触れたい隙間

アネモネに名前だけ登場した「旬くん」出てます。越谷花屋一家、お気に入りで一気に書き上げました。幼馴染って難しい。でも、実際の幼馴染はびっくりするほどプレーボーイでした。現実は小説よりも奇なり。長めです。


 —私の好きな人は、誰かの好きな人—
  そんないわゆる恋のキャッチフレーズが隣の部屋から壁を伝って聞こえてくる。妹がまた大音量で映画の予告を見ているようだ。妹は最近、好きな人と夏祭りに行くとかでうかれている。だらしなく肩ではねた髪の毛は、今や鎖骨あたりまで伸び、ここ最近は、毎日お風呂場で、夏祭りに向けて髪型の練習をしている。今朝は、母と二人で浴衣を見に隣町に出かけて行っていた。昨日の夜は、お化粧を教えてほしいと部屋をノックされた。いささか心配である。


「かおちゃん、また映画の予告か何か見てるみたいだね。恋する乙女だなー。」
  思わず背後から声が聞こえて、椅子ごとひっくり返りそうになる。後ろを見ると、うちわを片手に窓から入ってきた幼馴染がひらひらと手を振っていた。夏の匂いがする。
「あーのーさー、渚、頼むから、普通に玄関から入ってきてくれるかな。毎度毎度びっくりなんですけど。」
「だって、こっちのほうが楽なんだもん。」
「楽なんだもん、じゃないでしょうが。もし仮にあたしが着替えてたらどうするのよ。」
「え、ラッキーすけべ?」
  そう言った幼馴染の頭を履いていたスリッパでひとつ叩く。パスっと空気を切る音が聞こえる。あれ、こいつ、こんなに背高かったっけ、とふと思う。どんどんこの幼馴染は、最近、私の知らないところで変わってしまっている気がしてならない。でも、当たり前なのかもしれない。もう私たちは子供じゃない。
「痛いよ、もう。いま心も痛いんだから、あんまりいじめないでくれる?」
「あ、くるみさん?」
「そう、僕の可愛い、可愛い元彼女のくるみちゃん。」


 そう言って、渚は、ボンっと私のベッドにダイブした。枕の周りのぬいぐるみが不規則に跳ねる。一つは、小学生の時に、渚が誕生日にくれたものだが、きっと彼はもう覚えていないだろう。
「引きずってんの?」
ぼそっと呟くと、渚は、ぐーん、とベッドの上で伸びをしていた。まるでこちらにぐーん、と音が聞こえるほど気持ちよさそうな伸びだった。Tシャツから伸びた腕には程よく筋肉がつき、うっすら血管が浮かび上がっている。渚って、こんなにたくましい感じだったけ。改めて意識してみると、意外と、渚はイケメンなのかもしれない、灯台下暗しってこのことかな。ん、使い方合ってたかな、と頭の隅の隅っこでぼんやりと考える。当の渚は、顔だけこちらを向けて、ちょっと考えてから、口を開いた。
「引きずってるって言ったら、引きずってる。引きずってないって言ったら引きずってない。」
「ん?」
「分かんないよ。でも、一年も付き合ってても、くるみちゃんが僕に心を開いてくれていなかったのは事実。きっとくるみちゃんは僕を好きじゃなかったんだよ。」
 そう小さく呟いて、ベッドの上でゴロンと寝返りをうつ。枕に顔を押し付け、なにか呟いた気がしたが、何を言ったのか聞き取れなかった。もしかして、くるみちゃん、と彼女の名前を呟いたのかもしれない。
「ふーん。」
「最後にこう言われた。ごめんなさい、二番目に好きなのって。優しいよね、ちゃんと最後は好きって言ってくれたんだよ。笑っちゃうよな。」


そう自傷気味に呟いて、勢いよく起き上がる。いつも以上に襟足で毛先が跳ねている。きっと今日は外に出てないのだろうなと思う。幼いころから、こんなに近くで見てきたのに、渚を励ます言葉がなかなか見つからなかった。いつも、渚に励ましてもらっていたから、励ます方法が分からない。
「でも、渚の良いところには、くるみさんも気づいてたと思うよ、たぶん。」
頭の中には、とりとめのない、使い古された言葉しか出てこなくて、少しだけへこむ。それに、本当にくるみさんが渚の良いところに気づいていたかどうか分からないから、たぶん、という便利な単語を小さな声で付け加えた。
「まあ、もう過ぎたことだししょうがないんだけどさ。」
「そんな簡単には割り切れないもんだよね…。」
「それなー。割とうまくいってるって思ってたから、なおさらショックだったな、うん。バランス取れてるって思ってたんだけど。どこで崩しちゃったかな、俺。」


