誰そ彼

人生で立ち止まるとき。前を向くのがつらくなったとき。たまに思い出します。誰そ彼。夜と昼が混ざり合う。そんな時自分が誰か分からなくなったりならなかったり。少しでも心が軽くなればいいな、と思います。春ですね。長めです。夜のお供にどうぞ。

人生って誰かの日記みたいなもんだよ。
 学生の頃、アルバイト先の居酒屋で、常連客にこう話しかけられたことがある。なぁ、お姉ちゃん、人生って誰かの手帳みたいだって思わねぇーが。
進学先は、遥か北にあった田舎の大学で、その日は、いつもよりも深く深く雪が降っていた。実際の所は、こんな酔っぱらいの戯言に付き合っていられるか、と思いつつも、ぐいっと手首を捕まれてしまったため、あいにく帰ることが出来なくなっていた。
なあ、お姉ちゃんよ、人生って、日記みたいだべ、そう思うべ。
私の表情などお構いなしに、彼はネクタイを少し緩め、私が丁度持ってきていた熱燗をお猪口に注ぎ、ぐいっと飲み干した。そして、言葉の続きをこんこんと語り始めたのである。
あるページには、夢が綴ってあってさ、かと思いきや次のページには、その日の愚痴が書いてあんの。そんなもんなの。人間さ、ずーっと同じことなんて言えねえべ。自分が思い描いているようには、進まねぇんだ。だがら、他人の日記なの。自分の心の中さある大事なもんから、でっかく離れないように歩いて行けばいいの。な、分かるべ、言いだいごど。んだがら、人生って日記みたいなものなの。たった一日で、書いてる内容が変わってしまうような。何が起こるか分かんねぇ。な、そんなもんなの。
すると、その男の話を同じように聞いていた周りの同僚たちの一人が、じーんせぇーえーえーてー、えーえー、ふしぎーぃーな、ものでーすーねぇー、とかの有名な一節を歌い出したため、その場は、どっと笑いで溢れ返り、私の手首を掴んでいた男も同じように笑っていた。


人生って誰かの日記みたいなもんだよ。
 その日の帰り道、私は、何故か彼が言った言葉をぐるぐるとただひたすら考えていた。辺りは、とうに静まり返り、雪は、止むことなくしんしんと降り続いていた。綺麗な空気だった。店を出る時に、靴下を二枚履きしたのも虚しく、安売りで買ったブーツは、驚くほど底冷えしていた。早く帰りたいと思ってはいたものの、どうしてもその言葉が引っかかり、一人、家の近くの公園で雪踏みをしながら悶々と考えていた。幸いにも、私は冬の夜が好きだった。
人生って誰かの日記みたいなもんだよ。
キュッ、キュッ、キュッと雪の音が聞こえる。小さい頃、雪踏みをするたびに、雪が痛くて泣いているのだと思ったものだった。だから、出来るだけ雪が痛くないようにそっと歩いたものである。今では、そんな風に歩くことはないが、誰もいない真夜中の夜に、一人で女の子が下を向いて、ぐるぐる歩き回っている光景は、はたから見れば異様だったであろう。


人生って誰かの日記みたいなもんだよ。


 同じところをもう一度雪踏みする。ブーツの裏の模様がくっきりと浮かび上がる。センター試験をことごとく失敗して、嫌々大学に通っていた私にとって、思いつきできっと声をかけたであろう男の言葉は、ほんの少し重たいものだった。人生って誰かの日記みたいなもんだよ。その日、私は懲りることなく、手足がじんじんとしもやけになるまで、ずっとその言葉の意味について、雪踏みをしながら、考えていたのであった。

