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【創作短編】習作・はなり亭で会いましょう

 定刻通りに自宅の最寄り駅に到着した電車からは、毎度のことながらおぞましい数の人が下りてゆく。よくもまぁ、これだけの人が毎日他人だらけの空間に詰め込まれ、運ばれ、各々の目的地で吐き出されるように降りていくものだと、呆れるような気持ちになりつつ、絢子自身もその一部なのだと思うと何とも言えない気分になった。
 冷房の効いた車内や駅構内を出ると、待ち構えていたかのように生ぬるい空気が体にまとわりつく。暑さのピークの時間は過ぎているが、まだ空には太陽が健在だ。
(あぁ、嫌になるな……)
 自分の意志などお構いなしに運ばれては決まった場所で繰り返す仕事。そこでの様々な思惑。適切な距離を保ちながら、決定的に居心地が悪くなることがないように立ち回り、無難な日々を送る。いい加減飽き飽きしているものの、安定した給与や休暇が約束されているから、進んで捨てる決断もできないもの。
 何か満たされないような気持ちを抱えながら、絢子はいつもの家路を急いだが、その途中にある居酒屋「はなり亭」の前で歩調を緩める。中の様子を見たところテーブル席に一組と、カウンター席に二人。平日で開店時間から一時間にも経っていない今のところ、込み合っているわけではなさそうだ。今宵の憂さ晴らしの場所として使わせてもらおうと決めた絢子は、大きく息を吸って吐き、はなり亭の暖簾をくぐった。

 店員の声に威勢よく出迎えられ、勧められたカウンター席に座る。調理中の店主・御厨と目があったので、絢子は軽く会釈をし、彼の愛層のいい微笑みに少し気持ちが和らいだ。
 はなり亭は絢子の住むマンションのすぐ近くに一年前にできた居酒屋である。以前はもう少し敷居の高い雰囲気の寿司屋だったようだが閉店し、その店舗を引き継ぐ形で御厨が店を始めた。居酒屋ではあるがチェーン店のように多種多様なメニューが揃っているわけではなく、一つひとつの料理に御厨のこだわりが伺え、お腹も心も満たす味になっている。日本酒もいくつかの銘柄を置いており、日本酒党の絢子のお気に入りのお店になっている。
「いらっしゃいませ。一杯目から日本酒にされますか?」
 おしぼりを持ってやってきた店員の女の子は、最初から日本酒を頼むことが多い絢子のことを覚えているのか、気の利いたことを言ってくれる。この先回りした気遣いを職場の後輩であるマユちゃんにも見習ってほしいなぁ……と思いながら、絢子は店員の厚意に頷き、いくつか並ぶ日本酒の銘柄から松本酒造の「澤屋まつもと」を最初の一杯に決めた。口当たりがよく、程よい酸味があり、暑い日の一杯目にもいいだろう。お酒と共に自家製豆腐の冷ややっことささみの梅肉和え、ポテトサラダ、お任せ焼鳥盛り合わせを注文する。
「おひとりなんで、少な目にしときましょか?」
 注文を取る店員との間に割り込む形でありながらごく自然に、調理場の御厨が声をかけてくれた。
「あ、じゃぁ、それでお願いします。いつもすみません」
「いえいえ。涼花ちゃん、それぞれハーフサイズで付けといて」
「了解です!」
 御厨の指示に従い、涼花ちゃんと呼ばれた店員ははきはきと気持ちのいい声で注文を確認する。少しの指示で内容を理解して、てきぱきと動く様子に絢子は好感を覚える。昨年入社してきた後輩のマユちゃんもこんな感じなら気持ちよく一緒に仕事ができるのだけれど。とはいえ、人はそれぞれ違うものだし、それぞれに良さがあるはず。また、相性の問題もあるだろう。
 そんなことを考えながら、ふと、御厨が店員の女の子のことを「涼花ちゃん」と下の名前で呼んでいたことに気づく。いや、別に何も不思議なことではない。現に自分も一回り近く年下である後輩のマユちゃんを苗字の「佐々木」ではなく、下の名前で呼んでいる。見たところ店員の涼花ちゃんは大学生くらいだろう。ならば社会人二年生のマユちゃんとも、そう大きく年が離れているわけでもないし(大学生から見た社会人二年目はすごく大人かもしれないが)、絢子と御厨の年齢もたしかそんなに違わないはずだ。だから、これくらいの年の差のある職場の間柄ならば、下の名前にちゃん付けで呼んだとしても、たいした意味などないのだ。