バランス。きっと、渚が人生のなかで一番大切にしているもの。渚の頭のなかには、シーソーがあって、常に平行になるように整備されている。両端に同じ重さをのせて、いかに均一に物事を保っていられるか。たまに見ていて辛くないのかなと思うことがある。世の中、等しい重さの物事なんてそう多くは存在していないから。それにどっちが重いかなんてどうやってはかるのだろう。それぞれなのに。くるみさんが渚を丸ごと好きになれなかったのは、きっと渚が丸ごとくるみさんを好きになる決意が足りなかったからではないか。バランスなんて恋愛から一番遠い言葉だと思うから。かっこ悪いからかっこいいんじゃん。そんな言葉が言えたらきっと楽なのにな、と思いながら空白を埋めるように言葉を繋げた。


「そっか…。なんか、あんま気の利いたこと言えなくてごめんね。」
また、その辺に転がっているような言葉を渚に投げかける。隙間を埋めるための便利な言葉たちだ。
「いいって、気にすんなよ。勝手に俺が話し始めたことだしさ。ってか、朔はさ、夏祭り行くの、あいつと。」
「へ?」
「いや、誘われたとか言ってたから。」
 あまりにも唐突に話を進めるから、一瞬頭が真っ白になった。あ、旬くんのことか。実は、ある一人の男の子からずっと思いを寄せられている。もう、何年も前からだ。珍しいな、渚があたしのこと、気に掛けるなんて。思わず頬が緩む。いつも意地悪をされている仕返しに、すこしあたしらしくない、気取った質問をしてみた。
「気になる?あたしが旬くんと夏祭り行くか行かないか。」
渚の表情を見ると、可もなく不可もなくといった様子だった。全く動揺していなかった。なんだ、さっきの質問になんの意味もなかったのか、と少し気落ちした。
「別に。ただ、一人寂しく家にいるつもりなら、一緒にいってあげようかなって思っただけ。」
「なんか、上目線じゃない?気のせい?」
「当たり前だろ?お前と違って、俺はそれなりに場数踏んでるから。」


そう言って、ベッドから立ち上がり、思いっきりあたしの頭をなでる。そっと見上げると、小さく笑った渚の顔がそこにあった。あ、いまやっぱり辛いんだ。長年一緒にいる分、嫌でも相手の気持ちが分かる。でも、どんな顔して渚を励ましたらいいのか分からない。口下手なあたしにとって、こんな時、言葉はたまに邪魔になる。
「もー、うるさいな。場数って、一年の時のクリスマスとか?」
「ああ、なんでまたその記憶引っ張り出してくるかなぁ。もう。」
そう言って大げさに頭を抱える。高校の時から好きだった女の子に、思い切って告白したものの振られ、結局一人で用意していたクリスマスコースを回ったという、もう今でいえば伝説の笑い話だ。
「ってか、朔、今週末さ、暇?」
 渚が窓に手をかけながら何気なく言う。渚があけた窓の隙間から、夏の温度を連れた風が入ってきて、風鈴がチリンチリンと音を立てる。窓のまえに立った渚の体でちょうど月の光が隠れる。やっぱり、少しだけ背中が寂しい。本当は、そっと抱きしめてあげたい。けれど、幼馴染という言葉が邪魔をして、うまく方法が見つからない。あるいは今も、そしてこれからも。生ぬるい風が耳元をゆっくり通り過ぎていく。
「なんで?」
「隣町で、写真展が開催されるんだけど、一緒に行かない?割と好きなカメラマンで、不定期だからレアだよ。もしバイトあるなら、終わってからでもたぶんやってるだろうし。」


手には、チケットが二枚握られていた。チケットの周りが赤く縁どられているのが見える。きっとくるみさんと二人で行く予定だったのかなとふと思う。
「なら、行けるかな。バイト終わり次第、図書館の前で待ってる。」
「了解、そしたらおやすみ。クーラーかけっぱなしで寝るなよ、風邪ひくから。」
「うん、ありがとう。」 
そう言って、渚は窓から、ベランダを伝い、屋根の上をトントンと器用に渡って自分の部屋に帰っていった。こうゆうさりげなく優しいところ好きだなとふと思う。渚の背中を見送ってから、カラカラと窓を閉め、鍵をかけようかと一瞬迷ったが、やめた。鍵をかけたら渚が明日部屋に入って来れなくなる。


