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浪江⑧

初日。私たちを乗せたバスが
動き出してすぐ、浪江駅の周りは
ほぼ空き家であること 
そして「浪江の8割が帰宅困難地域」
であることを教えて貰いました。

そうは言っても
生活が戻っているのではないかと
期待している私がいて
景色の中に生活を探してみるのだけれど
言葉通り空き家が多く
沿岸部へ行くと津波により
その多くは荒涼とした野原となり
すすきが揺れていました

場所によってはフレコンバックが
積まれていたり
かつて農地だった場所には
ソーラーパネルが置かれていて

畑は畑であってほしいとか
このソーラーパネルの置かれている農地が
いつか畑に戻ることはあるのだろうかと
思ったけれど、その電気を使っているのは
他でもない東京に住む私であることも
目の当たりにして言葉がでませんでした

請戸小学校で歩幅の小さな階段に
書いてあった英語に
思わず「可愛い」と笑った後
全員無事だったとは言え
こんな可愛らしい日常が
奪われてしまったんだと
子どもたちの明るい声が響き渡る小学校が
無くなったことを思い知りました

慰霊碑を前に
助かったかもしれない命があること
助けに行きたくても
行けずにいた人たちを知り
何を言ってもただ私の独りよがりで
なんの意味も持たない
空しい言葉になる気がして
筆舌に尽くしがたいものになりました

岩手や宮城とはまた違う
原発被害を受けた福島、
今回私が見たもの知ったことは
ほんの一部分ですが
これら全て忘れたくないもの
忘れてはいけないものとなりました

同時に痛みや悲しみだけでなく
未来へ向けて動きだしていることも
知りました

請戸漁港に29艘の船が
海と共に生きる人たちが戻ったこと
青空のもと港に停まっている船はとても強く
勇ましく見えました

今回、東京オリンピックの表彰式で
メダリストたちに渡された
ビクトリーブーケに使われていたのは
他でもない川村さんのトルコギキョウや
福島の花農家さんが生産したもので

ブーケへ託したのは
「国内外で応援してくれた人への
有難うという気持ちと10年間で
このように復興してきましたと伝えたい」
という感謝の気持ちでした

味噌づくりで講師をしてくれた
清水さんは明るくこう教えてくれました

町から離れた人たちに
戻ってきてほしいとは
さらさら思っていないのよ
新しいところで暮らす選択をした人は
そこで始めなくてはいけないことがあるし
それぞれの生活があるのだから

決して諦めからの言葉ではなく
皆、今いる場所で、置かれた場所で
頑張っているのだからそれでいいのよ
そんな気持ちが込められてるように
思いました

2日目の最後に菅野さんが
話してくれました

「浪江は8割が帰宅困難地域なので
残りの2割で動いているんです」

ここは、コンビニは23時で閉まるし
診療所は1つしかない
不便かもしれないけれど
馴れればなんてことないし
普通に生活できるよ

僕が出勤するときに道の駅なみえに
野菜を運んでいるおばあちゃんがいて
毎日、踏切で会うんだよね。毎日。 

その姿を見て僕は
人に喜んで貰いたいという
やりがいが戻ってきたのではないかと思ったし
誰かの復興ではなく
「ひとりひとりの復興」
自分ごとにしていくことが大切だと思う

僕たちは浪江に人が増えることではなく
ここにきて喜んでくれる人が増えることや
人、もの、ことを大切にしながら
何をやったら楽しいか豊かになるのか 
そういうことを見つけてやっていきたいと
思っていて
そしてそれはゆるやかでいいと思ってる

一人でも多くの人に来てほしかったのは
理由があって移住手前の交流人口が増えると
人も多くなる
そうすると1000人のうち一人か二人
ここでチャレンジしたい、何かしたいと
希望をもってやってくる人がいるんだよ

ここにくる機会を増やすために
ワーケーショントライアルという名目が
必要だったんだ

こんな風に全力で伝えてくれた
菅野さんへ心から感謝をしています 

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