(そう、意味なんかなくて。ただ私が勝手にモヤモヤしてるだけ……)
 心に差す暗い影をいつの間にか見つめていたことに絢子はハッとする。業務時間外は仕事のことはきっぱり忘れて、私生活を充実させようと心に決めていたのだと、自分自身に喝を入れ、余計な考えを振り払う。
 ちょうどよく、頼んだお酒がグラスに注がれて運ばれてきた。店に入る前にもそうしたように、改めて息を大きく吸って吐き、グラスに注がれた澤屋まつもとを口に運ぶ。爽やかな味わいが心に溜まる昏いものを浄化してくれるような錯覚を覚え、沈みそうになっていた気持ちが少し上向いた。
 続いて一人分サイズに調整された自家製豆腐の冷ややっことポテトサラダがやってくる。はなり亭の豆腐は毎日お店で御厨が手作りしているらしく、スーパーなどで買えるものとは触感も味わいも違う。冷ややっこと言えば醤油やめんつゆ、ポン酢などで食べることが多いが、ここではシンプルに天然塩が添えられている。もちろんカウンターやテーブルには備え付けの調味料があるので、醤油が欲しい人は好みでかければよいが、絢子はこの店で冷ややっこを食べるときは塩を付けることにしている。その方がより、豆腐の繊細な味が活きるように感じるのだ。また、ポテトサラダは居酒屋ごとに味付けが違うものだが、はなり亭のポテトサラダには味のアクセントに柚子胡椒が使われており、爽やかな辛みが味を引き締めている。
 遅れてささみの梅肉和えが届く。はなり亭は基本的に鶏料理が中心だ。軽く表面をあぶってたたき風になったささみを一口大に切り、少し醤油を加えた梅肉で和えている。隠し味に少し加えたごま油が食欲をそそる香りを盛り上げている。
 日本酒だけでも美味しいが、やはり肴があった方がより楽しめる。口にするものが美味しいというのは幸せなことだ。
 人は生きていくために栄養を摂取しなければならない。だから毎日定期的に行うそれが美味しいものであれば、生きていくなかで幸せな時間が増えるのではないだろうか。絢子はそう考える。
 しかし、世の中には絢子と違う考えの人もいるだろう。食事に興味がなかったり、食事に求めるものが違ったり、人それぞれに違いがあるのは仕方がない。ふと、今日の昼間の出来事を思い出してしまった。

 ***

「絢子さーん、どうしましょう……私、海堂さんが今度取引先を接待するときに一緒に行かなきゃいけない感じなんです……」
 まるで仔犬が親犬に助けを求めるかのような表情で、絢子の後輩であるマユちゃんが訴えて来た。
 営業一課の海堂は自他ともに認めるトップ営業マンであり、次期課長候補としても注目されている。
「なんでそんな話になったの?」
「えーっと、さっきコンビニに行ってレジに並んでたら海堂さんが後ろに並んでて……」
 オフィス街にあるコンビニの昼時となればレジに長蛇の列ができるのは珍しいことではない。長々と待つ間、知った顔が列の前後に居るとわかれば、雑談などで時間をつぶすのはよくあることだ。その雑談のなかで海堂はマユちゃんに先日、課長グループと部長の懇親会として先斗町にある店で食事をしたことを話したという。いうまでもなく先斗町と言えば京都の老舗が軒を連ねる、敷居の高い場所であり、必然的に価格設定は財布にやさしくない。そしてそこに出入りするというのはステイタスともいえよう。先斗町の店で食事をしたという海堂に対し、マユちゃんが憧れのまなざしを向けたであろうことは想像に難くない。
「それで私……そんな素敵なところに行くなら、私にも声かけて欲しかったですって言ったら海堂さんが……」
「……A社の担当と今度食事会の予定があるから、マユちゃんも一緒にくる? その店を使おうと思ってるんだ、……とか、言われたのね?」
「すっごーい! さすが絢子さん! なんでわかるんですか?」
 眩しいくらいに素直に感嘆しているようなマユちゃんの表情に苛つく感情を抑えつつ、絢子は冷静に会話を続ける努力をした。というか、課長以上の面々が集まる会合で、どうすればマユちゃんに声がかかる展開になるんだろうか。もちろん、純粋に先斗町に行けるということへの憧れから、何の気なしに言った言葉なのだろうが。結局はその言葉が誘い水になって、接待への同席という形で憧れの場所に行ける話が進んでいるはずなのに、マユちゃんはそのことに困惑している。欲しいものが手に入りそうなのに、要らない・困る、と言って絢子に助けを求めているのだ。
