そんなことも……。

「どうすればいいでしょうか」と、他人(ヒト)に尋ねたり、相談したりするのが苦手である。つい、自分から「こうです、こうします」と、断定的、事後報告的言葉を口にしてしまう。そして、どんより、ずーーんと、後悔する。遠慮せずに訊けばよかった、勝手に判断し、独りで決める嫌な奴と思われたのではと、ウジウジ、クヨクヨ。
 本当は、自分では決められないほど、難題だった。どうして、自分だけでやろうとしてしまうのか。ムリをしてしまうのか。後から、こんなに苦しくなるのに。

 「どうしたら……。」と尋ねた時「そんなこと、自分で考えろ、自分で決めろ」と返されるのが怖い。「甘ったれるな」と、拒否される予想が先行し、心がすくむ。交流分析で言う所の、あらゆる禁止令に縛られているのを感じる。それらは私の心に根深く埋まって、他人とやり取りする瞬間、触手のようにスッと伸びて私を縛り、心をすくませ、他人を頼るような言葉を出なくし、実際の行動を取れなくする。それは辛く、苦しく、もどかしい。

 他人(ヒト)に尋ねたりするのが苦手なら、依頼するのも苦手。ここでも「そんなこと、出来るか!」とか「そんなの、自分でやれよ!」とか、また拒否られるのではと、いたたまれない思いが頭をもたげ、頼めない。「ええー?そう言わずにお願いしますョ」などと言って、甘えることなど到底出来ない。そうした類の言葉は、私の辞書!?には無い。全くもって「可愛げのない奴」である(今、この時代に、こんな言い方が許されるか、悩ましいが)。

 「『そんなことも』:分からないのか・出来ないのか」=ダメなやつ、という隠されたメッセージ。「『そんなの』:出来るか・自分でやれ」=他人(ヒト)を頼るな、信頼するな、という、やはり隠されたメッセージ。これらも、毒親たちから浴びせられたもの。
 まだまだ、呪われている。呪縛は解けていない。ものすごい毒。解毒剤はあるのか。

 悩み、呻吟している私がNET記事を観ながら、読みながら「こんなの、当たり前じゃん」とか「えぇ?こんなことも分かってないの!」と毒づいている。その瞬間、ハッとする。見事なまでの世代間連鎖を自覚する。唖然、呆然……。
 毒を、呪いを、継承している自分。恐怖しかない。そして、改めて思う。「自分の子ども」を持たなくて(つくらなくて)よかった、と。何故ならば、我が子がいたら、私は十中八九、「条件付きの愛」でその子を支配し、コントロールするだろうから。「あなたのため」この言葉を巧みに使って「教育虐待」もするに違いない。「我が子を思う、教育熱心な、意識高い系の、素晴らしい親」周囲から、このような評価を得ることを切望しながらも、そんな思いは、おくびにも出さず、見事なまでの毒親となり、猛毒を次世代に撒き散らすのだ。こうして、第二、第三の私がつくり出される。
 どれほど強く「私は、親のようにはならない」と決心しても、所詮「蛙の子は蛙」。毒親にされたこと、言われたことを、我が子にもしてしまい、唖然、呆然とするのだ。きっと私は。
 冗談じゃない!!そんな悲惨、悲劇は私で終わらせる。

 それでいい。若かりし日の判断、決定に、今の時点で悔いは無い。

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