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震災から10年。東日本大地震を振り返ってみた。〜①揺れたその時私は髪を染めていた〜

宮城県石巻市。

水産業や石ノ森章太郎で有名だったこの町は、震災をきっかけに知名度を全国区に、世界規模にまで広げた。 

私の生まれ育った町だ。


大学生になってからはじめての春休み、私はバイト先に休みの希望を出し、1週間ほど帰省することにしていた。

東京駅から新幹線に乗り、東北を目指す。福島県に入ったあたりから雪がちらついている。冬に雪を見るという機会が以前よりも減っていたので、雪を見た途端に東北に帰ってきたんだなぁ〜と実感した。


春休みはあっという間に過ぎていった。実家に帰ってからすることといえば、ゴロゴロしたり、家族とご飯を食べたり、友達に会ったり、無駄に過去のアルバムを見たりすることくらいだ。赤ちゃんの時の私は、らっきょうのような目をしていてお世辞にも美少女とは言えないが、なんかまん丸で可愛い。大切に育ててもらったということを思い出して、また明日から東京で頑張ろう。そんなことを思っていた。

優しいこの場所にもう少しとどまっていたい。そのような気持ちが、余計に、あっという間の帰省だなぁ、という気持ちにさせていたのだと思う。



私は3月12日に東京に戻る予定だった。帰省の際は馴染みの美容院に行くことが決まりになっていたので、いつものように予約をしようと思ったら、たまたま定休日だった。仕方がないので、同じ系列の美容院を予約した。初めて行くところだった。

帰省の前々日、母は私に食べておきたいものはあるか?と聞いた。せっかく帰ってきたのだから娘に美味しいものを食べさせてあげたい。そういう親心から、帰省する度に母は私にリクエストを聞いてくれた。東京に戻る前日ともなれば最後の晩餐だ。私が何と言ったかは覚えていないが、母はスーパーでたくさんの食材を買い込んでいたようだ。肉やらきのこやら魚やらを。


平成23年3月11日。


私は予定通り、いつもと違う美容院に行った。昼過ぎに出かけて、髪の毛を染めてもらおうとしたのだ。東京には数多の美容院があるのだが、うまいこと行きつけの美容院を見つけられていなかった私は、石巻に来たら馴染みの美容院に行っていた。今回は初めましてのお店だったが、お店の方はみな優しくて、気さくに話しかけてくれて居心地の良い時間を過ごした。

髪の毛を染め終わり、あとは水で流すだけ。

その時、自分の体が大きく揺れた。

宮城は地震が多い土地で、子どもの時から震度5レベルの地震は数回経験していた。避難訓練もしてきた。

だから正直、そんなにテンパらなかった。私はとりあえずしゃがみ込んで、ラップに巻かれて無防備になっている自分の頭を守った。しゃがんだ時に自分が読んでいた雑誌が足の下に滑り込んできて、なぜか揺れる床の上でサーフィンしてるような感じになった。


しばらく揺れて、地震が止んだ。

すごい地震だったね...。いつか、くる、くる、って言われてた宮城県沖地震かな?

なんて会話をした後、防災無線が鳴った。


「10メートルの津波がきます。高台に避難して下さい。繰り返します。10メートルの・・・」



津波。10メートルの津波って何メートル?

冷静に考えられなかったが、とても危険であることは分かった。とりあえずここから逃げなければ。

水は止まっている。美容師さんが、ウォーターサーバーの水で私の頭を洗い流し、タオルを巻き、石巻高校のある高台の方まで車で乗せて行くと言ってくれた。

代金を払わなければ。

と思ったが、そのことを口にすることができないくらい事態は重かった。

本当に、あの時の美容師さんには命を助けていただいた。高台に避難をした後、その美容院は津波に丸呑みにされた。

さらに恐ろしいのは、いつも行っている馴染みのお店は、高台でもなく、津波がいち早く到達した場所だったことだ。定休日だったため、お店の方もお客さんも誰一人いなかった。

私はその美容院に行っていたらどうなっていたんだろうか。



震災から10年。時間の流れでみると、それは人類にとって平等に、10年だ。しかし、時間がいくら過ぎようと忘れることはない。


私が何とか高台に来られたことが、良かったとか、運が良かったとか、そういうことを言いたいのではないのです。


この文章がどのような方向に着地するのか、私にも分からないままですが。

言葉にしてみようと思うのです。


美容師さんの車のヒーターで頭を乾かし、ようやく高台に辿り着いた時、息を吸うことを忘れるくらい混沌とした世界が広がっていた。



これは私が知っている石巻なのか?






つづく。



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