本の世界へ

 無性に、ミヒャエル・エンデの「モモ」を読み返したくなり、図書館の児童書コーナーに直行した。
 あえて大きい、ハードカバーのを借りた。一緒に、少年文庫になっている「はてしない物語」(上下) も借りた。

 漢字が読める者に、ルビは案外煩わしいものだと、少々驚きながら「モモ」を一気に読んだ。奥付けを見たら、この日本語訳は、ちょうど五十年前に出版されていた。五十年=半世紀前、であるが、表現、言い回し、語彙等はさておき、内容は決して古くないと、私は思った。むしろ、この本によって鳴らされた、人間や現代社会に対する警鐘は、未だに止んでいないと感じ、背筋が寒くなった。単なるフィクション、物語、ファンタジー、絵空事、空想、本の中でのこと、現実ではないと、打ち捨てる勇気? は、私には無い。
 何年も前に「『自分以外の人間』を、まるで『家具』のように『物体』としか認識できない子どもが出現しつつある」と、危惧を示した精神科医も確か、ドイツ人だった。そんなことも思い出された。

 返却期限もあるので「はてしない物語」も読み始めた。

 初めて読む作品だが、あっという間に、その「世界」に引き込まれている。読み終えてしまうのがもったいないと思うほどに。

 「耳をまっ赤にし髪をくしゃくしゃにして、日の暮れるまで本の上にかがみ込み、まわりの世界を忘れ、空腹も寒さも感じないで、読みに読む、」(上巻19頁) そう、そうなんだょ、バスチアン・バルタザール・ブックス君。これぞ、読書の醍醐味。君はそれを知っているんだね、嬉しいなぁ。感激だょ、バスチアン君。君を、アトレーユを応援し、私もその世界に入り込み “読みに読む” からね。

 とは書くが、この作品には、子ども同士のいじめ、いじめられている子どもを笑い者にする大人たち、父と子の確執etc.も、描かれている。十年一日の如く、こうしたことは、今も現実に起きている。それはつまり、ヒトの根源的な部分は変わっていない、変わらない、ということか。だとしたら、絶望を感じてしまうなぁ……。

 ただ、それでも私は読む。

 読書の醍醐味を、ますます堪能できる作品に出会えたと、感謝しながら。まだまだ、ドキドキ、ワクワクする心が、自分の中に確かに在ることに、ホッとしながら。

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