変身

『ブルーレイが読み取れない病』におかされた我が家のブルーレイを遂に買い替えた。録画はできていたのだが、何故か円盤の類を一切受けつけなくなってしまい早半年ほど経過していた。
ところがスカーレットを見ていたからか突如「『コード・ブルー』を一気見したい」と母が宣った。私は(別に見れなくても生きていけるしなあ……)と消極的だったが、そんな煮え切らない態度の私に母は焦ったく思ったのか、私と母で半ば強引に家電量販店へ行くことになった。今思えば私にとっては不要不急の外出だった。でも母にとっては要&急だったのだろうから詮方ない。不要不急の程度など、人の数だけあるのだろう。うどんに七味を入れる人もいれば私のように入れたくない人もいるし、ちょっとずつ入れるのか真っ赤になるまで入れるのかも人によって違う。オプションには十人十色の匙加減があって然る。
ま、さすがにもう大抵の外出は不要不急なのかもしれないけれども。

結果レコーダーを購入した。

さて、
これで好きなだけブルーレイやらDVDを再生しまくれる!

私は、これまで購入してきたごく少ない円盤を引っ張り出し、次々に見た。嵐のライブDVDや映画、アニメ……

不思議なことに、どれを見ても新鮮な面白さより「うわっ懐かし〜〜!」とノスタルジックになった。作品を楽しむよりも、作品を好きだった頃に起こった出来事や心情がフラッシュバックしたのだ。純粋に作品が楽しめなくなってしまったような気がして、少し寂しく、なんとも言えなく思った。


その中でも特に何とも言えない気持ちになったのが、私の青春時代を象徴するといっても過言ではない作品の実写映画を観た時——

つまりさっきだ。




その映画を銀幕の前で見たのは、高校1年の春と高校3年の秋だった。よく覚えている。

一作目が公開されたのは、ちょうど今日のような、雲の輪郭線がはっきり見え、空も青く濃く広がっていた春の午後だった。
どうしても公開日に観たいからと、母に車を出してもらってわざわざ遠い映画館へ足を運んだ。
その映画を観るのは、高校受験期にとっては何よりの楽しみだったし、青春時代真っ盛りの多感な少女にとってはビートルズ来日くらいの重大事だった。
もちろん映画を観終えた私はルンルン気分で映画館を出た。

見応えがあって、スリリングで、輝いて見えた。

それは幼いながらも「実写映画になったらどうなるんだろう」と思い描いた想像を、目の前で見せてくれたような気がした。

「この景色が見たかったんだ!」


それは、2年半後の続編を観た日も同じ感想を抱くことになる。

映画の売り上げは好調らしく、スペシャルドラマも放映され、続編映画も着々と進行し、一作目が公開してから約2年半後、続編の公開日を迎えた。
この日のことも覚えている。土曜日だったと思う。学校の制服を着て、午前授業をサボったはずだ。塾をサボったのか学校をサボったのかは今となっては忘却の海に沈んでしまったが、記憶に間違いがなければ学校の授業をサボったと思う。しかも誰にも断りを入れずに。
受験期に何をバカなことをしてんだか。きっと私以外の人間はみな口を揃えて当時の私を詰るだろう。でも私は今も後悔していない。当時の私をバカだなあと思う日は来ない。それだけ大事な日だったのだ。それだけ、その作品が私の人生にはかけがえのない存在だったのだ。

どうしても公開初日の1回目を観たかった私は、ショッピングモール内のトーホーシネマズへのエレベーターを単身上がった。


そして私はやっぱり泣いた。すごく泣いた。

お世辞にも原作どおりのシナリオではない作品だった。いわゆる原作厨だと辛酸をなめた人もいるかもしれない。それでも私は良い意味で泣いた。

ただ、私の青春がスクリーンの中で動いて、音が響いて、表情が目に見えている。
それだけで私は涙が溢れたのだ。嬉しかったのだ。
私が原作の文庫本を買って、アニメの映画版を観に行って、実写の一作目を観に行って、その日に至るまで、おおよそ4年半の歳月が流れていたのだから。




そしてそれからさらに4年半ほど経ったのだろうか、月日は恐ろしく、作品に出会ってから丸9年が経とうとしている。文字で見ると破壊力がエグくて別の意味で泣ける。

私はブルーレイをデッキに入れた。
ピカピカの真っ新なレコーダーは、すぐにディスクを読み取った。




かなしい、せつない、

そんなセンチメンタルな感情が浮かんだ方がマシだった。

気づけば終わっていたのだ。
アレレのレ。
どこが面白かったのか、どこに泣けたのか、まったくもって思い出せなかった。園長とパンくんのお別れするシーンも泣いたし、2回目で見た思い出のマーニーのラストも泣いたし、プロフェッショナルに出ていたディズニーキャストさんの涙につられてもらい泣きもした。控えめにいって3月から最近までの私の涙腺は使い古した輪ゴムのようにゆるゆるだったのに。

それどころか、私は、

「ありえないよなぁ、こんな話」

とまで口走っていたのだ。それは、喪失感も感情もなく、無味乾燥とした口調だった。

私は何かを失ってしまったのだろうか。
それとも何かを得たから、もう不必要に思ってしまったのだろうか。

私が私で無くなっていくような、違う私になっているような、そんな過渡期の狭間で、情緒が波打っている気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?