空ノ彼方

読む、書く(それも手書き)、どちらも大好きな「活字大好き人間」。FMラジオをかけっ放し…

空ノ彼方

読む、書く(それも手書き)、どちらも大好きな「活字大好き人間」。FMラジオをかけっ放しで日なが一日、本(活字)を読んだり、手紙や日記、雑感などを書いたりしていればゴキゲン、です。

最近の記事

自分の好み、こだわり、傾向

 名前だけ知っていたカフェの前を通りかかった。開店直前、もう数人が待っていた。私もその列に並んだ。  中に案内され着席。想像以上に小さな店だった。予約済の席もあり、開店からほどなくして、ほぼ満席となった。メニューを眺めながら、なかなかの値段、私の懐具合では、リーズナブルとは言えないなと、内心思った。  オーダーを済ませ待つ間、違和感を覚えた。あれっ、なんだろう。厳密に言えばそれは、居心地の悪さ。小洒落たカフェで独り、ゆっくり、ゆったり過ごすのが大好きで、お気に入りのお店も何軒

    • 互いの足を踏み付けながら

       私の“毒”両親は「仮面夫婦」だった。そして、私たち家族は「仮面家族」。  休日は、家族でお出かけする仲良し家族。平日は、一家の大黒柱として真面目に働くサラリーマン、パートタイムで働き、亭主関白の夫に仕え、子育て、家事もこなす主婦、親や教師(=大人たち)の言うことをよく聞き、家の手伝いもし、勉強もそれなりに出来る子ども、を、それぞれが演じていた。  成長するに連れ、そうした状況、雰囲気、関係に、私は違和感を抱くようになった。やがて「かさぶたはあるが、その下はまだドロドロに膿ん

      • 頭の中の言葉、口に出す言葉

         私は「言葉の(出るのが)遅い子」だったらしい。ある時、女親が言っていた。  「遅い」と言うからには当然、何かと比較してであり、それは標準、平均、フツー、あるいは周囲の子どもたち。生まれた瞬間(それ以前?)からヒトは、かくも「比較」の只中に在るのか……。  それはさておき、結果的には、ある日突然、洪水のように言葉が出て来たそうだ。それでも「お喋りさん」にはならなかったようで、これも女親から「何を考えているのか分からない子」と、面と向かって言われたのを覚えている。  その頃か

        • 「一般化」されてしまった

           何年も前のことになるのだが、あるヒトに悩み相談をした。そのヒトを「話を聴けるヒト」と感じ、とても尊敬していたから。  けれども、私の話を聞いてそのヒトは「あなただけではないから……。」と「私の悩み」を、いとも簡単に「一般化」してしまった。最大限の善意で解釈するとしたら、私を励ますつもりだったのだろう、となるのだろうが、とんでもないことである。とてもそうは捉えられなかった。むしろ「あなただけではないのだから、いつまでもそんなことでクヨクヨしてないで、もっとしっかりしなさい」と

        自分の好み、こだわり、傾向

          スコア(総譜)を読みながら

           図書館の楽譜コーナーに行ってみた。数多(あまた)あるクラシック音楽の楽譜を眺めている内に、お気に入りの曲を、スコア(総譜)を読みながら聴きたくなった。早速借りた。  借りたはいいが、自分の読譜が演奏について行かれるか、不安になった。そういうこと(読譜)からは、ずいぶん遠ざかっていたので。  ええぃままょ!とスコアを開き、曲を流した。案の定、落ちた(どこを演奏しているのか、分からなくなった)部分もあったが、何とか最後まで辿り着いた。ホッとした。が、ワクワク感の方が勝(まさ)っ

          スコア(総譜)を読みながら

          その時の最善

           自分の育った家庭が「機能不全家庭」と知った時、ホッとした。それまで抱いていた生きにくさ(辛さ)の説明がついた気がしたからである。ほぼ同じ頃「その時はその時で(その行動を取ったのは)仕方がなかった。ヒトは無意識の中で『その時の最善』を選んでいる。後悔したり、あれで良かったのかと思ったりするのは、そこから成長した証。」この言葉に出逢った。ますますホッとした。以来、この言葉を胸に自分を励まし、鼓舞して生きて来た。    別れたDV夫と暮らしている間、誰よりも先に起き、最後に寝るの

          その時の最善

          素朴な思い

           ふと思い立って、いつも行っている小さな図書館ではなく、大きい図書館へ足を運んでみた。当然のことながら、おびただしい数の本! だった。  文庫本の書架を隅から隅まで眺めた。洋の東西を問わず、知っている作家、既に読んだ作品も勿論あった。が、これも当然のことながら、未知の作家、未読の作品の方が多かった。ホント、そんなのは当然、なのだが。  すると突然、ここにある本を読み尽くすことなく自分の寿命は尽きる、そんな漠然とした思いが頭をよぎった。「それでも時間は巡る」これも浮かんで来た。

          ゼロサムゲーム・透明な象

           「ゼロサムゲーム」。参加者全員の得点の和(サム)が常にゼロである得点方式のゲーム。一方が得点するとその分、他方の持ち点が減るので、全部の持ち点の総和はゼロになるというゲーム理論(kotobank.jpより)。  毒親で、多分に自己愛性パーソナリティ障害的傾向が強く、私(娘)が密かに「天動 説男(てんどう せつお)」と呼んでいた男親は、自分の家庭にこのゼロサムゲームを持ち込み、勝者はいつも自分でなければ気の済まないヒト、だった。  自分の得点が減るのを忌み嫌い、相手(家族)

