内なる声、身体からの声に従う

 私は、その場に過剰適応することで生き延びてきた。自分の正直な思い、湧き上がる感情に蓋をして。それがフツー、当たり前になればなるほど、生々しい感情は麻痺して行った。そうとは気づかないまま、気づけないまま。
 結局、心身に不調を来すようになって初めて、それを自覚した。
 以後、自分の内なる声、身体からの声に、耳を傾ける努力を重ねた。初めのうちは全く分からなかった。内なる声、身体からの声なるものがどういうもの、どんな感覚であるか、掴めなかった。
 それでも諦めなかった。すると次第に、これかな? と、手応えのようなものを感じられるようになった。嬉しかった。
 内なる声、身体からの声に従うのは、何とも心地良かった。けれども、生存戦略として染み付いた、過剰適応なる長年の習慣は、しぶとく、しつこく残った。だから、せっかく聞き取れるようになっていた内なる声、身体からの声を無視してしまう時も少なくなかった。
 今回体調を崩して、それに気づいた。
 内なる声の、もうやめてという悲鳴を無視して、明らかに自分の体調を損ねるモノばかり、口にした。身体からの声が、これ以上はムリ、と訴えていたのに、夜更かしを始めとする不規則な生活をやめなかった。
 不調による、さまざまな苦しさは、ひたすら耐え凌ぐしかなく、思いがけず深いダメージに驚き、何とも心細かった(今は回復途上にある)。 その間も相変わらず、チクチク、ウジウジ、あれこれ考えた。
 内なる声、身体からの声を聞き取れるようにはなっていた。ただ、その内容を認め、受け止め、受け容れ、行動に移す、このプロセスが、充分に機能していなかった。どこかで(過剰適応しようとする私?)それらの声を打ち消し、蓋をし、押し込めた。「そんなこと言わないで」と、最も言われたくない言葉を、自分で自分にかけていた。弱っていてはダメ、弱っていると認めるのはもっとダメ、そんなことではダメという、ダメダメコール。もっと頑張れ、ガンガン行け、というガンバリズムが、私の中に充満していた。後は、まだまだ行ける、私ならこんなの平気という自己過信、傲慢も。
 なんで、どうして。 古いワタシよ、去ってくれ。脱皮は無理でも、マイナーチェンジくらいさせてくれ。
 
 体調を崩す→寝込む→回復に専念→回復期=思索の時=自分が変化する時、人生の転換点、と私は捉えている。又、人生脚本は本人が、いつでも、何度でも、如何様にも、書き換えられると教わった。実際、これまで何回も書き換えて来た。

 今度も私は書き換える。

 もっと、ますます、内なる声、身体からの声に耳を傾け、聴き取り、素直に従う、と。
 もういいじゃないか。弱ったって。頑張らなくたって。弱い自分を認めたって。忖度を強要し、負のストローク、暗黙のメッセージで私を支配、コントロールし、お前のせいで、と私を罵り、貶める輩はもういないのだから。

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