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飛んだり・跳ねたり・泣いたり・切ったり。(本当にどうだっていいシリーズ)

押し並べて、私の生活は、20代後半の女性にしては「普通」な物になってきてしまった。

家出をした。

6/13に、ボストンバッグにとりあえずの衣類と生活雑貨を詰め込んで、私は家出をした。その前々日の夕飯時、母親とふたりの食卓で、箸を持ったまま私は泣いた。家を出たいと泣いた。ただ、家を出たいと言ってもそんなに本格的な家出でもない。週に1度2度、実家にふらりと戻る家出だ。家を出たあと1度既に実家に帰っているし、なんならこの原稿の大半を私は今実家のパソコンで書いているのだが、家を出る事を決断するのは、私にとってはちょっと大変で、私は幾度も両親を困らせ心配させることを不安に思って泣いていた。家に帰る度に泣いていた。誰のことも困らせたり心配させたくなくて、泣いていた。どんなに周囲の人間からは「みるくし幸せ絶好調イエーイ」という風に見られていたとしても、私の根底は簡単に変わらない。お前らが定義する幸せがいつ崩れるのかもわからない、崩れるくらいなら手に入れない方がいい、そう思う気持ちは変わらない。

だから私は家出するに相応しくない理由をたくさんあげた。たくさん言い訳を考えた。家が狭いだ、コンロが1つしかないから料理が出来ないだ、洗濯物乾かしにくいだ、ベランダが無いだ、同じ部屋で寝たくないだ、とにかく家の狭さから見つかるデメリットは、自分の中にひととおりあげた。そもそも論、結婚する前に同棲をする考え方には反対をしていたので、自分の中でこんなこと有りえないと言うルールが根ざしていた。

“然し、この問題が例え全て解決されていたとして、私は家族に家を出たいとすんなり言い出せるだろうか?”

その質問を自分の中につきつけた時に、私は「それはなくて、今と同じような悩み方をするし、泣き方もする」と思った。結局私が列挙する言い訳など、「最終的には家族に心配かけさせたくない事」と、「自分が傷付きたくない事」この2点しか無かった。住居に関する条件が全て揃ったとしても、関係性が崩れて自分が傷つく可能性なんて捨て切れるわけがない。寧ろその条件をすべて揃えるほうがまだ簡単だろう。それなのに自分の中のルールを無理にでも押し通そうとするのはなぜか、と問えば、「自分が傷つかないため」のリスクヘッジである。真面目と言えば真面目だが、この生真面目さは自分の臆病さの露呈でもある。所謂拗らせアラサーの典型事例だ。自分の考え方に固執をし過ぎた結果、めぐってきたチャンスさえも踏み出せずに逃す癖に、人の方を指さしては文句ばかりを言う。私はそういう人間だ。百歩譲ってひとりきりの状態であれば、その考え方に固執している分にはあまり問題もないし、それでいいと思う。だけれども、「自分は本当はこの考え方以外の行動もしてみたいけれども、そんな事は自分に向かない」「自分の考え方を簡単に変えちゃいけない」とか、その考え方も確かにおっしゃるとおり。でも自分以外の力が動いた時にまで、それに縋っていていいのだろうか。

このまま言い訳ばかりを繰り返していても、私はずっとこのままもやもやした状態でいまこの「サイコーに幸せ絶好調イエーイ」状態を泣きながら過ごす事になるんだろう。どんなに満たされているように見えても、自分の臆病さと決断力の無さで、それを全部ぶち壊すのなんて、容易かった。何とも決められない自分が情けなくて、何処に感情を仕向けたらいいのかも全然わからなくて、1度その状態で部屋のなかカッターを探していたが、見つからずに適当なハサミの刃を腕に当てた。3年ほど昔のように刃を思い切り引くこともできずに、傷は残らなかった。中途半端な自分にまた泣いた。

このまま毎日実家にいる時間、カッターを探しては見つからず、ハサミの刃を腕に当てる毎日を過ごすのか?もやもやした状態をもやもやしたままで暮らすのか?と、自問すれど、勿論それもあまりに不健康だと悟った。どん底の状態で刃物に頼るのではない。わりかしサイコーな状態でもなお、私は自傷を繰り返すのだろうか…いいや、それならばと思って、母親に家を出たいと、泣きながら告げたら、案の定、「貴女が突然精神的に狂うこともあるでしょ?」とか色々言われた。母親が心配している事については、私は母親の100倍心配していると言った。結局「貴女が心配してるほど心配しないし、まあ、いいんじゃない?」と言ってくれた。口では日々「一人暮らしだろうがルームシェアだろうがしてくれていいよ引き留めないよ」何て言ってたけど、多分毎日心配しているだろうし、本当は実家においておきたいのかもしれないと、いま少し思うようになった。

そういうわけで家出する日に、私は両親宛に無印良品の便箋三枚の手紙を書いた。やっぱり家を離れるのは寂しいと思うけど、別に千葉から大阪にいくとかそういうわけでもない。何度もいうが、週に1回2回は実家に帰る。っていうか今実家にいる。千葉から東京だし、いま私が家出してる区域の専門学校にいもうとは通学していて、行動圏内はいもうととそこそこ似ている。つまり家から遠くない。そんなもんだ。それでも、そういう問題でもなくて、両親にしてみりゃ知らない男の家に娘が転がり込むこと時点でいい気分はしないだろうってことは分かっている。それは私のあいてしも気にしていたが、然し27歳の女性の生き方ということを念頭に置けば、人生とはそんなもんにしか過ぎない。両親を困らせること含めても、人生とはそんなもんなんだろう。私にしたら大事件だけれども、世間ベースで考えたら、それは至って普通な人生のレールのうえに乗ってるだけにすぎない。そう思うと、少し気も軽くなる。逆に言えば、それほどにどうでもいい出来事にしか過ぎない。私が大事件だと一生懸命自分の思ったこと考えたことを語ったとしても、そう、それは、世間から見たら本当にどうだっていい出来事。そう考えると、カッターで腕を切る気も、少し失せてくる。