「バカだな、自分。」
もう、渚に幼馴染以上の感情を持ちはじめていることには薄々気づいていた。でも、この均等な関係を壊したくはなかった。きっと彼もそれを望んでいないはずだ。幼馴染という言葉が乗ったシーソーから降りてバランスを崩す勇気は、いまの私にはまだない。きっと今もこれからも。でも、シーソーから降りたら、どんな景色が見えるだろうか。渚は、どんな顔をするだろうか。ふと、渚の部屋を見るとカーテンの向こうに明かりが着き、程なくして消えた。時計を見ると、とうに十二時を回っていた。
「明日、早いんだった。もう、寝よっと。」
そうぽつり自分に言い聞かせるように呟き、クーラーをお休みモードに設定した。それから、渚と同じようにカーテンを閉め、電気を消した。

 薄く開けた窓からサラサラと朝の匂いが入ってくる。今朝のラジオで今日は真夏日になると言っていた。夕方には涼しくなっているといいなと思う。
「朔先輩、おはようございます。今日も朔先輩に会いに図書館に来ました。」
カラカラカラと窓を開ける音がしたかと思いきや、図書館にはいささか似つかない、元気な声が頭上から降ってきた。ふと上を見ると、窓から顔を出した満面な笑みの旬くんがそこにいた。ここは、ちょうど本館から離れた別館のカウンターで、利用者はほとんどいない。そしてなぜか、旬くんは、決まってあたしが別館担当のときにやってくる。それも窓から、いつも一輪、季節の花を持って。


「旬くん、おはようございます。あたしに会いに来たんじゃなくて、ちゃんと勉強か本を読みに図書館に来てくださいね。それから、ちゃんと正面玄関から入ってきて下さいね。」
「えー。普通に正面玄関から入ったら、朔先輩と話しできないじゃないですか。はい、今日はラベンダーです。」
手には、白いレースがプリントされた包み紙に包まれたラベンダーがあった。制服のワイシャツが白く反射して綺麗だ。今日は、やっぱり真夏日になるようだ。
「うわー、きれい。もう、今日は、ラベンダーに免じて許す。」
「そうでしょ。今朝、父親と一緒にちゃんと見にいって落として来ましたから。」
「ええ、そうだったの。ありがとう。」
「いいえ、どういたしまして。朔先輩のその笑顔が見たくて頑張ってますから。今日も可愛いです、朔先輩。」


そう言って、にっこりほほ笑む。日に焼けた肌に反して白い歯が眩しい。たまに旬くんは、こんな風にあたしに言葉をくれる。それも、あたしにはもったいないくらいのとびきり甘い言葉を。言葉はシンプルだけど、心がこもってるせいか、いつも胸が不覚にもドキドキする。何度聞いても、旬くんがあたしにくれる言葉の一つ一つに慣れることができない。あたしもこんな風にシンプルだけど心に届く言葉を渚に言えたらいいのにと思う。
「またそうやってからかって。」
「あはは、ほんとにことなんだけどな。朔先輩、今日、何時に上がりですか。」
「今日は、四時に終わりだけど、先約あります。」
先約の部分は、そっと小さな声で伝える。きっと旬くんは、あたしだけの秘密に気づいていて、渚のことを言うと、少しだけ寂しい顔をする。旬くんの気持ちは受け取れないときっぱり断っているけど、なんだか旬くんのそんな顔はできれば見たくない。たぶんあたしはずるい。


「え、まじですか。あ、分かった、渚先輩だ。そうでしょ?」
「え、うん。なんで分かったの。」
「だって、恋する乙女の顔してましたよ。いつになったら俺にその表情してくれるんですか。」
「そんな顔してないもん。」
「そっかー、渚先輩かー。俺も、あと2年早く産まれてたら、朔先輩と同い年だったんですよね。残念、なんでお母さん早めに産んでくれなかったんだ。」
「なんじゃ、そりゃ。」
「だって、俺、もし朔先輩と同い年だったら、もっと近くにいれるじゃないですか。そしたら、渚先輩よりも先に、朔先輩の隣独占できるなって。」
 そう言って、腰をかがめてあたしの顔を覗き込んだ。あまりにも大きな瞳でまっすぐ見つめるから、受け止めきれなくて下を向く。純粋すぎて透明すぎてつらい。せめて色ぐらいつけてくれないかな。淡い色でもいいから。君の向こう側にあるあたしへ気持ちが透けて見えないくらいの色を。やっぱりあたしはずるい。こんなに丸ごと好きでいてくれるのに。あとは同じように丸ごと好きになるだけなのに。