 久方ぶりの故郷での最初の出来事は、恩師の葬儀だった。丁度、来月まで仕上げなければならない原稿に取りかかっていた時だった。台所で夕飯の支度をしていた母が、エプロンで手を拭きながら、こう私に言った。綾瀬、池田先生亡くなったって。あんた、喪服持ってるの。私は、母の唐突な物言いと、突然すぎる訃報に状況がまったく吞み込めず、数珠だけ持ってない、と口だけで答えた。死は、突然やってくる。音もなく、ただゆっくりと着実にやってくる。いつか、私にも、やってくるのだろうか。死神がにっこり微笑んで、私の手を優しく引いていく。私が死んで焼かれた後、何が残るのだろう。最後の日、私は、一体誰の瞳を見上げるのだろう。


「恩師である池田先生に初めて出会ったのは、私が小学校三年生の時でした。ちょうど、同級生だった林君と殴り合いの喧嘩をしていた時でした。」
 小学校六年間同じクラスで、中高もずっと一緒だった池松が、生徒代表で池田先生に最後の言葉を贈っていた。池松は、高校卒業後、地元の大学に通い、今は、地元の病院で働いている。母親同士、仲が良いため、マメに池松と連絡を取らなくても、池松に関することはほとんど筒抜けであった。池松は、今年の六月に結婚するらしい。相手は、まさかの地元の小学校の先生だった。小学校の教師対抗リレーでじん帯を損傷した彼女のリハビリ中に出会い、三年の交際を経てのゴールインらしかった。周囲は、やれ女医だの、やれ看護婦などを想像していたため、だいぶ呆気にとられた様子だったらしい。


「林君に最初に殴りかかったのは、私でした。先生は、なぜ喧嘩をしてしまったのか、なぜ殴ってしまったのかを丁寧にゆっくり聞いて下さいました。そして、私の手を取ってこうおっしゃいました。君の手は、どんどんこれから大きくなる。どんどん力も強くなる。これからは、殴るのではなくて、違うことに使いなさい。私達の手は、誰かを傷つけるためにあるのではなく、誰かに救いを差し伸べるためにあるんですよ、と。私は今、理学療法士として、二つの手を患者さんのために使っています。」
 池松が、涙声で手紙の続きを先生に届けていた。池松の涙につられて、何人かの生徒や先生の親戚も涙を流していた。そうか、私達の手は、誰かに救いを差し伸べるためにあるのか。当たり前のことにはっと胸を突かれた。数珠を持った手のひらに視線をそっと落とす。池松の左手の薬指には、今年の六月なれば、幸せの象徴が光るのだろう。きっと今以上に池松は、仕事に精を出し、守るべきものを守りながら立派な父になるのだろう。私の左指には、いつになったら幸せの象徴が光るのだろうか。
「先生、池田先生。私は今、池田先生の言った言葉を守れているでしょうか。きちんと誰かのために救いの手を差し伸べることができているでしょうか。」
 池松のお別れの言葉がクライマックスに差し掛かり、いよいよ会場は涙の嵐となっていた。池松はもう、泣いていた。我慢することなく目から溢れ出る涙をだだ流しにして、残りの言葉を一つ一つ噛みしめながら心の底から伝えていた。
 そんな池松を見て、私はただ冷静に池松と私の違いについてぼんやり考えていた。小学校から高校までずっと一緒の道を歩いて来たのに、どうしてこうもまた面白いほどに私達は違うのだろう。池松は、俗にいう世間一般の幸せを手に入れていた。私はどうだろう。断片的に、二年前のあの頃の記憶が浮かぶ。幸せの象徴がいなくなった原因は、私自身だったのだろうか。それとも、彼だったのだろうか。


人生って誰かの日記みたいなもんだよ。


 やっぱりそうなのだ。昨日まで幸せだったのに、今日になったら一変している。幼いころに思い描いてた理想の私じゃない。子どもの頃、大人になるってもっと素敵なものだと思っていたのに。認めたくないと思いつつも、やっぱり人生は、誰かの日記みたいなものなのだ。

