な身体性というか、そういうものはかなり影響を及ぼしている。考えること、表現すること、受容することに。

そう、レヴィナスが「吐き気」や「不眠」なら、私は「腹痛」や「頭痛」なのである。たしかにこれらは「最も仮借ない繋縛」ではないかもしれない。いや、異なる意味では「最も仮借ない繋縛」なのである。

「腹痛」は「解決できる腹痛/解決できない腹痛」の対比を切実に教える。「頭痛」は「解決できない頭痛」が強度を持っていることを教える。「すんごく痛いとき/ちょっと痛いとき」のよくわからない配分を切実に教える。

これらはただの比喩ではない。生活である。

享楽の形。道楽の証。

あなたのAが好き、と言えば、Aじゃなくなれば好きじゃない、ということが含意される。

そうなんよ。やっぱりね、ダブルシステム。ダブルシステムだよ。反転の確保と言ってもいいような、確保だよ。

哲学の本というのはなんだか、なんだか楽に読める。気軽に読める。とでも言おうか。文学はそうはいかない。というよりむしろ、むしろそうはいかないものが文学なのかもしれない。

斜めの均衡、たいていの答えはこれにある。だから必要なのは縦軸と横軸を見つけること、そして対角線が引けることを知ることである。ただそれだけである。

読む。君たちはどう読むか?と問われては皆、「たち」になる。

割と短めのお話を読んでいると、無理やり感を発見することができる。なんというか、それは「短めのお話」であるがゆえに非常に些細な無理やり感である。しかし、それゆえに私は享楽の可能性を感じる。これは別に粗を探そうということではなく特異性を発見しようということである。別にポジティブもネガティブもないが、ただ単に発言の一つのコツとしてこういうことがあるのである。

2024/4/9「修繕秘密」

ノイズキャンセリング/アンビエント、この二つは生活のリズムでもある。片方は対比、もう片方は対応、この二つの対化は生活のリズムの基本構成である。

この「リズム」論は『センスの哲学』由来である。

この二つの生活をそれとして定義するのはなぜか。それは「イヤホンを外す」という可能性を残すためである。おそらく。そんなこと考えずに書き始めたのだが。

お風呂に入る。肌が水を弾く。するりとしたる、水。皮膚という問題、いや、レトリック。

「結局人だから。」という、そういう諦めに似た抱擁。私に必要なのはそれであり、私から誰かに、私から私に必要なのはそれである。

たくさん雨が降る。やっぱり鳥も嫌なのかなあ。わからないが。

したる。したたる。桜からドリップされたものが川に滴る。濁流に。

バスの窓におそらく整然と雑然としている、そんな雨粒たちが粒立ち。

例えば、歯軋りをするとしよう。すると、私は思うのだ。これは外に聞こえているらしいが本当に聞こえているのか?と。たいてい歯軋りをしていても相当な聞こえがない限りはスルーされるだろう。そしてわざとらしく大きく軋ると「歯軋りすごいな。」というように言及される。本当に聞こえているのだろうか。

何が言いたいかわからないかもしれない。私もそうだ。しかし、私はそう思うのである。

「そう思う」は「思わされたから思う」ときと「思ってしまう」ときがある。もちろん、実は私にはこれらが判別できないという気もするが、これらを判別しようとすることは重要だと思う。

構造の構造的繁殖。繁茂。

記憶というものは不思議である。し、身体が動くというのも不思議である。ただ、これらがどういう不思議なのかを明らかにせず「不思議だ。不思議だ。」と言い連ねても意味はないのではないだろうか。そうだろうか?もちろん、それは一つの戦略ではあるがただ「不思議だ。不思議だ。」と言っていてもよいのではないだろうか。

私は私が一つの理由や原因から何かをしているとは思わない。が、他人に対してはなぜか一つの理由や原因を求めるところがあるように思われる。もちろん、生物的なものだと言われればそうなのかもしれないが。

ただ、なんでか知らないができた詩とか、文章とかを少し経って読み直してみると、たいていそのときに読んでいた本の影響を強調した形で表現しているから系譜を辿ることはできると思う。まあそれは家系を辿るみたいなもので別に存在には届かないと思うが。届かないと願っているのかもしれないが。