「おい越谷、早くしろよ。」
まっすぐな言葉と同じくらいの言葉が見つからなくて、どうしようと焦っていると、別館の入り口で、良く響く声がした。救われた気がした。
「あ、馬村。今行く。」
短く答えた旬くんに、矢継ぎ早に言葉をつなげる。
「さ、はやく自習室行ってください。」
「じゃあね、朔先輩。お仕事頑張って。」
 あたしの急ぐ気持ちに気づいたのか、旬くんは、にっこりほほ笑むと、素直に別館の入り口へと向かった。自習室は、本館の二階にあり、きっと今日は、旬くんに会うことはないだろう。夏の彼の言葉は、驚くほど真っすぐで、ちゃんと見ることができない。それと同時に、また振り回されるんじゃないかと不安になる。空虚で身勝手な言葉に。もう傷つきたくはなかった。もう、壊されたくなかった。胸の奥のそのまた奥に閉じ込めた記憶が蘇ってきて、思わずぎゅっと手を握る。


何も知らなかったあの頃、好きでいたら、好きになってくれるってずっと想ってた。だから、まるで子どもみたいに、疑いなくあの人の気持ちが届くのを待っていた。けれど、気持ちは届かなかった。気持ちの宛先は、あたしじゃなかったのだ。旬くんを見ていると、昔のあたしを見ているようで、たまに苦しい。だから、旬くんの気持ちを無下に扱えない。だけど、受け入れることもできない。やっぱりあたしは、ずるくて、わがままで、どうしようもない。
「あたし、ダメだな…。」
そう、短く小さく呟いて、椅子の背もたれに寄りかかり、大きく伸びをする。さっきまで旬くんがいた場所から、煌々と夏の日差しが入ってくる。背中に、つーっと汗が一筋流れていく。もう少しだけ大人になったら、きっと見えるものが違ってくるのかな。でもまだ今は、まだ知りたくない。体は大人でも、心は十六歳の時で止まったままなのは、きっと渚しか知らない。

「渚って、意外と良いセンスしてたんだね…。」
 うだるような暑さも静まり、渚に連れられて来た写真展は、想像以上によく、思わず隣で写真に見入っている渚にそう声をかけた。
「おい、それどういう意味だよ。あ、この写真いいな。みて、朔。」
「ん?どれどれ…。ん、確かに渚好きそう。特にこの犬の表情とか。」
「うわー、悔しいけど当たり。いま丁度言おうとしてた。やっぱ伊達に長く一緒にいないな、俺ら。」
そう言って渚は、にーっと笑った。思った以上に近くに渚の顔があって、半歩だけ気づかれないように距離を取った。
「だって、幼稚園から一緒なんだよ、あたしたち。」
幼馴染という言葉を使うかどうか一瞬迷ったが、やっぱり使うのをやめた。でも、幼馴染という言葉以外で、私たちの関係を表せるのだろうか。「幼馴染」を取ったら、私たちは、何でもないただの友達になってしまうのだろうか。


「あれ、渚くん?」
そんなことをもやもやと考えていた矢先、聞き覚えのある甘ったるい声があたしを捕らえた。なんでも分かり切ったような真っ黒な彼女の瞳。彼女の季節外れの香水があたしを包み込む。息が出来なくて気持ち悪い。きっと彼女は、あたしの気持ちが手に取るように分かるのだろう。彼女は、ちらりとあたしを一瞥して、気持ちのない綺麗な微笑みをくれた。でも、綺麗すぎて微笑み返すことができなかった。前の渚の恋人。そして、渚のまだ、好きな人。
ふと隣を見ると、渚のすっとした鼻筋が見えた。表情は、前髪に隠れて見えない。でも、渚の表情が見れなくて良かった。もし、今好きな人を見つめた好きな人の表情を見たら、もう戻れない。まだ、叶うかもしれないって思いの中に。あるいは、きっと思い知らされる。くるみさんに敵わないこと。あたしが渚にとって、ただの幼馴染だってことを。分かり切った答えでも、隠していてほしい時が誰にだってある。だって、私はいつまでも私だけが好きなだけ。


「くるみさん…。」
 渚が隣で話す声は、くるみさんをどうしようもなく好きだと言っていた。今すぐ耳を塞ぎたかった。思わず、すっと上を向いて、涙をまぶたの奥に押し込める。もう、渚の顔なんて見れない。誰が見たいだろうか。好きな人を見つめた好きな人の瞳を。驚くほどの居心地の悪さを感じて、とっさに口走る。
「あ、あたし、先に上の階の作品見てくるね。」
渚があたしの背中に向かって何か言った気がしたが、うまく聞き取れない。どうしよう。このまま泣いてしまうかもしれない。涙で視界が歪んで、上手に前に進めない。あたし、自分で思ってた以上に、渚のこと好きなんだ。ただ、好きなだけじゃないんだ。好きで好きでしょうがないんだ。もう、恋だから仕方ないんだ。好きともっと好きとの境目で、どうしようもない気持ちがぐらぐら揺らぐ。幼馴染なんて言葉誰が作ったんだろう。どうして、渚の手を掴んで、逃げだせないんだろう。幼馴染なんて言葉大嫌いだ。


