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ローマで逆立ちして

 久々の更新です。春が終わって、初夏がただいまと帰って来ても良い頃なのに、雨が降ったり、寒くて外に出るのが億劫になったり。そんな時は、先延ばしにしていたこと考えてみませんか。読みたいと思って買った本、観たいと思っていた映画、昔好きだった曲のAメロは覚えていますか?家族や友だちに最近連絡していますか?好きだった人の誕生日、覚えていますか?ゆっくり立ち止まって、引っかかっていたもやもやを考えるのも一つリフレッシュかもしれません。少しでも幸せのおすそ分けができたらと思います。携帯のメッセージもいいですが、やはり私は短くても手紙の言葉が好きです。

 気が付くと私はなぜかローマに来ていた。こじゃれたカフェで、エスプレッソを飲んでいた。おまけに頭に丸いサングラスをのせて。なぜ自分が今ローマにいるのか全く見当もつかない。大きく開かれた窓の向こうには、青以上の青、もはや透明の様な空が辺り一面に広がっていて、息をのむほど美しい横顔を持った人々が通り過ぎていく。一つ向こう側の席では、若くて柔らかいカップルが愛を確かめ合っていて、店の前では、折り返し地点のカップルが体中全部を使って喧嘩をしている。その横では、穏やかな表情の二人が、しわくちゃになった手をお互いにつなぎながら微笑みあっている。

 随分リアルな夢だと、左頬をつねってみるが、痛い。うん、痛い。埃っぽい街並み、歴史の詰まった石畳、愛情の隣で喧嘩する人々、これでもかと言うくらい高い青空と街中を元気づける太陽、間違いない。私は夢でもなく、いまローマにいるのだ。とりあえず、どうやってここまで来たのか、誰と来たのか思い出してみる。きっとローマまでは飛行機で来たし、隣の席には荷物もないから、きっと一人で来たのだと推測する。身なりは、いつもよりも綺麗で、特別なときに選ぶ真っ赤なハイヒールだった。うーん、分からない。なぜ石畳のこの街で、ハイヒールを履き、一人でエスプレッソを飲んでいたのか。そんなことをもやもやと考えていると、そんなしかめっ面してたら、美人が台無しだよ。お代わりは?と真っ赤なブラウスを来た店員に話しかけられた。丁度よくお腹もすいていたので、エスプレッソとビスケットを注文する。やはり、ローマに私は来ているのだ。この街は、一人になることが難しい。いつも誰かが気にかけてくれる。そんなことを懐かしく思い返していた。

 真っ赤なブラウスの彼女にお礼を言って店を出ると、程よく心地の良い風が首元を抜けていった。通りの奥で、色鮮やかな洗濯物が風にのって気持ちよさそうにしている。どうやら、大通りから随分と離れた所にいるらしい。初めてローマに来た時に言われた言葉を思い出す。ローマは不思議な街で、一度入った店をもう一度探すのは難しいの。だから、自分が好きと思ったら行動することが大切なのよ。たまたま隣に座った瞳の大きいすらりとした彼女に言われた言葉だった。確かにこの街は一人で歩くとすぐに迷子になってしまう。大通りなら、見慣れた店やカラフルな看板が目につくが、通りを離れると、淡い石造りの建物で統一されており、区別を付けるのが難しい。あの時、すごく素敵なワンピースのお店があったのに、あとでと後回しにしていたら、見つけられなくなってしまったんだっけ。地団駄を踏んで悔しがったのを思い出す。後悔するならやってしまってからのほうがいい。その時から私はそんな風に考える様になったんだっけなと思い返す。

 歩きなれない石畳をお気に入りの真っ赤なハイヒールで時々躓きながら、適当に街を歩いていると、通りの一番奥を曲がった所に小さな看板があることに気が付いた。薄紫のステンドグラスの看板の下に小さく郵便と書かれている。急いでいたらきっと見つけることのない、好きなように好きな時間を好きなだけ過ごす人にしか見つけられないそんな看板に思えた。扉を開いて店の中に入ると、大きめの籐のかごの中に、黒猫がうずくまっている。私に気が付くと、小さな声でいらっしゃいと鳴いた。店内は埃と古紙と天窓からこぼれる穏やかな陽の光の匂いに包まれており、お客は私だけのようだった。時の流れが止まっている様に感じた。店の棚には、あらゆる時代の切手や便箋、インクなどが置かれている。羽のついたペンや、刺繍の施されたレターセット、レースのメッセージカードもあった。一つ一つ丁寧に見ていると、いらっしゃいと優しく声をかけられた。

「いらっしゃいませ。どんなお言葉をお求めですか?」

 透き通るような優しい声に思わず前を向くと、鼻の上にちょこんと小さな眼鏡をのせた、男性が優しくほほ笑んでいた。肌によく馴染んだアイボリーのシャツにチェックのベストを合わせており、手にはボルドー色の手紙を持っている。