「お前、どうなんだよ。最近、こっち戻って来たんだって?売れっ子の作家がこんな所にいて大丈夫なのかよ。」
 ほんの数時間前まで、手紙を読んでわんわんと泣いていた池松は、ビールを片手に私の隣へ戻って来た。どうやら、幼馴染の隣が一番落ち着くらしい。古女房みてぇなもんだからな、お前は、と並々コップにビールを注がれながら、バシバシと背中を叩かれる。池松は、私が作家として売れ始め、テレビで扱われるようになった今でも仲良くしてくれている数少ない友達の一人だ。と同時に、生涯大切にしたい友人の一人でもある。
「まあ、顔出ししてる訳でもないし。本名で活動してないから、大丈夫だよ。ただ今書いてる小説、あんまり売れ行きが良くなくてね。もしかしたら、番宣で顔出ししなくちゃいけないかもしれないんだけど……。」
「出たくねぇのか。」
「うん。」
「前もそんな話あったよな、母ちゃんから聞いてたわ。最初の小説で賞とった時、主演の話もあったんだろ?お前が書いた話を、お前が演じるってやつ。でも結局断ったんだろ、もったいねぇーよな。もしかしたら、大女優の仲間入りだったかもしれないのにさ。」
「だって私、物書きだもの。言葉を紡ぐ職業してるんだもの。」
「お前が嫌ならしょうがないけどさ、新しいことするのも大事よ。まあ、俺の好きな女優さんでお前の小説映画化されたから、俺は満足だったけどね。」
 池松は、グラスの底に十センチほど残ったビールを一気に飲み干し、目じりに皺を寄せながら、大きな声で笑った。どうやら、池松は、酔いが回って来たらしい。池松は、笑い上戸の様だった。
「そうゆう池松はさ、最近どうなの。お母さんから、今年の六月に結婚するって聞いたけど。」
「ああ、今年の六月に結婚するよ。もう、三年ぐらい経つのかな、一緒に結婚資金貯めてたんだ。」
もっと楽し気に話すのかと思っていたのに、当の池松は、冷静に、と言うよりもほんの少し寂しげな表情で、淡々と私に語ってくれていた。
「もしさ、仕事とかなかったら、お前も来いよ、結婚式。実は、あいつ大ファンなんだよ、お前の。」
「そうなんだ。考えておくね。」
「おう。」
 池松は、そっと肩に手をのせると、ちょっとタバコ吸ってくるわ、と言って席を外した。池松は、私と違って嘘をつくのが下手だ。池松は、タバコの煙が大の苦手なのだ。でも、どうして池松は、私に嘘をつく必要があったのだろう。


 私が好きだったあの人は、嘘をつかれるのが嫌いだった。好きになった人には、嘘をつかれたくない。それが彼の口癖だった。だから、私は、精一杯自分の感情に素直になるように心がけたし、彼には、出来るだけその時の気持ちに近い言葉を選んで話すように心がけた。しかし、どんどん二人の関係が親密になっていくにつれ、どうしても隠さなくてはいけない気持ちが生まれてしまった。今なら、きっと綺麗に飲み込んで、彼に伝えることが出来るのだろうが、あの時は、どうしても出来なかった。彼が好きな自分でいることで精いっぱいだったのだ。だから私は、出来るだけ本当の気持ちに見えるように、上手に嘘を重ねて、彼の好きな私を演じたのだ。彼を傷つけていたなんてことも知らずに。
 もしかしたら、大女優の仲間入りだったかもしれないのにさ。さっきの池松の何気ない言葉がふと頭の中をよぎった。きっと私は、上手くやれたと思う。好きな人を想う気持ちさえ、偽って、上手く演じていたのだから。私は自分の気持ちに嘘をつくのが上手だった。哀しいほどに上手だった。