泣いちゃだめだと言い聞かせながらも、とめどなく流れる涙を手の甲で拭った。ふと立ち止まり、前を見ると、そこには、一人の女性が海岸に立った写真があった。あまりの瞬間の美しさに思わず立ち止まり、見入る。どうやら、先ほどのとは別の写真展に来てしまったようだ。入り口の看板を確認すると、小さいけれど、丁寧な文字で、高杉写真展と書かれていた。すべての写真がモノクロで、違う世界に迷い込んでしまったように感じる。彼女の髪の毛が、海風に揺れている。すこしうつむき気味の彼女の横顔には、真っ赤な一輪の花があった。モノクロの彼女に対して、その花だけが真っ赤な色をしていた。でも、なぜ彼女に色をつけなかったのだろう。


「こんなに若い人が僕の写真に興味もってくれるなんて、珍しいな。」
「え?」
 ふと後ろから落ち着きのある声がして振り向くと、そこには、穏やかな顔があった。驚くほど穏やかな笑顔だった。二十歳の顔は、自然の贈り物、五十歳の顔はあなたの功績。いつだったかそんな言葉を知った。彼は、その言葉にぴったりと寄り添っているような人に思えた。年齢は、三十代前後だろうか。すらりと縦に伸びた体格とは裏腹に、薄く色のついた丸眼鏡がぎこちないけれど、なんだか可愛らしくもあった。
「この写真、僕もお気に入りなんだ。まだ、色が見えた時に撮った写真だから。」「色が見えたって…。」 
思わず口から飛び出た質問に、彼は答えることなく、言葉を重ねる。彼を見上げると、少しだけ切ない瞳がそこにあった。もしかしたら、彼女は彼にとって特別な人だったのかもしれない。
「でも、思い出せるよ。この写真の色を。鮮明に全部覚えてるんだ。空と海がまるで同じ色で。繋がってるみたいで。彼女がその真ん中に居て。思わずシャッターを切ってた。彼女は、まるで空を泳いでるみたいだった。」
「彼女、どんな人だったんですか。」
「愛情深い人だった。自分の言葉を持っている人だった。」


 彼は、一つ一つの言葉の重さを量るように丁寧にそう言った。自分の言葉を持っている人。彼の言葉がすっと耳の奥に入り込む。愛情深い人。彼はまだ彼女のことを想っている。何となく分かる。彼女に向ける言葉が誠実で、優しくて、どこなく脆いから。彼の言葉を聞いて、思わずぶしつけな質問を初対面の彼に投げかけていた。まるで自分の気持ちを確かめるかのように。ありすぎて掬いきれない、あたしの気持ちを。
「彼女のこの時の表情覚えてますか。」
彼は、私をちらりと見た後、すぐに写真の彼女に視線を戻した。少しの沈黙の後、彼は、優しい声であたしにこう言った。
「君は、恋をしているんだね。」
「え?」
「僕も、この時彼女に恋をしていた。ひどく深い恋をしていた。だから君のさっきの質問の意味が分かるんだ。僕になんて言って欲しかったか。」


 彼はそう言って、あたしの瞳を見つめた。まるであたしの瞳から答えを探すように。見ず知らずの彼に気持ちを気づかれそうな気がして、思わず視線を外す。もう、すでに気づかれているのに、まだ隠そうとしている自分が可笑しかった。
「あの、また、来ますね。」
「ありがとう。話せて楽しかったよ。」
「はい。」
「あ、それから。」
「え?」
「感情が見えるのは、一瞬だ。写真も、恋も。捕まえるのは自分次第だよ。」
見上げると、最初の時と同じような穏やかな笑顔がそこにあった。あたしも思わず微笑み返した。はい、と彼に返事をする代わりに。


ふと、窓の外を見ると、夕日が丁度沈みかけていた。淡いオレンジの光が薄く広がっている。指の間から零れ落ちる夕日のように、ぽろぽろと自分の気持ちが滴り落ちる前に言いたい。あの人が、彼女をシャッターに収めた時のように。あたしの言葉で、渚にあたしの本当の気持ちを伝えるんだ。誰かのラブソングなんて使いたくない。瞬間は一度きり。どんな名前があたしの気持ちに寄り添うだろう。夕日を見つめながら想像して、ほんの少しだけ笑った。


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