「適当に断る方法ならいくらでもあるでしょ? 別に絶対行かなきゃいけない義務とかじゃないし。だいたい取引先の接待に女性社員を同席させた方が印象が良くなるとかなんとか……そんな時代錯誤な非公認社内ルールがいまだに生きてるのも考え物なんだけどね」
「うー……私、絢子さんみたいにはっきり言えないですよ。まだまだ下っ端だし、やっぱり行けませんとか言ったら、海堂さんに追及されそうだし……」
「あのね、マユちゃん。仕事でもプライベートでも、言わなきゃいけないことはちゃんと伝えないと。今の話を聞いた感じだと、海堂さん、マユちゃんがノリノリで同席にOKしてるって解釈してると思うよ? それに、行けなくなった理由を追及されたとしても、答えなきゃいけない義務もないんだから。それこそ、セクハラ・パワハラですよって、軽い感じで返しておけばいいの」
「うーん……絢子さんは強いから……」
 そういう風に言えるんですよぅ……と、半ば消え入りそうな声でマユちゃんが続ける。
 これは強さ・弱さの問題なのか? 自分の発言が原因で、自分が望まない方に話が進んでいるなら、その方向転換や修正は自分でしてほしいものだ。いや、大人ならそうするものではないのか?
 しかし入社以来、同じ部署でマユちゃんと接している絢子としては、マユちゃんが弱り切った雰囲気で訴えかけてくるとき、それは必ず自分の抱える問題ごとを誰かに、基本的には絢子に何とかしてもらうことを望んでいるのだと知っている。こうなったらどんなに諭しても、見方を変えるように勧めても、励ましても、マユちゃんが望む展開になるまで、「うーん」「でも……」「大丈夫かなぁ……?」といった答えが続き、話が終わらなくなる。貴重な昼休みの休憩を、これ以上マユちゃんのお悩み相談で消費するのもうんざりだと感じ始めた絢子は、本人のタメにならないと思いつつもマユちゃんが望んでいるであろう提案を口にする。
「わかった、わかった。あとで海堂さんには私からそれとなく伝えとくし。マユちゃんは心配しなくて大丈夫よ」
 その言葉を聞いた途端、それまでの沈んでいたマユちゃんの表情が嘘のように明るく晴れ渡る。
「ホントですか! よかったぁ……やっぱり絢子さんは頼りになるっ! ありがとうございます!」
 訴えて来たときとはまるで別人のような、軽やかな足取りでマユちゃんは絢子のもとを去っていった。
(羨ましい子……)
 思ったままにポンポン言葉を口にして、うっかり望まない展開になっても助けてくれる人がいて。本人のお気には召さなかったようだが……接待への同席という形ではあるが、海堂から食事に誘われて……絢子が欲しいと願うものを意図せず手に入れられるのに、それを要らないという。もちろん、人それぞれ、望むものは違うのだから仕方がない。理屈はわかっている。理性では理解している。けれど絢子の感情はそれを穏やかに飲み込めるほど、寛容ではないらしい。
(マユちゃんは、素直で、正直ないい子。ただ、それだけ。それだけ……)
 まるで自分に言い聞かせるように絢子は心の中で繰り返した。

 昼休み後、業務の合間を見計らって絢子は海堂に声をかけた。
「海堂さん、マユちゃんから聞いたんですけど、マユちゃんを接待に同席させるんですか?」
「おっ、業務事務課のお姉さんは耳が早いねぇ~。接待って言っても、そんなに気を張らなくてもいい相手先だし、マユちゃんに美味しいもの食べさせたくてさ」
 以前から知っていたことではあるが、海堂も「マユちゃん」と呼ぶんだなと、絢子は複雑な気持ちで聞き流す。そして「食べさせる」も何もどうせ経費で処理するんだろうから、あんたが奢るのでもないだろうと心の中でツッコミを入れた。
「それって、いつです? マユちゃん、日取りは聞いてなかったみたいですけど?」
「あ~、先方と調整中だったんだけど……あ、A社からメールが来てた。えぇーっと……多分、来週の水曜かな?」
「なら、申し訳ありませんが今回は他の人を同席者にしてもらえませんか? 実はその日、以前からマユちゃんと飲みに行く約束をしてたので」