「あ、たまたま通りかかったもので…。」

なんと言葉をかけたらよいのか分からず、手元の手紙に視線を移すと、その人は茶目っ気いっぱいにボルドーの手紙を私に見せ、くしゃりと笑った。目尻いっぱいに皺が広がる。苦労と幸せの積み重ねで刻まれた皺。そんな風に咄嗟に思ってしまう。

「これ、先ほど一人お客様が置いて行かれたんです。ほんの少し年の離れた方に贈る恋文だそうです。ここは、自分の言葉や想いを一から作る郵便局です。ありとあらゆる言葉や想いを届けるための場所です。」

「自分の言葉や想いを一から作る郵便局…?」

「ここに来られるお客様は、様々な事情をお持ちです。好きな人がいたり、強い後悔をお持ちの方、両親に手紙を書きたい方、もちろんサンキューカードやバースデーカードを書いて行かれる方も多いですよ。あ、中にはご自身に手紙を宛てた方もいらっしゃいます。何か新しい決断をするとかで。」

 そう言って彼は、カウンターの奥に並べられた何千通もある手紙の中から、レースで縁どられた真っ白の手紙を取り出し、見せる。インクはとうに掠れており、白い便箋も所々黄色く変色し始めている。随分と前に書かれたものなのだと推測する。

「この手紙は、あと5年したらニューヨークのとある番地に届けられます。いつ届けるのか、誰に届けるのか。それとも届けないのか。全て自由です。ここはそんな郵便局なんです。」

「届けないことも出来るんですか?」

「ええ、すべて自由です。取りに来ることも可能です。ただ、この郵便局は私の機嫌で開きますから、取りに来たいときに取りに来ることができるかは、あなたの運しだいになりますけどね。」

 そう言ってまた茶目っ気いっぱいに笑うと、彼は、引き出しからレターセットとメッセージカードを取り出して私に見せた。訳の分からぬまま、でも居心地が悪いわけでもなく、目の前で穏やかに話す彼になされるがままに、私は、武骨な木の椅子に腰かけ、目の前に並べられたレターセットをメッセージカードを見つめていた。

「さて、私の長年の感が当たれば、今あなたは誰かにもしくは自分自身に必要な言葉を探しているように思えます。明日からほんの少し長く店を閉めようと思っていたんですよ。あなたは強運の持ち主ですね。さて、お好きなだけいらして下さって構いませんよ。私は奥で待っていますから、終わったら声をかけて下さい。」

 ゆったりとした動作で、インクとペンを金の金具のついた棚から取り出す。そして、ポットの蓋を開ける。レモングラスの爽やかな香りが鼻先を包んだ。薄桃色の猫の絵が描かれた小ぶりのカップにハーブティーを注ぎ、アーモンドのついたクッキーをソーサーに乗せると、また目尻に皺を寄せて、店の奥に消えていった。


 店内は、驚くほど静かでそれでいて優しかった。取り残された私は、目の前に並べられた色とりどりの紙に目を移した。手紙なんていつぶりだっけ。小学生?いや中学生?メッセージカードなんて最後に書いたのいつだっけ?ラベンダー色の便箋を手に取り、右下にはバラの刺繍が付いている。この便箋で手紙を届けたい人は誰だろう。お母さんかな?でも、この間会ったばっかりだし、連絡もマメに取ってる。水色の便箋はスズランの模様が散らばっている。これは、あーちゃんかなと思い浮かべる。大学時代からの親友で、今年思い切って転職を考えている。人の話を聞けて、心の根っこの部分をしっかり考えられる自慢の親友だ。でも、まだ私の言葉はいらないはず。あーちゃんは自分が思っているよりも強くて、ちゃんと柔らかい。

 一番端っこに置かれた、飾り気のない若草色のメッセージカードを手に取った。左下に金色のペンでお誕生日おめでとうと書かれている。バースデーカードか。今月誕生日の人って誰かいたかな、と思いを馳せる。お気に入りのハンドバックから手帳を取り出し、ページをめくると、小さく修正テープで消された日付を見つけた。あ、そういえば。すっかり忘れていた。抜け落ちていた。いや、正確には意識して抜け落としていた。白く塗りつぶされた、予定されていた文字を指でなぞる。元気にしてるかな。ちゃんと朝起きられてるかな。こんなこと考えてるのはきっと私だけなんだろうなと思いながら、小さく笑う。

 昔から誰かの誕生日を覚えるのは苦手だった。会話とか好きな食べ物とかを覚えるのは得意なのに。今でも親友のあーちゃんの誕生日を一か月も忘れるし、お母さんの誕生日は2、3日づれる。幼馴染の誕生日は、たぶん2年に1回だし。正確にその人にメッセージを送ったためしがない。けれど、何でもない日が、日常の一つ一つは大切にしていたつもりだった。でも、伝わってなかったんだな。後悔はしていない。けれども、もっとその先にある何でもない日を一緒に過ごしたかったなと思うのだ。まだ見ぬ時間を、一人では持ちきれない時間を、一緒に過ごしてみたかったなと思うのだ。