          ゼロサムゲーム・透明な象

          かもしれない ・ なんでもない・なんとかなる

           「他人だけでなく自分に対しても、ネガティブワードは使わないようにする。使うと自己肯定感が減るから。」そのような趣旨の文をnetで目にした。  自己肯定感の低さを自覚している私にとって、納得できる言葉だった。  気が付くと自分を厳しくジャッジメントし、ダメ出しばかり。それが日常だった。自分の言葉が自分を創る。自分に影響を与えるのは、他人から浴びせかけられる言葉ばかりではない。こんな当たり前も分からないほど、その頃の私は混乱し、疲弊し、自己肯定感バク下がりのループに陥っていた

          かもしれない ・ なんでもない・なんとかなる

          今でなくても……。

           ひと頃「いつやるか? 今でしょ」なるフレーズが流行った。当時の私は「なるほど、そうだよなぁ」と思い、これで自分を鼓舞して暮らしていたような気がする。  それに引っ掛けて、今は「いつ買うか? 別に今じゃなくても大丈夫でしょう??」と、自分に問い掛けながらの暮らしを心掛けている。  それまでの私は、モノが無いとたちまち不安になるヒト、だった。多分に、買い物依存状態に陥っていたのだろう。更には、期間限定、季節限定、初回限定etc.「限定」なる言葉にも弱かった。「終活」に取り組み「

          今でなくても……。

          その日のまえに

           最近よく読むようになった、重松 清の作品。どの作品も、私は泣きながら読んでしまう。いじめ、吃音、親子のすれ違いetc. 。その生々しさに、泣かずにはいられない。それらがリアルであればあるほど、作者の思い(想い)、エネルギーが迫ってくる。氏が、心を、命を削って、作品を生み出しているのが、ひしひしと伝わって来るように感じられてならない。  「その日のまえに」も、氏の作品だった。文庫本の裏表紙に書かれていた「(前略)……昨日までの、そして、明日からも続くはずの毎日を、不意に断ち

          その日のまえに

          本の世界へ

           無性に、ミヒャエル・エンデの「モモ」を読み返したくなり、図書館の児童書コーナーに直行した。  あえて大きい、ハードカバーのを借りた。一緒に、少年文庫になっている「はてしない物語」(上下) も借りた。  漢字が読める者に、ルビは案外煩わしいものだと、少々驚きながら「モモ」を一気に読んだ。奥付けを見たら、この日本語訳は、ちょうど五十年前に出版されていた。五十年=半世紀前、であるが、表現、言い回し、語彙等はさておき、内容は決して古くないと、私は思った。むしろ、この本によって鳴ら

          本の世界へ

          豊かな甘々(あまあま)

           お互い忙しく、なかなか会えずにいた友人に、やっと会う機会が与えられた。  彼女は東日本大震災の時、東北地方で暮らしていた。玄関先まで津波が来たと、当時語っていた。そして今、元日の地震、その後の状況に、自分の被災が思い出されて辛いと、話してくれた。  ハッとした。一瞬、言葉を失った。  そこまで想像できていなかった。今回の地震で、東日本大震災だけでなく、阪神大震災、熊本や新潟、北海道等、過去の大地震も思ったが、それは思っただけだった。震災後、を生きて来た方々の心にある、さ

          豊かな甘々(あまあま)

          疲れたら休めばいい(のに)

           以前、ヨシタケシンスケ氏の絵本絡みで「疲れたら休めばいい」というようなことを書いた(と思う)。  書いたはずなのに、疲れている自分に鞭打っている自分が、いた。又しても「何やってんの?自分」だ。  クリスマスからお正月にかけて、亡夫と過ごしたその日々が、どうしても思い出されてしまう。それは同時に、二人で年を越し、新しい年を迎えるのはこれが最後、来年は無いと、否応無しに思わされた日々でもあった。未だ、メンタルがやられる、めちゃくちゃ疲れる。だのに……。  疲れていると分かって

          疲れたら休めばいい(のに)

          解けない呪い

           今年も年頭から、あれこれ思い巡らしてばかりいたら、何かをする前から諦めてばかりいた自分が現れた。びっくりした。が、それは紛れもなく自分、だった。  どうせ無理、うまく行く筈がない、最後までやり遂げられない、私なんかには出来ない。そう思い込み、やりもしないうちから諦め、やらなかった自分。そのくせ、あの時ああすれば、こうしておけば、よかったと、後悔してばかりだった自分。  更に思いを巡らせた。  そこにいたのは、周囲の目、評価ばかりを気にして立ちすくむ自分。出来ない奴と思わ

          解けない呪い

          桜の樹(き)

           久しぶりに、亡夫のお墓を訪ねた。自然豊かな墓苑なので、遅れて来た秋(=紅葉&黄葉)、に出会えるかと、ちょっぴり期待もして。  見事とまではいかなかったけれど、それなりの眺めだった。が、お墓の近くで違和感を覚えた。何か足りない。  辺りを見回して、やっと分かった。  あ、桜の樹が無い!!  かなりの大木で毎春、それは華麗に花を咲かせていたのに。病気にでもなってしまったのだろうか。確かに老木だったけれど。あれこれ考えたが、無いものは無く、あるのは切り株だけ。  満開の桜は