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【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】【恋愛小説】 紫水晶(アメシスト) 21章・22章

       

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 ペットショップからでも逃げ出してきたのか、俺の座っているつい向こうに一羽の銀色の兎がのっそりと現われた。
 しかしこいつ、どう見ても可愛いとは言い難い。図体もでかく、その赤い目が老獪にして陰険の印象を与え、しかも、舌を鳴らした俺の顔をやけに憎さげに一瞥するや、再びのっそりと遠ざかってゆく。アリスの真似でもないが、迷ったついでに不思議の国にでも案内してもらうか。俺はなんとなく後をつけてみる気になった。

 ところで、りん子のコトはさて措き、その頃から奴の会社での意見が少しづつ空回りを始めたようだ。
 奴は会議の席上、広げた指を家族に見立て、この結束の結晶化したものこそ人間の魂だと主張する。ところが、現代はどうか。家族の離反が画策され、各個撃破とばかりそれぞれに刺客が差し向けられているという。指の一本一本は協調を忘れて、外部の機械に接続され、ついては、共同作業の結晶であるところの魂を人間は喪失するにいたると予言する。
 奴によれば、玩具の世界に於て、家族の結束を取り戻し、機械仕掛けの悪魔と戦うべきだとやたら勇ましい。ところが、その悪魔とやらの正体こそ、現代の資本主義社会であり、その狡猾なシクミであると拳を振り上げれば、いかんせん、そんな世界的大組織の末席を汚すのが我が「ファンタジー商事」とあってみれば、社員失格は目に見えている。
 花はいかんせん、控えめに咲くに限るのだ。桜の花に準えるほど俺は雅びではないが、やはり開きすぎた花は散りゆく宿命でも担っているらしい。

 そう。いつぞや、奴は会議が終わったあとのトイレで、俺の目を見据えながら、青臭い口調で捲くしたてたことがあった。
 曰く、現代というのは、その表面上の豊かさを背景に、こどもたちを与えられた欲望にしか反応しない単純なハードに改造しようという策謀に満ちている……と。奴の意見では、市場経済における自由とは、つまりは誘導のことらしい。ディズニーランドに人が群がるのも、クリスマスに浮かれるのも、ブランドに血眼になるのも、自由選択とは裏腹の狡猾なる誘導、いっそ強制のなせるわざにすぎないそうだ。話を聞いているうち、この俺まで藁の頭の操り人形だと罵られているような気がして、つい反撃に出るのも止むを得ない。
 ふん、それがどうした。誘導だかトレンドだか知らねえが、とりあえずは市場の競争に勝ち抜くことだ。勝ったやつには富が約束される。カネさえあれば、車も家もおんなも、すべて一級品が手に入る。結果、人生が充実する。文句があるか。つい凄んでしまった俺に、奴は吐き捨てたものだ。君のような人間のコトを、欲望の垂れ流し人間っていうのさ。
 やれやれ……、紙面では景気の翳りが取り沙汰される昨今、競争のフィールド以前に退場の、馘の心配をした方がよさそうだ。

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 愛……そんな言葉使うと、時々笑う人間がいる。
 いや、ぼくの周りにはけっこうたくさんいる。なぜだろう。ぼくは思うのだけれど、もしかしたら悔しいのではないだろうか。連中はこころの床が腐りかけていて、ズシリと重いものを保管しておくにはすでに、あまりにも脆弱になり過ぎていることを内心感づいているのかも知れない。だからこそ、しいて、軽いものしか求めない。つらいことや苦しいことが、とっても嫌いな人たちなのだろう。だからこそ、時に強靭な床を持っている人間を見ると癪に障るのだろうか。本当は、そう見えるだけで、歯を食いしばって、必死に踏張っているだけというのに……