「よし、思い切って書いてみるか。」

 着ていたシャツの袖を肘までまくると、私は、羽のついたペンを手に取り、飾り気のない若草色のメッセージカードに想いを色づけていった。


「すいません、お願いします。」

 久しぶりに、ペンを握ったら、何を書いたら良いのか分からなくなっていた。何度も書き直して、その都度彼をカウンターの奥から呼んで、新しいメッセージカードを出してもらって。何杯ハーブティーを飲んだのだろう。いくつアーモンドを食べたのだろう。長く見ないふりをしていた想いを一から作るのは難しい。複雑に絡まった糸を解く作業は、途方に暮れるし、面倒だ。けれども、案外考えてみると面白いところもあったりする。逆立ちするみたいに今まで見たことのない風景が頭の中に流れ込んできたりする。天窓からは、橙色の光のカーテンが出来ていて、外は夜の匂いが漂い始めていた。随分と時間が経ったようだ。

「お疲れさまでした。最後に、一つ私からのプレゼントです。」

 嫌な顔一つせずにまたくしゃりと笑い、真っ赤なロウに火をつけて、メッセージカードを入れた封筒にロウを落とし、刻印を押して封をした。独特なロウの匂いが鼻先をくすぐる。どこかで嗅いだことのあるような、懐かしくてしっかりしていて、それでいて少しとっつきにくい、そんな匂い。

「うわ、映画とかでしか見たことないです。このロウで封をするの。写真撮っていいですか。」

「どうぞ、どうぞ。最近の方は、携帯を使うことが多いですね。でも、本当の気持ちは、10秒で送れないし、10秒で消せない。ゆっくり時間をかけて完成させる。その完成させた言葉が短くても、長くてもいいんです。完成してなくてもいいんです。ペンと紙は、私たちに沢山のことを教えてくれます。無駄な作業だと思われがちですが、気持ちを整理するのってとても大切なことなんですよ。」

 手に持った携帯の画面に視線を落とす。そういえばあの子と話したのも携帯だったな。あっという間に積み上げていた思い出が消えたことを覚えている。ボタン一つで終わっちゃうんだと切なくなったことを思い出す。でも、本当のところ10秒で消えないし、まだ残っていたんだ。若草色のメッセージカードにのせた想いはあの子には届かないけれど、私の中で、絡まった糸は解けたのだと言い聞かせる。またいつか素敵な人が現れて、自分が傷ついたように、その素敵な人を傷つけないように、幸せに今を生きるのだ。誰よりも幸せで、そして、その素敵な人に与えるのだ。あの子にしてあげたかったことを、一緒にしたかったことを。沢山のあふれるばかりの幸せを。わがままだと言われるかもしれないけれど、今私に出来ることは、毎日を楽しく幸せに生きること。それだけなのだ。何となくだけど、私がローマに来た理由が分かった気がした。うん、何となくなのだけれど。まだ、逆立ちしている気分だけど、いつかきっと正しい向きで答えを見つけられる時が来ると思うのだ。

「さて、お届けになりますか。それともここにおいて置きますか。」

「置いていきます。」

 手紙を書いたら届けなくちゃいけない。今までそんな風に思っていた。けれども、いろんな形がある。宛先のない手紙、自分宛ての手紙、自分勝手な手紙、相手ばっかり想っている手紙、相思相愛の手紙、感謝の手紙…。私のこのメッセージカードはまだ私ばっかりだ。だから、置いていく。いつか届けようとも思わない。ずっとこのまま、ここで永遠に残る。でも、この解けた糸を、今度は違う誰かと一緒織るのだ。今度は、丁寧に素直にそして大胆に。後ろを向いたって、あるのは私が今まで歩いてきた思い出だけで、これからの未来が変わるわけじゃない。あの子が幸せでいてくれたらいいなんて、そんなこときれいごとでしかない。私がいま向き合うべき言葉は、そんなきれいごとじゃないのだ。

 店内に流れていた有線から、奇遇にもお気に入りの曲が流れだす。someday my prince will comeだった。さて、優しくて甘い復讐を決行しよう。

「私、この曲すごく好きなんです。」

「そうですか。真っ赤なハイヒールよくお似合いですよ。でも、石畳には不向きだから、通りに出たら誰か素敵な人が手を貸してくれるかもしれませんね。」

「ええ、そうなるかなって思って、履いてきたんです。幸せになろうとおもって。」

 とびっきりの笑顔で、さようならと小さく手を振る。街中に緊張のほぐれた夕方の心地いい色が溢れ返っている。店先からは楽しそうにグラスをぶつける音が、笑い声が。斜め後ろの方から、お嬢さん、歩きにくそうだから手を貸しましょうかと声が聞こえる気がする。

 遅れたけれど、お誕生日おめでとう。勝手にお幸せに!若草色に乗せた想いは、どこへ向かうのだろう。うん、知ったこっちゃない。どうぞご勝手に。ほんの少しだけ色っぽくなった街の景色に、私は溶け込んでいく。いつもよりもはっきりとした輪郭を添えて。



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