 もちろん、そんな約束などしていない。つじつまが合うようにあとでマユちゃんと打ち合わせておかないと、と今後の予定を試算しつつ、この際だからと絢子は自分の意見を海堂にぶつける。
「というか、気を張らなくてもいい相手先なら、別にわが社の伝統である『女性社員を同席させてコンパニオンにする作戦』を取り込まなくてもいいんじゃないですか? 今、何時代です? 平成だって終わったんですから、そんな伝統、いつまで続けるんですか?」
「おぅおぅ、言うねぇ、さすが一人飲み女傑のシゲさんだ!」
「何ですか、その通り名!」
 海道は少しふざけた話し方をするとき、絢子の苗字である「重森」にちなんで「シゲさん」と呼んでくることがある。しかも今回は「一人飲み女傑」というオマケ付きだ。
「だいたい、海堂さんクラスの人だったら、そんな作戦なんか使わなくたって、パパっと仕事取れるんじゃないですか?」
「まーねー……。でもさー、シゲさん。俺だって人間だし、疲れるときもあるし……たまには楽したいじゃない? だから有効な手は何でも使うよ? もちろんそれに頼るつもりもないけど。ま、時代錯誤なことしてるのは俺もわかってるよ。わかってるけどさー……だからって、いちいち目くじらたてて、そういう習慣? 価値観? に異議を唱えてたら仕事が進まないじゃない。そういうのは俺が頑張って変えていくんじゃなくて、社会のみんなで変えてくものでしょ?」
「それは……そう、ですけど」
 いつものことだ。結局、論点をすり替えられて、海堂の会話のペースになってしまう。絢子の言いたいこと・伝えたいことは果たしてどれくらい海堂に伝わっているんだろうか。
「まぁまぁ、心配しないで。そういうことなら今回の同席はユキちゃんかミサコちゃんあたりに頼んでみるわ。それに、シゲさんの主張は尊重するよ? シゲさんにはこれからも同席を頼んだりしないから、安心して」
「……お心遣いありがとうございます」
 不機嫌が表情に出ていないか不安を感じながら、これ以上、海堂と話したところで平行線だろうと絢子は判断する。形式だけではあるが礼の言葉を口にしてその場を離れた。
 もっともらしい意見を述べながらも、結局のところ海堂は会社の古い体質を変えるつもりはなく、そんな努力をするよりも使えるものはうまく使って自分の手柄を増やしたいのだ。だから同じ課にいるユキちゃんやミサコちゃんは彼にとって優秀な駒なのだろう。そして将来的にはマユちゃんも、駒として使いたいのだろう。そして絢子は駒として使えない。絢子が海堂の仕事に直接かかわる形で役に立つことはこれからもないのだ。

 ***

(いっそのこと、マユちゃんが食事に興味がなくて、食べるものの種類が極端に少ないことも言ってやればよかったか……)
 思い返しながら絢子は考える。
 マユちゃんが先斗町の店に行きたいと言ったのはきっと、そこで口に出来る美食への憧れではなく、簡単に出入りできないような場所に行く、ということへの憧れなのだろう。何度か懇親目的で業務事務課と他部署を交えた飲み会を開いたことはあったが、マユちゃんは楽しそうに出席するもののあまり料理に手を付けない。もともと小食でもあるようだが、彼女は食べることに興味がないうえに、好む味が極端なのだ。絢子にしてみれば食事は日々を豊かにしてくれるささやかなイベントだが、マユちゃんにとってはエネルギー摂取のための作業なのだろう。だから好みでない味のものまで積極的に食べる気が起きず、新たな味との出逢いにも興味はないらしい。そんな食生活で体は大丈夫なのかと、お節介なことを思ったりもしたが、最近は便利なサプリメントや栄養補助食品も充実しているから、特に問題はない様子だ。
 そういった事情を知れば、海堂が今後マユちゃんを食事に誘う可能性はなくなってくるだろう。今日のように乗り気じゃないのに誘われたマユちゃんに助けを求められることがなくなるなら、絢子としてもありがたい。
 けれど、さすがに個人の趣向を勝手に伝えるのは行き過ぎているようにも思う。やはり今日のところは、お誘いのお断りだけで十分だっただはずだ。その流れで女性を連れていく習慣に対する異議申し立てまでしたのは蛇足だったかもしれないが。
 気が付くとまた、仕事のことを思い出して一人、モヤモヤしている自分に気づく。
(あー、だから、仕事が終わったら考えないって決めてんだから!)