「強調した形で表現している」というのもそうなっていればよいな、という願いが込もっている。

希望的観測をし続ける私。

書くことは読むことの一形態である。つまり、読むの中に読むと書くの対比が成り立っているのである。そうか?言いたいのは本当にそういうことか?いや、それはわからないが仮の固定である。こうやって掲げてみるという、そういうことである。

ミニマム享楽。それが生きることを支えている。石を裏返すと居る虫みたいに。

可傷性。ニーチェ。

私にたまる。情報がたまる。

ヒステリーを起こす暇もない。ヒステリーを起こす人が暇だということではない。

二つの対比はいつも重ねられるわけではない。

本心から作り込む。

私は私が豊かであると信じている。いや、信じてすらいない。それは確信であり、確信ですらない確信である。

まあ、わざわざこう書くということは確信ではないからだと言われれば認めるにまったくやぶさかではないが。

2024/4/10「チャンプリング」

統治のための限定的承認。

生き延びる術としての毀誉褒貶。

有限的承認から無限的承認へのステップアップ、断絶か。それとも、無限的承認から有限的承認への断絶、ステップアップか。

私は褒められたら嫌になる。だから褒めるのも嫌である。ただ、ビガティックに褒めるのは嫌ではない。というか、別にそれは「褒める」ではない。ただの感嘆、ただの尊敬?のようなものである。

正しいものを身につけさせてから、というのはどうも、どうもやる気が出ない。

たしかになあ。モーディングとして捉える、捉えすぎると徐々に進展するという、そういう時間性が失われてしまうなあ。

私はなぜ「褒められると嫌になる」のだろうか。あの、勝手にやってて勝手に楽しかったのにそれがなんらかの対価とともに存在し始める嫌さに似てはいる。し、もしかしたら同じことなのかもしれない。が、

でもそうか、有限的承認になるから、みたいに思っていたが、夢幻もまたそれはそれで嫌だなあ。結局「限りある/限りない」だから「限り」はテーマとしてそもそも存在している。それ自体が嫌な可能性はある。

私は頑固なのだ。褒められるとすればビガティックに褒められたいのだ。それ以外はなんだか嫌なのだ。

私は理念に取り憑かれて実践を疎かにしているのではない。ただ単に頑固ゆえに実践がうまくできずその頑固さに名前をつけたら理念になるのだ。

まずあるのは差異であり類似である。類似であり差異である。それを共通性にもたらすか、特異性にもたらすか、それはその実戦次第なのである。

どうしても癖が出てしまう、まで慣らす。体を慣らす。

なんかそれは乗れないわ、みたいなことが多い。私は。

結局正当化合戦だと考えるとすれば、私はその「乗れない」でその合戦に参加できないのである。そういうことが多くある。そこにミニマムな享楽を発見できないのである。

私はおそらく、おそらくミニマムな享楽で自らを持たせている度合いが高いのである。

自分の嫌なことを敷衍する、この構造自体は皆同じだ。結局その敷衍が正当化できるかどうかというのは運ゲーである。そんな感じを持っている。もちろん、その正当化の基準を変えることはできるだろう。しかし、それは、歴史として見れば、である。

うーん、予測不可能性が高いから未来がわからないのだろうか。

あれ、なんで書いたか忘れちゃった。

そうか。経験とは、慣れとは、「ここは追求・追及されないのだ」という気づきの蓄積のことか。

私の思考に鮮やかな流線を描くこと。それが私の思想を明らかにすることである。哲学とはその流線のもとともなる星雲をより濃密にすることである。もちろん「もととなる」のではなく「もとともなる」だけであるが。

書くというのは焦点化である。場所化である。そこに集まり、そこを熱くさせる、そんな場所、焦点の作成が書くということである。

比較に対して「比較にならない」と考えることはもちろん重要である。が、その比較を活用する方向性、そしてそのようにしなければならない必然性から目を逸らすことにその重要性を用いてはならないだろう。