「あれ、永作さんじゃん。久しぶり。」
 聞き覚えのない言葉に顔を上げると、そこには、いやに不機嫌そうな池松と丸眼鏡のほっそりとした印象の男が立っていた。永作さん、と声をかけてくれたと言うことは、きっと同級生なのだろうが、記憶の糸をいくらたどっても、どうしても思い出せなかった。それと同時に、なぜ池松が不機嫌そうな表情をしているのか皆目見当がつかなかった。
「いや、委員長がさ、どうしてもお前に会いたいって言うからさ……。」
池松が、私の表情に気づいて助け船を出してくれていた。
「柏木くんか。随分、雰囲気変わったね。久しぶり、元気にしてた?」
 柏木くんに気づかれないように、池松にありがとうと視線を送ると、池松はいつものように下手すぎて両目をつぶってしまうウインクをしてくれた。それからか、私の隣に座ろうとしたのだが、不自然なくらいに柏木くんが、大げさに荒っぽく私の隣に座った。なんだか、嫌な予感がした。
「そんなに雰囲気変わったかな、俺。」
 強引に私の隣に座った柏木くんに、池松が珍しくあからさまに嫌な顔をしていた。池松を視線で追うと、面白くなさそうな顔で、柏木くんの隣に腰かけていた。その動作は、まるでドスンと音が聞こえてきそうなくらい分かりやすいものだった。そうだ、池松は、柏木くんが昔から嫌いだったんだった。嫌な予感は見事に的中した。
「変わった、昔はもっと、こうなんて言うか……。」
「もっと、気配りが上手だったよな。」
 池松が、明らかに不機嫌そうな声で柏木くんには一目もくれずに、正面を向いて、テーブルの中央に置かれた刺身に手を伸ばした。小鉢に入った醤油がテーブルに飛び散る。
「なんだよ、池松。少しぐらいいいだろ、永作さんの隣に座ったって。昔から、ずっと一緒だろ、高嶺の花の永作さんとさ。もう会えないかもしれないんだしさ、今日ぐらい隣、譲ってくれよ。」
「別に、綾瀬の隣に座りたかったって訳じゃねえよ。」
あ、池松本当に怒ってる。池松が、私のことを下の名前で呼ぶときは、怒っている時か、馴染みの友達と一緒にいる時だけだ。と言うのも、中学の時、いつものように私のことを綾瀬と呼んだ池松が、クラスメイトに、お前、永作さんのこと好きなのかよ、と思春期ならではの出来事でからかわれた経験があるからだ。その日の夜、池松はほんの少し気まずそうな表情で、俺、これから綾瀬のこと、永作って呼ぶからと言われたのだった。私はその時、なんだか寂しい気もしたけれど、じゃあ、私もこれからは、池松って呼ぶね、と言ったのだった。
「じゃあ、なんでそんなに怒ってんだよ。」
「委員長に関係ねぇだろ。綾瀬と喋ってろよ。」
「なんだよ、全く。まだ、あの時のこと根に持ってんのかよ。」
 柏木くんの表情の向こうにいる池松を見ると、池松は、黙々と刺身を食べ続けていた。相当嫌なのか、池松は、自分の大嫌いなマグロまで食べようとしていた。あれ、なんでこんなに池松、柏木くんのこと嫌いだったんだっけ。ひどく蒸し暑い、熱帯夜の日に、確かスイカを二人で食べながら聞かされた気がする。柏木くんがいかに悪いやつで、どんなに最低なやつかを。
「持ってねえよ。別に。」
「あの時のことって?」
「夏祭りだよ。学生最後の夏祭り。覚えてない?永作さんと二人で最後に花火見たじゃん。」
「あれ、そうだったっけ……?」
「そうそう、最後の花火さ、みんなで一緒に見ようってなったんだけど、途中ではぐれちゃって、最後に俺と二人っきりで見たの覚えてない?」
 少し距離の近い柏木くんの顔に愛想笑いを送ったあと、どうしても思い出せなくて、池松にさりげなく視線を送った。それに気づいた池松だったが、心底嫌そうな顔で眉間に皺を寄せ、また刺身を食べに戻ってしまった。
「ごめん、覚えてないや。池松と一緒に行ったことは覚えてるんだけど。」
これ以上、池松の機嫌を損ねたくなくて、当たり障りのないように言葉を選ぶ。本当は、夏祭りに行ったことすら覚えていないのだが。
「えー、本当に……。あはは、参ったな。俺にとっては、一世一代の決心だったんだけどな。本当に、覚えてない?」
「ごめん、覚えてないや……。」
「俺、永作さんに告白したんだよ。気持ちいいくらいに振られちゃったんだけど。」
「あ……。そうだったね。あの時、恋愛とか興味なかったから。」
後付けの様に言葉を繋げてから、私は、遠い昔に行った夏祭りの様子を思い浮かべていた。