家出の目的について話をすれば、何だかんだ言ってこの家出は「好きな人と一緒にいる事を目的とした家出」と言うニュアンスよりもむしろ、「実家暮らしでは見えないものを見るための研修」と言うニュアンスが強い。あとは通勤時間が1時間短くなること。というか、これが一番だ。あの満員電車の総武快速にゆられることがなくなるなんて、私にとっては、革命だ。とはいえ、実際毎日毎日同じ実家に帰ってくる繰り返しにももう飽きていたのは事実で、何か新しい事をしたいとは思っていた。金銭的な問題がネックになって踏み出せなかったが、今の条件ならまあまあやっていける。勿論、バランスが崩れた時に、自分は大丈夫なのだろうかと思う自分に怯えてはいる。「所詮お前なんか」と嗤う誰かの存在にも、怯えている。この、「所謂幸せ」が何時まで続くか分からないことだって、分かっている。「でもそれって考えてももうどうしようもないことでしょ」と、誰もが口を揃えて私に言うことだって、私は知っている。

「もう失敗したら失敗したで、実家に帰ってくればいい。」ただそれだけだなぁと思うより、他は無かった。

家を出て1回目に実家に戻った日は流石にちょっと緊張したが、なんだかんだ母親には「必要な物持ってって良いよ」とか、「荷物送るなら車の中にあるゴム紐使って自転車載せて宅急便出しに行きな」とか、そういう事を言われた。昨夜また実家に帰ってきたのだが、今日もそんな感じだった。父親には何も話していなくて手紙しか置いてきていないものの、朝洗面台で歯を磨いていたら、いぬ氏の散歩から戻って風呂に入っている父親から「みーちゃん、フェイバリットのスペル教えて」と声を掛けられた。フェイスブックかインスタグラムに、英文付きでいぬ氏の写真をアップロードしようとしていたのだろう。今日は幕張メッセでベビメタのライブで、家には上質なとんかつ肉があると言うので、今日もおとなしく実家に戻る事にした。

ここ3週間程、土日夜不在にする為、あいてしにはそれなりに寂しい思いをさせているようだが、極論そんな事は知ったこっちゃない。でも、この「そんな事は知ったこっちゃない」精神を何時までも貫いていたら、関係性なんて知らぬ間に崩れて行くことも悟った。人間関係と言うか、世の中一般的な恋人関係と言うのは私が思っていたよりももっとずっと、単純に些細な綻びが大きな裂け目になるのかもしれない。私はずっと強がり過ぎていた。自分が持っていた理想と言うのは結局自分勝手な物で、他人への配慮をしているようで、そこまでしている訳でもなかったのかもしれない。

「好きな理由」「会いたい理由」「その寂しさは他のものに代用できないのか?」「代用できるのであれば代用すればいいし、というか代用出来ない寂しさなんてねえし」とか。

でも自分も臆病で寂しがりだから、昨日とか電話しちゃったりする。

このように何においても理屈を求めてしまう自分は、絶対正しいんだと信じて止まなかったが、その姿勢が他の人を傷つける事なんて、実はいっぱいあるのかもしれない。でもこれもまた、今だから書いていられる言葉の並びで、この先自分に衝撃があった際に、同じことを言えるかどうかなんてわからないし、この文章自体書いたことを後悔すると思う。

そういうあとあとの後悔を考えると、特に調子がいいと思う時に文章なんて書きたくない。それは記録として残る。調子がいい時の記録なんて、調子が悪い時に読めば「このとき調子乗っていたから今こんなに反動で苦しいんだよふざけんな」となってしまう。そもそも書き残したこと自体に後悔をするだろう。そんな事は分かっている、然し、書かないことには、どうにも気が落ち着かないようだ。だから常に、あまり明るくないように事実を記す様にしようとしている。

何時落ち込んでも良いように。

押し並べて、私の生活は、20代後半の女性にしては「普通」な物になってきてしまった。暦通りの生活を消費に拍車がかかった。文章を書こうと思って通おうとした講座には結局手を出していない。秋こそはと思っているけれども。本当にこれだけでいいのか、常に自問自答は止まらない。私にこれだけの「普通」は、果たして似合うのだろうか。

もっと飢えた感情を、文字にすることを忘れちゃっていいのか?

だいじょうぶだいじょうぶ、と言い聞かせていたが、どこかこの1週間で知らない疲労がたまっているのかもしれない。朝凄く眠くって頭のまわり方が遅くて、1時間ほど眠ってしまった。然しひとりになると、なんだか虚無感が残る一方だ。もう全部どうだって良くなっちゃって、このまま眠りに落ちて目が覚めなければいいと思う。

もう誰の顔も見なくって良いって思うけれど、思えないや。あいつにもの言わすまでは死ねないし、この手に入れた「普通」の中で、呼吸をしていないとな。

まだ全然もう、笑っちゃうぐらい、恨んでるし、笑っちゃうぐらい、笑っちゃうほど、あいつすげえやつだわよ。私の運命を握るものがいるとするなら。

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