もちろん比較は成り立たない。が、比較が成り立つ必然性もある。それをちゃんと見つめることもまた重要なのである。

懸かるというのは寝るみたいなことである。

制作の教育。それは「同じ作り方で別のものを作る」を基本とする。

反転というのは強度によって可能になる。ので、強度がない人は反転が難しい。私はそう思う。

ただ、そもそも強度も反転を禁止することにも見える。

私は嬉しい。楽しいというよりも嬉しい。何か、何か円環、そして循環を見つけたときは。

私は私を愛する。が、これはナルシシズムなのだろうか。ナルシシズムというのは他人への愛であると思う。私を他人にしてやっとそれは可能になる。

2024/4/11「うんー、そろそろー」

なんでだ。たまに私は道徳的であることに快楽を感じている。なぜなのだろう。

「Aな人がいます。いいですね。」と言う人がいる。このように言う場合、三つの判断が働いているとみなしてよいと思われる。一つ目はある集団を二つに分けるという判断、二つ目は「人がいる」に「いい/わるい」をつけるという判断、三つ目は二つ目の判断の根拠として「A」という属性?を挙げるという判断である。ここでこのように言われた場合、その受容はどのように考えられるだろうか。まあ、三つの判断が働いているとみなした時点ですでに一つ受容の型が設定されている。その型というのは「いい/わるい」が先行していて「A」がそれに続くという型である。別に同時であると考えても良いはずである。しかし、そうはしなかった。し、「いい/わるい」を先行させた。そういう偏りがある。

理由の手前。理由を作らせる何か。そしてその何かのうち「問い」のほうではなく「答え」のほう。特異性のほう。

特異性は一つの安定した安住を生み出す。

私は私の欺瞞の匂いを感じる。が、それを追いかけることはしない。なぜか?それをすれば私の醜さに直面しなくてはならなくなるからである。それはとても辛いことでしんどいことである。

ただ「匂いを感じる」こと自体はしておきたい。腐らないように。

「ずるい」というのは「運がいい/運がわるい」とどういう関係にあるのだろうか。

遅れが本質的であることがある。それは例えば再帰性が明らかになること自体が危険である場合があるということである。

考えるというよりとどまる。考えるというよりとどまる。

2024/4/12「運が匂いを立てる」

区別するためには同じところがある必要がある。同じところがあるためには区別する必要がある。

臭いものに蓋して「どうしてこんなに臭いものがあるんですかね。」と言う。

どうしようもなさをどう演出するか。もちろんどうしようもないことはあるともないとも言えるしあるともないとも言えない。

共立と順序。

「と」と「から」。

最終手段は残しておくに限る。なぜか。その手段を遂行して絶望したらもう、もうどうすればよいかがわからないからである。

同じ意見を言わない、そういうルール。それはなぜか。

2024/4/13「匂いを。」

そう。私は順序通りに事を展開できない。共起することを展開したい。そんなふうに思ってしまう。

そう、私は物語が不快なのである。しかも、それはもはや快につながらないような不快であるように思われるのである。

私は私を知ろうとする。が、それには限界がある。いや、限界があることにしないとそもそもコミュニケーションが取れない。

私が「文学を読む」ということを苦手としているのは、もう少し細かく言えば、「複数の文学を連続して読む」ということを苦手としているのは、私の享楽が一つのものの複数の存在、さらに屹立によって引き起こされているからであるように思われる。さらにはその屹立と反復は極めて共謀的であり、私の身体性の限界が、可能性と言ってもよいが、それが「一つのもの」によって支えられている必要があるからであるように思われる。ここで重要なのはおそらく、「一つのものの複数の存在」であって「複数のものの一つの存在」ではないということであろう。もちろん、この二つの在り方はそれこそ共起的であるから反転性があるのだが、私は「ひとつの」ということを「文学」、さらには一つの「文学」の作品性に頼っているから「複数の文学を連続して読む」ということが苦手なのである。これは疲れやすいとか、覚えてられないとか、思い出せないとか、そういうそもそもの能力の限界にも支えられていることも重要である。

元も子もなさそうなことを言って、その「元もこもなさそうなこと」がなぜそうなのかを考える。

何か決まっている。あれを使う。「あれを使います。」そう言われる。もちろん、それをつっぱねてもいっこうに構わない。が、そのことにエネルギーを使うか、それとも言わばマゾヒスティックにエネルギーを使うか、それは考えなくてはならない。いや、考えてもよい。

考えることにはエネルギーがいる。エネルギーは簡潔に言えば、疲れていない、ということを基本的な条件としている。

差異化と対比化の差異化と対比化。

2024/4/14「明日は「明日は明日の風が吹く」と言っている」

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