 相変わらず銀縁の眼鏡をかけた柏木くん、池松とおそろいで履いた下駄、白地に桔梗柄の浴衣、それから、お母さんに貰ったヒスイのかんざし。そうだ、最後の夏祭りの日、池松と一緒に、学校が閉まるまで一緒に勉強して、それから夏祭りに行こうって約束してたんだ。そしたら、たまたま同じように図書館で勉強してた柏木くんに、僕も一緒に行ってもいいかなって言われたんだった。そうだ、夏祭りの後、ひどく池松が機嫌悪くて、お詫びに一緒に、線香花火をうちの縁側でしたんだっけ。毎日、人の流れに呑まれては、泳いで、必死で息継ぎをしている間に忘れた記憶が、夏祭りの時の湿った匂いとともに蘇ってきた。
「俺、あの時はさ、てっきり、池松と永作さんがくっつくんだって思ってたんだ。だって、どこからどう見てもお似合いだったし、俺が入る隙もないって思ってた。けど、こんな風にさ、今ね、永作さんに話してるけど、あの時、どうしても永作さんに振り向いて欲しかったんだ。強引に奪ってでも、君が欲しかったんだよ。」
 君が欲しかったんだよ。目の前には、学生時代と同じように、細い銀縁の眼鏡をかけた彼が、優しくほほ笑んでいた。目尻にうっすら皺が広がっている。君が欲しかったんだよ。柏木くんの台詞をもう一度唇で繰り返す。それから、私は、そんな柏木くんの表情を見て、少しだけ羨ましくなった。柏木くんは、もうあの時の柏木くんじゃない。柏木くんは、もう持っている。もう、持っているのだ。今の私にとても必要なものを。どうして、君は、昔好きだった人に、そんなに穏やかな表情を向けることができるの。ねえ、どうして。どうしてなの。私は、きっと、いや二度とあの人と穏やかな気持ちで会うことができない。もう、怖いのだ。あの人をくっきりと思い出すことが。


 あの時、何もかも上手くいっていると思っていた。でも、私達の世界は、音もなく足元から崩れ落ちていった。まるで、死と一緒だ。突然やってくる。何もかも奪っていく。音もなく、ただゆっくりと着実にやってくる。最後の日、私は、一人でがらんどうになった部屋に体育座りをして、朝が来るのをただ待っていた。朝が来たら、あの人が帰ってくるのではないかと思ったのだ。でも、あの人は、太陽が真上に昇っても、二度と私の元には帰ってこなかった。
 あの人は、私を必要としていたし、私もあの人を必要としていた。あの人は、私なしでは、生きていくことができなかった。でも、いつの間にか、一人で靴下の在りかにたどり着くこともできるようになっていたし、私じゃない誰かの香水を平気でまとうようにもなっていた。私は、彼の変化に気づかなかった。いや、気づけなかった。今日が何日なのか、何曜日なのかもあやふやな毎日の中で、彼のサインに気づけなかった。きっと仕方がなかったのだ。
 二人のもつ歯車は、ピッタリと寄り添いあっていた。隙間なんて一つもなかった。そして、あの人は、私の胸の中で、全てを預けて、眠っていた。そう思っていた。でも、それは、私だけが思っていたことだった。今となってみれば、きっと、彼が私の中から絶対に逃げていかないと、安心しきっていたのかもしれない。そして、その優越感に浸りすぎたのかもしれない。あの人は、私の胸の中ですくすくと成長し、新しい幸せの象徴を手に入れた。そして、私は、一人ぼっちになった。ねえ、本当に仕方がなかったの?


