朝ドラ『らんまん』のセリフが気になって深掘りしてみた
昨年のNHK朝ドラは植物学者、牧野富太郎の生涯をモデルにした『らんまん』だった。
植物関係だけど牧野富太郎は有名だし、noteに書くこともないでしょう、と夏に帰省した時に見ていた時にかるーい気持ちで流していた。
ところがだ……。
事件は「オーギョーチ」の週に起きた。
苦難も乗り越え、台湾で植物採集にあたった主人公、槙野万太郎。「愛玉子(オーギョーチ)」という名の植物を持ち帰り、それを使った手作りのゼリーを家族に振るまう。その一方、大学の研究室では画工、野宮と助手、波多野がイチョウの精子を発見したという報告がなされていた。
偉業達成を受けて細田助教授と徳永教授が次のようなやりとりを交わす。
細田「これで、ドイツを見返してやれますね」
徳永「もうあんな思いは。。。。。」
な、なんですか、この会話は・・・!?ドイツという箇所に敏感に反応してしまうではないですか。何があった!?
史実に従うと東大でイチョウの精子が発見されたのは1896年。
ならば芋づる式に当時の日独植物学界の状況を手繰っていきましょうぞ。
1)モデルとなった2人の植物学者
とっかかりとなるのは徳永教授と細田助教授の2人。彼らのモデルは?とググったら、徳永教授は松村任三、細田助教授は三好学という二人の学者の名前が出てきた。
あ)松村任三(1856~1928)
小石川植物園のホームページの「植物園で活躍した学者たち」によると松村氏について次のような説明がされている。
彼は初代小石川植物園の園長で、ちなみに大森貝塚の発掘にも参加している。肝心のドイツとの接点はというと、1886年から1888年にかけて私費でヴュルツブルク大学とハイデルベルク大学の2カ所に留学していた。
い)三好学(1862~1939)
彼が官費で向かった留学先はライプツィヒ大学で、95年に帰国している。小石川植物園の2代目園長。
2)近代植物生理学の祖、ユリウス・フォン・ザックスに学ぶ
では、当時のドイツの植物学界はどのような状況にあったのだろう?
それを知るには先にドイツへ渡った松村がヴュルツブルク大学で師事した人物がカギを握っている。その人こそは、これまでの観察、記述が中心だった植物学に実験科学である植物生理学を確立した「近代植物生理学の祖」ユリウス・フォン・ザックス(1832~1897)。
植物生理学は、植物の内部で起きている事象、たとえば光合成、呼吸、植物ホルモン、生長といった機能を解明しようとする学問のこと。
研究対象の広いザックスの数ある業績のほんの一部を紹介すると、
1. 葉緑体中のデンプンが光合成によって産み出され、それが暗くなると消えて、再び明るくなると新たに合成されることをヨード反応などによって確かめた
2.植物が成長するために必要な栄養素に関するデータを集めて水耕栽培を成功させたー。
余談として書き加えておくと、植物生理学が発展した背景にはレンズそのもののやレンズの組み合わによる収差によってツァイスやライツといったドイツの会社を中心に顕微鏡の解像度が飛躍的に向上したことが大きい。つまりドイツには植物生理学を推し進める研究環境が整っていたといえる。
3)日本の植物学の主流は分類学
ドイツで植物生理学が脚光を浴びている時、その芽はいまだ日本では出ていなかった。東大でも講義は行われていたものの、独立した講座はまだなく、日本の植物学といえば分類学だった。
植物を発見、識別、記述、分類、近縁種との比較、命名するという植物分類学は植物学の中でも最も古い分野。松村任三、そして牧野富太郎も植物分類学を専門とした。
ドラマでは槇野万太郎が非職となった大窪助教授から「古いんだよ、おまえは!地べた這いずる植物学なんぞ、終わったんだ。手間だけかかって、見栄えもしない、見向きもされない」という言葉を放たれるシーンがある。
なぜ世界の潮流は生理学に向かっていったのか? それは応用が利くという点だろう。もっと言っちゃうと、お金になる可能性を秘めているから。
それは昔も今も変わらない。例えば植物の光と二酸化炭素を使った光合成の仕組みを明らかにすることは次世代エネルギー開発のヒントになる。また植物に必要な栄養素が分かれば化学肥料の開発にもつながり、農作物の収穫をあげられれば増え続ける人口にだって対応できる。
それに比べたら植物分類学はどうも分が悪い。いえいえ、牧野富太郎や松村任三の功績を低く見るわけでないんですよ。とりわけその頃はまだまだ日本の植物についてはまだまだ未知のことも多かったのだから。
さて話を戻すと、植物生理学とは門外漢だって松村任三がなぜヴュルツブルク大学に赴いたのか。
ザックスの著書「植物学」は当時、帝大で講義につかわれていた。ザックスによってヴュルツブルク大学は「植物生理学の聖地」として、世界にその名が轟いていた。外国からも多くの人が教えを請いに来ていた。いかに専門外であっても日本の植物学の将来を見据えて松村が自分の目で確かめようと思ったのは当然のことだったろう。
3)イチョウの精子発見は日本植物生理学の黎明期に
松村の後にライプツィヒ大学に留学し、三好が師事したヴィルヘルム・プフェッファー(1845~1920)はザックスの助手をつとめた経歴の持ち主。植物細胞の浸透圧に関する研究で名をあげた。三好の後も日本から何人かの学者がドイツに留学し、プフェッファーの薫陶を受けている。
「日本の植物生理学の父」とも称される。三好は1.カビの化学屈性 2。花粉管の刺激運動について 3。カビ菌糸による膜の貫通ーといった植物生理学分野の論文を著し、1895年に東大で初めて植物生理学の講座を開講した。
その翌年に起きたイチョウの精子発見はさぞや喜びもひとしおだったことだろう。
で冒頭の会話に戻るけれど果たして2人はドイツ人にどんな仕打ちを受けたのか?
日本は開国してから日も浅く、ドイツはあらゆる分野でお手本とされていたのだから、ドイツ人の上から目線があったとしてもおかしくない。
ただし、記録によると松村の前に長松篤助すけ(1864~1941)がヴュルツブルク大学に留学してザックスの下で「葉緑体の作用に就いて」という論文を書き、博士号を取得したという経緯が残っている。そしてザックスからもそれなりの評価を受けたらしい。
ま、所詮ドラマですからね。
それにしてもあのわずか2言の会話で私を翻弄させた「らんまん」は罪深い。このnoteを書くのに思いっきり時間がかかったんですけど。。。。
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