 考えまいとすればするほど考えてしまうものだ。だから、本当に考えたくないのであれば、「考えるな」と思うよりも、違うものに目を向けるべきなのだ。わかってはいるが、なかなか思考の方向性を変えるのは難しいようだ。
 くだらない回想に振り回されている自分を吐き出すつもりで、絢子は大きく息を吐いた。はた目にはため息にも見えたかもしれない。ため息をつくと幸せが逃げるというけれど、自分の内側に溜まった何かを思い切り吐き出せば胸が軽くなるように思うのは自分だけだろうか?
 気を取り直して、目の前の料理とお酒を楽しもうとしたところで焼鳥盛り合わせが届いた。
「熱いのでお気を付けください。あ、次のご注文お伺いしておきましょうか?」
「じゃぁ……初日の出を」
「かしこまりました」
 絢子のグラスが空きそうになっているのを見て、涼花ちゃんが声をかけてくれた。気が付く店員でいい子だなと、絢子が感心しているうちに、新しいグラスに注がれた羽田酒造の初日の出が差し出される。
 涼花ちゃんは店員として、御厨の役に立っているし、お客さんも喜ばせている。ユキちゃんやミサコちゃんは後輩として海堂の役に立つ仕事もしているだろう。そしてマユちゃんも……海堂が接待の同席にと声をかけていたわけだから、即戦力ではなくとも今後自分にとって役立つ存在になるであろうと目星をつけたのだろう。
 私はいつまでたっても使えない駒なのだ。
 その事実に再び心を痛め絢子は無意識に大きなため息をついていた。
「疲れてはるんですか?」
 ため息を聞いてか、調理の手に余裕ができたらしい御厨が声をかける。
「あー……ちょっと、ね。今日、嫌なことがあったっていうか、まぁ、大したことじゃないんだけど、過ぎたことをアレコレ考えるのが私の悪い癖」
 答えながら絢子はまだ手を付けていなかった焼鳥を手にすると、口に入れる分だけ串から取り外して香ばしく焼きあがった鶏肉を味わう。よく飲み会の席などで気を利かせてか、テーブルに届いた焼鳥をその場ですべて串から外して分けやすくしてくれる人がいるが、焼鳥は串から外してしまうと冷めやすくなり、穴から旨味も逃げてしまうらしい。外してすぐに食べるのならば、分けやすくてよいのだが、飲み会の場となるとそうとも限らない。せっかくの料理をおいしいうちに、美味しい方法で食べないのはもったいないことだと思う絢子は、その話を聞いて以来、一口分ずつ外して食べるようにしている。
(でも、みんなが取りやすいように、分けやすいように串から取り外してくれる子の方が、気遣いが出来て喜ばれるんだろうな……)
 とはいえ、今は飲み会の席ではなく、自分のペースで好きなように飲み食いできる一人飲みの時間なのだ。
 焼鳥と言えば味付けは塩かタレかと選ぶようになっていることが多いが、はなり亭の焼鳥は基本的にすべて特製タレの味付けだ。注文を受けてから御厨が串を焼く。程よく火が通り、炭火の香ばしさに絡まるタレの味付けが絶妙で、定期的に食べたくなってしまう味なのだ。美味しいものを口にしている時、ささやかな幸福感が自分の中に溜まる暗い気分を振り払ってくれるように思うから、絢子は美味しいものを食べることが好きだ。そして、そういう場を提供してくれているはなり亭という場所も。
「ぼくなんか、嫌なことあってもすぐ忘れるさかい、おんなし失敗繰り返してます。重森さんは真面目なんですよ」
 何度か店に来ていることもあって、御厨は絢子の名前を覚えてくれている。といっても、呼ばれ方は「重森さん」だ。シゲさん・重森さんと、マユちゃん・涼花ちゃん、だったら、果たしてどちらが親しげだろう? 打ち解け合っている印象を受けるだろう? おそらく後者だ。