「ったく、歯の浮くような台詞言いやがって。むかつく。綾瀬の隣は、俺なの。お前じゃねーの。ほれ、どけ、どけ。」
 つい、いつもの悪い癖で、ぼんやり昔のことを考えていると、珍しく酔いが回ってきたのか、池松は、柏木くんよりも強引に私の隣へ座りこんだ。その状況を見ていた仲間たちが、池松、そろそろ永作から卒業しろだの、幼馴染以上恋人未満か、なんて茶々を口々にいれられていた。
「俺はさ、ずっと綾瀬が一番だよ。」
 池松が、今にも消え入りそうな声でぼそりと下を向いたまま呟いた。思ってもみなかった池松の言葉に、耳を疑う。一番ってどうゆうこと?視線を向けた先にある池松の横顔は、今までに見たことがないくらい落ち着いていた。何を思っているの?心の奥の奥がざわざわと音が鳴って騒がしい。まるであの時みたいだ。あの人に、唐突に別れを告げられた時みたいだった。
「え……。」
 怖くて、次の言葉が見つからない。私は、私は、もしかしたら一番大切な人をあの人みたいに、無意識で人のことを傷つけて、平然と笑っていたの?
「俺は、綾瀬がずっとずっと一番だったんだよ。」
そう呟いて、彼はそっと私の頭の上に手のひらを置いた。深くうつむいた池松の顔は見えない。膝の上に置かれた右手は、居場所を求めるように閉じたり開いたりしていた。池松に届ける言葉が見つからなくて、肩に手を伸ばそうとした瞬間、思っても見なかった声が降ってきて、私は、勢いよく後ろを振り返った。
「あれ、綾瀬?」
「新藤さん……。」
「久しぶり。まさかこんなところで会うなんてね。」
そこには、あの人が立っていた。喪服に身を包んだ、あの人、新藤さんが穏やかな表情を浮かべて、そこにいた。
「綾瀬かなって声が聞こえて。池田先生と知り合いだったんだね。」
「あ、小学校の頃の担任だったんです。」
「あ、そうなんだ。池田さん、僕のお店の常連さんだったんだよ。それで、この間、奥さんから連絡を貰ってね。綾瀬は元気にしてた?」


 もっと、取り乱したり、怒鳴ったりするのかと思っていたのに、私は、驚くほどに冷静だった。哀しいくらいに冷静で、頭できちんと会話をしていた。もしかしたら、心のどこかで、二度と会いたくないと思いつつも、準備をしていたのかもしれない。新藤さんと会う準備を。約二年ぶりに会った新藤さんは、どこが変わったのか、言葉では上手く言えなかったが、何かが決定的に欠けていた。新藤さんを形作る何かが欠けていた。


「相変わらずです。」
「相変わらずか……。さすがだな、綾瀬は。あの頃と全然変わらないな。」
 全然変わらないな。目の前の新藤さんをゆっくりと見つめ返す。全然変わらないな。変わったよ、変わったんだよ、新藤さん。あなたがいなくなって随分と色々なことが変わったのよ。何度、足踏みを繰り返していたことか。心の中に沸き起こった本当の気持ちが、言葉になる前に飛び出てきそうで、思わず左手で口を覆った。それから、唇の両端を均等に持ち上げた。皮肉の一つでも言ってしまおうと思っていた時、新藤さんの口から思ってもいなかった言葉が飛び出した。
「俺も、相変わらずです、って言ってみたいな。綾瀬みたいに。羨ましいよ。」
「え……?」
「自分の道を迷わずにずっと走り続けていられる綾瀬みたいになれたらな。」


