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蓮の植付け

先日、蓮の植付けというものを初体験した。
ご縁のあるお寺で数年前から蓮を育てていて、今年は数を増やすからと機会を設けてくれていたので参加させていただいた。

春の日曜、天気もよく穏やかな午後。
鉢を10ほど増やすということで参加者も10人ほど。
行程としては、土を水でこねて苗床を作り、そこに苗を置き水を満たす。
こう書くと単純だが何気にまあまあの作業でもあった(笑)が楽しかった。
境内にコロナ対応のため間隔をとって用意されていたのはポットに入っていくつか葉の出ている蓮の株と鉢と土。
土は赤土がお米袋の2/3ほどと、その1/4ほどの田圃の土。

まず1間×半間ほどのトレー(工事現場とかで見かけるようなもの)を数人で共用し苗床になる土作り。
(トレーを使ったのは鉢で作業してもいいが前屈みの作業が続き腰の負担になるからとのお寺の奥さまのアイディア。後でナイス~!と実感した)
トレーに田圃の土を袋の1/4ほど入れ手でざらざらにし(ボテッとダマになっていて(時折虫や何かの植物の欠片が出てきた)ところどころ青みがかった粘土質や微かなにおいに子供のころの泥遊びや祖母の畑仕事の記憶が頭をよぎったりした)、さらさらと乾いた赤土を同じく袋1/4と水を加えてこねる。
これを耳たぶほどの柔らかさの粘土状にというが、お寺の方に教わりながらまぁだいたいの感覚で。
これを鉢に入れ小粒状の肥料を数個加えて底土の出来あがり。

次にまたトレーで残りの田圃の土をならし、赤土と水を加え同じように粘土状にこねていきポットの周りを支える土を作る。
それほどの時間ではないが、ひたすら土をこねる。
このあたりが疲れも出てくるところだったかもしれない。
それまでは隣の方と会話したりしながらしていたのだが、自分を含めだんだん静かになってきた。
いいタイミングでお寺の奥さまが「これが坐禅とは違う無になる時」と言い、本当にそうと笑いながら頭の中に「“泥”と書いて“む”と読む(判らない方のために“漢”と書いて“おとこ”という表現がある)」などとアホなことが頭に浮かんでいた(^^ゞ

次にこの土を鉢に入れ、真ん中にポット大の穴を開け株を植える。
ポットの黒いビニールのサイドに鋏で切り込みを入れ、穴の中で株と用土を崩さぬようにビニールを抜くのだが思いのほか用土が柔らかく何気に難しい(後から底も切ってそこを押さえながらビニールを抜くのでもよかったかもと思ったが、まだ若い株だしいずれ作った土と混じるので少しアバウトでも大丈夫なのだろう)。

おわりにここの上部へ10cmほど水を入れて完成。
土を崩さぬよう鉢の縁に沿わせて静かに流し入れても水が濁っているが、そのうちに上澄みしてくるので後日お寺の方が虫除けのメダカを入れてくれるとのこと。

トレーがあって本当によかった。
腰がかなり楽(それでも翌日若干違和感が(^^;)だし、他の方と話す機会にもなった。
数名の方と一緒(それぞれで一鉢植える)だったので話したりお互いに手伝ったりしながらのことで楽しかったし、時折土をこねている瞬間などに静かで穏やかな時間を感じた。

実はこちらのお寺では昨年本堂入口の松と山門脇の松に虫が運んできた病気が見つかり(このことの記事はこちら)、暖かくなって害が飛んで近隣に拡がらぬようこの数日前に伐採したばかりでもあった。
本堂入口のもう一方に立つもみじと対になってお寺のシンボルのようになっていた松、同じくお寺の景色になっていた山門の松。
まだ切株が新しく、それまでと変わった景色に数年ほどしかここに来ていない自分でも言いようのない寂しさを感じた。
病気と伐採のことは以前から判っていたとはいえ、ずっとこれを見上げてきたお寺の方々お気持ちはいかばかりかと思う…
昨年来のCovid-19で様々な心配やご労苦もあっての中でのことなので、より皆様お大切にと思う。
おそらくは新型コロナそれ自体は終息しても影響与えるしばらく続くだろうと思う。
自分自身いくらかその影響を受けているが、こうしたときはたぶん日々のことを大切に丁寧にしていくしかないのかないのかなと感じている。

お寺には新たないのちがお生まれになっていて、この日の作業にもその1歳を過ぎた赤ちゃんが彩りを添えてくれた。
新たに松の跡に樹を植える事業も始めるとのことで、お子様の健やかな成長とその事業の成功を祈っている。

ちなみに今回数種の株を用意してくださっていて、鉢に品種名のタグをつけたのでそれぞれの参加者には自分の植付けたものが判る。
自分が植えたものにこだわるつもりはない(いや、少なからずある(^^;)が、それぞれが育って夏に咲いてくれることを願っている。


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