その器をつくったのは誰なのか?

 食べかけのクッキーのような小さなカケラが、日本最古の土器であることがわかったのは1999年、土器に付着した炭の年代測定結果が出された時だった。年代は、1万6500年前、氷河期にあたるもので、今日、この土器の登場をもって縄文時代が始まると評価される重要な発見となった。本州の最果て、津軽海峡をのぞむ青森県大平山本Ⅰ遺跡の土器がそれである。
 以降、日本列島において本格的な土器生産が開始され、器は今日の私たちの暮らしに欠くべからざるものとなった。



 こうした原始の器の作り手は誰なのか?
 人類学者のマードックは、世界各地の先住民集団における土器の作り手を調べ上げ、8割方の社会集団において女性が土器の作り手であることを明らかにした。こうした結果をもとに、縄文土器の作り手も女性であったと考える考古学研究者は多い。狩りは男、土器作りは女、といった具合にジェンダーの確立を考えるのである。
 パプアニューギニアの集団では、まつりに使われる特別な器は、特定の魔女しか製作することができなかった。そしてその土器作りは秘密裏に行われたのである。もし、その土器作りを盗み見た者がいたなら、その者には死が訪れたという。ひとびとの飲食に欠くべからざる器、儀式に使われる器のひとつひとつには、魂がこもっていた。
 


 国内で出土する縄文土器の多くは、煮炊き用の深い鍋で、皿や椀はほとんどみられない。鍋のほか、盛り付け用の椀、貯蔵用の壷、蒸し器である甑(こしき)など、用途に応じた器の多様な分化が始まるのは、コメが主食に転じる弥生以降である。
 古墳時代にあたる5世紀には、縄文土器・弥生土器といった素焼きの土器に取って代わって、須恵器と呼ばれる窯焼きの硬質の器の生産が始まる。この場合、生産を担うのは男性の工人たち(専門集団)であった。佐久地方でも良質な粘土のある御牧ヶ原台地にはたくさんの須恵器窯が構えられる。おそらく須恵器生産の指導には、半島からの渡来系の人々があたっていたことだろう。

 今日、日本の食卓を眺めると、お母さんの茶碗、お父さんの茶碗、ボクの茶碗といった具合に、それぞれの器の帰属が決まっている。妹の茶碗にはかわいいネコの絵が描いてあり、ボクがその茶碗を使うことはフツーはない。これは属人器とよばれるしきたりであるが、西洋では白いカップ、白いお皿といった具合で、属人器的な考え方に乏しい。おもしろい文化差だと思う。

 今回、3人の女性がひねり出す器には、どのような心がこもっているのだろう。はるかな土の記憶から今日までに思いをいたすのである。

                     堤  隆 (考古学研究者)



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