 しかし、だからといって職場で海堂に「アヤちゃん」と呼ばれたいかといえば、答えは否だ。おそらく「馴れ馴れしいです」とバッサリ切り捨てるだろう。また、御厨にこの場で「アヤちゃん」だとか「絢子さん」だとか呼ばれようものなら、気恥ずかしさから帰りたくなってしまうかもしれない。そう考えるとこれが適切な呼び方であることは理解できる。
「真面目……か。真面目だから、近寄りがたい雰囲気を出しちゃうんですかね」
 半ば独り言のように絢子はつぶやく。真面目という性質は果たして良いことなのか、時々わからなくなってしまう。確かに仕事において真面目な姿勢というのは好ましい。真面目は誠実さやひた向きさにも繋がりやすく、一緒に仕事をする相手なら、不真面目な者より真面目な者の方がいいだろう。けれど真面目は時折、堅苦しさや頑固さを生み、機転の利かない石頭という評価にもなりかねない。そしてそのどちらであっても、真面目な者は気さくに付き合える雰囲気とは真逆のものを持っているように感じられる。
「近寄りがたいて言うか……初めて重森さんに話しかけた時、ぼくはちょっと緊張しましたね」
 調理の手が空いたときはどのお客に対しても気さくに話しかけてくれる御厨でさえ、絢子は気を使わせてしまうような硬質な気配をまとっているのかと、落胆する。やはりもっと柔らかで親しみやすい雰囲気を出して、下の名前で呼ばれても寛容に受け止められる大人にならないと、好意的に思える相手との関係を育むこともままならない。自分で自分の可能性を狭めているのだなと痛感する。
「だって重森さん、キレイやし。キレイな人が一人でふらっと飲みに入って来はったら、どうやって話しかけたらいいんか、気いつかいます」
「え……?」
 これはお世辞なのだろうか。おそらく……お世辞なのだろう。絢子はそう解釈する。解釈するが、言われ慣れない言葉に動揺する自分がいる。御厨の表情を見ると、特段照れた様子もなく、いつものようににこやかだ。きっと、こんな優しい言葉をいつも誰かに与えているのだろう。
「テーブル一番さん、玉子かけごはんと鶏だし茶漬けのオーダーいただきました!」
「ありがとうございます!」
 テーブル席の注文を取っていた涼花の声に御厨が続き、絢子との会話はそこで途切れた。そのあと予約の団体客も入りはじめ、調理場の御厨は料理の支度に追われだしたので、その日はそれ以上、落ち着いて会話をすることはなかった。
 しかし手元に残る料理をじっくり味わい、お酒の追加注文を入れながら絢子は夜のひと時を楽しむ。不思議と先ほどまでとらわれていた昼間の出来事に端を発する不機嫌な自分は消え、この時間をゆっくり堪能することができた。

「ありがとうございました。足元の段差、気を付けてくださいね」
 一通り頼んだものを食べ終えた絢子は会計を済ませ、店員の涼花ちゃんに見送られる形ではなり亭をあとにする。席を立つ時に一瞬、御厨と目が合ったので、入った時と同じように会釈した。まだ調理が立て込んでいるらしい。
「こっちこそありがとう。御厨さんにも伝えておいてね」
「はい、またお待ちしてますね」
 今日飲んだのは日本酒を二合程度。絢子からすればまだまだこれからが本番というところだが、程よく満腹になってきたこともあり、やめておくことにした。自宅から近いこの店ならば、いつでも来られるのだ。それにヤケ酒は体にもよくない。そもそも、御厨が作ってくれる温かで優しい料理は、そんなすさんだ気持ちで食べるものではない。
(帰ったらお風呂に入って、洗い物片づけて……早めに寝よう)
 朝が来ればまた、職場の出来事と向き合う日常が待っている。けれど今は仕事から解放された時間。はなり亭での幸せなひと時を胸に、自分と向き合い、自分を癒す時間なのだ。


果てしない自由の代償として、全て自己責任となる道を選んだ、哀れな化け狸。人里の暮らしは性に合わなかったのだ…。