 うっとりと色づいた夕暮の五月の空を見ながら、ハーモニカを吹いた。もちろん、りん子がそばにいる。デートの帰り、りん子のアパート近くの小さな公園で、急に吹いて欲しいと言ったのだ。もう一曲もう一曲と、りん子がせがむ。
 隣のベンチの、枯れた老夫婦と思われるのが、微笑ましそうにぼくたちを見守ってくれる。遠い将来のぼくとりん子のように、仲が良い。学習鞄をぶら下げたこどもたちが時々物珍しそうに寄ってくるけれど、ちっとも恥ずかしくなんかない。りん子もそんなふうで、やけにしんみり聞いている。
 それでも、暗くなる頃には公園を出て、りん子のアパートの前まで来た。いつもはせいぜい駅のところで別れるのだけれど、公園に立ち寄ったせいか、なんとなく来てしまった。アパートの入口は狭い路地の奥で、猫こそ見かけるが、人影はまるでない。   
 二階の角だどいうりん子の部屋には地味な緑色のカーテンが垂れ込めていて、女の子の華やぎはあまり感じない。
 でも、部屋の中は案外正反対なのかも知れない。なにせ「豆狸」のことだ、部屋中狸の縫いぐるみが溢れていて、りん子の帰りを待っているんだろう。
 ちょっと、想像を逞しくしてみよう。ぼくが一緒にりん子の部屋の入ったら、狸たちはびっくり仰天で、身じろぎもしないだろう。でも、縫いぐるみたちにもやがて分るはず。ぼくが、こどもの眼差しを持っていることが。そうさ。こどもにとっては、縫いぐるみも生きているんだから。さあ、どうしよう。そうだ。ぼくはりん子をお姫さまみたいに横に抱いて、部屋の中をくるくる回ってやろう。りん子はきっとコトコトと笑ってくれるさ。少しずつ目が回ってくる。縫いぐるみたちのいのちに、ネジを巻いてやるのさ。初めに反応してくれるのは、年取ったオルガン爺さんかな。つい浮かれて、「証誠寺の狸囃子」のイントロを自動演奏で奏でてくれるだろう。そうなりゃ、ぼくのポケットのハーモニカも敗けてはいない。空中に浮かれ出て、伴奏に合わせるはず。
 じきに、我慢し切れなくなった狸の縫いぐるみたちが、腹堤を打ちながら踊り出してくる。さあ、パーティーの始まりだ。ぼくはもっともっと、りん子を抱いたままくるくる回って……そのうち、床も天井も窓も机もオルガンも縫いぐるみも、上下左右の区別もつかないほどにくるくる回って、めくるめくアラベスクに変容するんだ。目に見える物質の世界を超えて、光輝く愛の極地へ……でもさ、考えてみれば、愛の極地へなんかそんな簡単に到達してはいけないんだ。長い長い時間に醸されて、ようやっと馥郁と香り出るエーテルみたいなものなのかな……そうそう、焦ることなんてない……その前にぼくの足は縺れて、りん子を抱いたまま、縫いぐるみの狸たちが喝采するベッドにもんどりうって……

 それにしても、今日のりん子はどこかおかしい。とにかく、ぼくは埒もない空想を断ち切ると、「じゃあね」と、言った。普段なら、ニコニコ笑って軽く手を持ち上げるりん子なのに、ジッとぼくを見詰めている。何かを訴えているようだ。首をゆっくりと、横に振っているようにも見える。ぼくが空想を切断したことを、非難してるみたいだ。
 と、不意に、りん子が左手でドレスの胸元をやけにつらそうに掴む。あまり目立たない乳房の膨らみが、露になった。眉根を切なそうに寄せ、息苦しそうな表情だ。しかも、その大きな目が、悲しい映画を見た直後のように潤んでいる。
 死が見えるほどに、感動が透き通ってしまった。
「わたしだって……別に……」
 りん子がちょっと反抗的に呟く。ふと、年上のお姉さんになったみたいだ。
「どうしたの?」
 ぼくの方は、多感な少年の気分。りん子は、この瞬間をキリキリと圧縮するように、相変わらずぼくを見詰めたままだ。つい、照れ笑いの表情が浮かびかけるのに、
「……抱いて、わたしを……」
 湿った声で、りん子がポツンとそう言った。晴天の空から出し抜けに落ちてきた、星のかけらみたいだった。それから、いっそ荒っぽくぼくの手を掴むと、グイグイと自分の方に引き寄せるのだ。まるで、ぼくの掌を自分の乳房に押しつけようとでもするようだ。ぼくは万力か何かで胸が締め付けられるような気持ちで、もはや声もなくりん子の無謀に逆らった。それでも、りん子は精一杯の力を出しているみたいだ。ぼくが無意識の裡に手首を捻ったとたん、りん子の顔が歪み、擦れた溜め息のような泣き声が唇から漏れ、ついで大粒の涙が無造作にぼくの手の甲に落ちた。思わず、ぼくの手はりん子の力にあらがえぬままに引かれ、乳房を掠めてその腕を掴む形で落ち着いた。次の瞬間、りん子があからさまにぼくにしがみついてくる。そして、耳に息を吹き掛けるような調子で、
「して……」
 そう囁いたのだ。半分嬉しかった。けれども、半分悲しかった。りん子が、そういう言い方をするのがイヤだった。ぼくはりん子の左のほっぺたの小さなホクロにキスをすると、走って帰った。

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