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「感情」が自分だと思わないほうがいい理由

女性であればわかる方も多いと思いますが、生理前後で感情がまったく変わり、まるで別人にのようになることがあります。

かなり極端かもしれませんが、

生理前はまわりの人や社会に対して「うらめしや〜!」となり、生理後は急に「みんな大好き〜!」となります。
二重人格なのか?と思うほど感情が変わります。

どちらも「自分」と思っていましたが、そもそもこれが本当に「自分」なのでしょうか?

感情とはなにか

以下、文献より引用したものです。

感情は、生きていくために心が設定するプログラムです。<略>感情は、反応する能力、識別する能力を低下させます。激しい感情にとらわれると、たとえば、電車が迫ってきているにもかかわらず、それが目に入らないまま、線路の上に立ちつづけるということさえ可能になります。<略>感情を所有しているつもりが、無意識のうちに感情に所有されているのです。<略>わたしたちの体は、いわば、心のなかみがプリントアウトされたようなものです。

ジョー・ビタリー著の『ザ・キー』より

つまり、本当の自分とは、その感情を手放したところにある。

「よく、ポジティブでいこう!」

なんていいますが、そのポジティブでさえ、本質的な自己を覆ってしまっている「感情」であり、手放す必要があるのです。

その感情をとっぱらった先に、真の自己=本当の自分、魂の自分がやりたいと思っていることが眠っているということ!

中庸=ニュートラルな状態に持っていくことが大切なのです。


ではニュートラルな状態とは、私の場合、心底リラックスした状態のとき。
南の島でリラックスしているときや、朝起きてすぐお茶を飲んでいるときなど。

ただ、「感情に支配されない」=無感情、ということではなりません。
人間に生まれたからには、喜びも苦しみも味わってこそ、生きる悦びがあると思うのです。


大事なのは、

「感情とはひとつの状態である」と理解しているかどうか、だと思います。
とくに冒頭で挙げた、生理前後のときの感情のように「他人に対する感情」。

他人といっても自分もある意味他人です。「私なんてだめだ」というときと、「私ってそこそこいい感じ」と思うときってありますよね。

つまり、「人に対する感情」はわりと嘘情報であって、基本的にある種の「感想」みたいなものは脇に置いておく習慣があったほうがいい、というのが自論です。


感情に飲まれそうになったら一歩ひいて、俯瞰で自分のことを見る。
メディテーションの意味も、そこにあるのではないかと思うのです。

そうすれば感情に支配されることなく、自分にとって明確な選択がしていけるのではないでしょうか?