 新藤さんの台詞に、思わず思考が止まる。二年前の新藤さんは、人を羨ましがることは一度もなかった。新藤さんの口癖は、目標の人は作らない。目標の人を作れば、その人を一生超えることが出来ないから。目をキラキラさせながらそんな風に言っていた新藤さんは、よく見るとくたびれたワイシャツを着ており、顔には幾つかの深い皺が刻まれていた。体も一回り小さくなった気がする。そんな新藤さんを見て、先ほど感じた違和感がカチリと音を立てて、いつもの正しい場所に戻った。あ、情熱だ。新藤さんが二年の間に無くしてしまったものは、情熱だった。自分の行くべき所に対する揺るぎない情熱。マグマの様にドロドロとした情熱。新藤さんに欠けているのは、紛れもなく情熱だった。
「新藤さんが人のことを羨ましがるなんて、らしくないですね。」
「え、そうかな。」
「そうですよ、だって……。」
 少しだけ、追い打ちをかけたくなったが、言葉が詰まってしまった。目の前の新藤さんは、小さく丸まっているように見えた。まるで、行き場を失ってしまった鳥のように。あんなに強く心に決めていたのに。もし新藤さんに会ったら、彼が謝るまで、嫌いな言葉を浴びせてやるとあれほど決めていたのに。可笑しいな。どうして、新藤さんを励ます言葉を探しちゃうんだろう。
 今なら、あの頃みたいに、新藤さんを腕の中に引き留めておくことが出来るかもしれない。あるいは、私にまた全てを預けてくれるかもしれない。生まれたての赤子のように。けれども、けれども。もう、私が好きだった新藤さんじゃないのだ。もう、目の前で小さくほほ笑む新藤さんは、私が好きだった思い出の中の新藤さんじゃないのだ。情熱を忘れた新藤さんはもうあの時の新藤さんじゃない。

 人生って誰かの日記みたいなものだよ。

 あの時、雪がしんしん降っていた日に、聞いたこの言葉。人生って誰かの日記みたいなものだよ。ああ、そうか。新藤さんも、遂に立たされたのだ。前を向けと、前を向いて進めと暴力的なくらい言われるこの世界で、ただ目をつむってその場に立ちすくんでしまう状況に。このままで生きていていいのかと涙が止まらない瞬間に。悲しみと狂気の間に潜む、恐ろしいほど静かな空間に。休むことさえ罪の意識に感じてしまう時に。あの驚くぐらいぐんぐん前に進もうとしていた新藤さんでさえも、きっと自分の力ではどうしようもない状況に立たされたのだ。私だけじゃなかったのだ。大きくて硬くて、冷たくて不愛想な大きな岩が、パンっと鮮やかな音を立てて抜けていくのを感じる。私、これでいいんだ。私の気持ちを長い間、せき止めていた彼でも立ちすくんだのだ。
「新藤さん、私、なんだか今日の新藤さんを見てすっきりしました。」
「え……?何いきなり言ってるの。綾瀬、酔っぱらったの?」
 不思議そうに私の顔を見つめる新藤さんに、穏やかにほほ笑み返す。私、きっと初めてだ。新藤さんに、こんなに自然にほほ笑みことが出来たのは。彼は、困ったように眉を八の字に曲げていた。これでいいんだ。窓から薄暗くなった外が見える。そうだ、雪踏みをしよう。これが終わったら、あの時みたいに雪踏みをしよう。もう春が近いから、雪は、あの時みたいに泣かないけれど、もう一度だけ雪踏みをしよう。それから池松にあの返事をきちんと返そう。長くかかってもいい。きちんと逃げずに気持ちを伝えよう。池松の岩に私はなりたくはない。

人生って誰かの日記みたいなものだよ。
周りからは、ガヤガヤした話し声や、ビールを注ぐ音、それから大声で互いに笑いあう声が聞こえる。音は、混ざり合って離れての繰り返しだ。柏木くんは、向かいのテーブルでほかの仲間とビールを飲んでいる。池松は、私から少し離れた所で、誰かの話を聞いている。視線が私とぶつからないように気を付けながらも、私と新藤さんを気にかけている。新藤さんは、目の前でますます困った顔をしている。それから、私は。隣の窓には、背筋をきちんと伸ばした私が映っている。いつもよりも、ほんの少しだけ自信を持った私の横顔がきっとそこにある。
誰かの日記でいいのよ。それでいいの。久しぶりに大きく息を吸い込むと、あの時みたいに、キュッ、キュッ、キュッと雪の楽しそうな音が聞こえたような気がした。
FIN


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