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読書室の窓辺から(12)

※この記事には、本のネタバレを含む内容が書き連ねてあります

こんにちは。富岡です。
こちらは、課題図書型読書会「対談読書室」の12回目「課題図書『ふたりのロッテ』を語り合う(5)」の振り返り記事になります。

参加人数
・スピーカー:4名
・リスナー*:0名
*スピーカーによるディスカッション中は聴き手に徹し、読書会の全体の振り返り時に任意で発言可

読書室の風景

『ふたりのロッテ』の課題範囲を読みながらの反響をご紹介していきます。

スピーカー・リスナーから、様々な気づき・感想が寄せられました。
一部抜粋してご紹介します。

前回範囲(第4章)を再読してみて

  • ふたりのロッテ(高橋健二・訳)」も読んでみた。本文中のロッテとルイーゼが「お嬢様ことば」であることに時代の変化を感じた。また、挿絵と表紙のイラストレーターさんが岩波少年文庫版と異なるものが採用されている。そのあたりの経緯も気になった。

  • 第4章の「手紙を書くけれど局留めにする」という発想。当時の子どもならではだと思った。ロッテとルイーゼは、お互いの親たちに何かをしてほしいわけではない。(親たちに「何かをしてほしい」と口に出した瞬間、何かが壊れてしまうとさえ感じている。)また、子どもなので良くも悪くも経験が浅い。過度に過去や未来に縛られることもなく、現在を生きている。

  • ロッテとルイーゼの2人が書いた「ノート」を見てみたいと思った。子どもたちの「これから始まる『冒険』へのわくわくする感じ」や「こわさ」を感じた。

  • ひとりの子どもというのは、自分の考えを持つことが相対的に難しい立場にいる。だけど、著者からは、「自分の考えを持ってもいいんだよ」というメッセージをこの物語から感じる。物語の「視点」について。物語本編へ導入する「詩」のような前書きが、子どもの立場に寄り添う第三者の存在の目線を感じさせる。それが「ふたりのロッテ」の特徴のように思える。

  • 章の最初の「前書き」について。高橋健二訳のほうでは、(原文が同じなので大意は変わらないが)言い回しやニュアンスが異なっている。ぜひ、読み比べの会を開きたい。

  • 第5章はシリアスな内容を含むが、第4章は「THE・児童文学」のようなワクワク感がたくさんある。おそらく、2人の子どもが書いた「ノート」も、現代の子どもたちにとっての「テレビゲームの攻略本」の感覚で「虎の巻」が書かれているのだろうと思った。その「ワクワク感」の中にも、「これをしたらお父さん・お母さんがよろこぶ」という打ち合わせをしているところが、登場人物の年齢(9歳)のわりには切なさ・健気さも感じる。そのような、地に足のついた文学がかけるケストナーがすごいと思った。

  • 5月の連休で、他の児童文学『マチルダは小さな大天才』(ロアルド・ダール)も読んでいた。この本では、口の悪い両親のもとで育つ5歳の主人公が、自分の受けた理不尽について大人たちに仕返しをする話。とても暴力的な表現を含む。ロアルド・ダールとエーリヒ・ケストナーの2人が活躍した時期が同時代かはわからないが、(もし同時代だとすれば、)ケストナーはずいぶん上品な言葉遣いで子どもの権利に関わる物語を書いていると感じた。

  • ロッテとルイーゼが2人でノートにメモしあっている描写で、親たちに決断を迫るつもりはないと書かれているところで切なくなった。子どもたちが「(両親のことは)自分たちの力でなんとかなる問題ではない」と感じているところが、子どもながらに「物事をわきまえている感じ」がして切ないと感じる。その直前で「お母さんにおやすみのキスをするのよ」という描写で、子どもから親への無償の愛を感じた。たとえ、ルイーゼの思い出に母親が残っていなくても、親を慕う気持ちや愛情がある。

  • ロアルド・ダール『マチルダは小さな大天才』を読んだことを受けて。あんなに小さなマチルダが、図書館でたくさん本を読んで、知恵で大人に対抗していくところが「ふたりのロッテ」と共通していると思った。子どもの目線から親の生活・親のあり方をまっすぐ見つめる児童文学は、当時の日本では珍しい。(日本では、児童文学では「よき子ども像」が描かれがち。)アメリカのべバリイ・クリアリー作の「ラモーナ」シリーズ(※ラモーナは、「ゆかいなヘンリーくん」シリーズに登場する女の子)が倹約家の家庭でごく普通の日常が描かれている。それも読み返してみたいなと思った。

  • 「ふたりのロッテ」で双子の子どもたちが「入れ替わり」を決意したのがサマースクールであるという設定がいいと思った。もしも、片方の姉妹の家に訪れていたら、きっと家庭の違いや現実に驚いて「こんな計画は無理だ」と思ってしまっただろうから。

  • 「寝るときにおやすみのキスをすることは、絶対に忘れない」という描写。日本では、なかなか見かけないコミュニケーション。ケストナーの描くヨーロッパの生活では、この挨拶のキスが本能的に刻まれているのだと思った。子どもというのは、こんな風に親を求めているのだなと思った。

  • ドイツ語圏と聞くとナチスの文化を反射的に思い出してしまうが、ケストナーが描くような、穏やかで優しい文化もあるのだと思った。ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」のように、人間同士が対立すること・暴力的な背景もあるけれど、「ふたりのロッテ」で描かれているような平和で思慮深い描写や文化背景を知ることも大切だと思った。

  • 第4章は、挿絵も印象的。両方とも「2人が入れ替わっている」イラスト。イラストだけでも、ルイーゼが扮するロッテは、ちょっとだけ身振り手振りが大きく(やんちゃに)描かれている。それを見ているだけでも楽しい。この挿絵のイラストの文化は、大人向けの純文学などでは見られない文化。子どもたちの想像力をかきたてる挿絵も、また、児童文学の魅力だと思っている。

  • ベバリイ・クリアリー、ロアルド・ダール、エーリヒ・ケストナーの作品で描かれている「日常生活」の比較や物語の共通点(知恵で大人に対抗していく点、子どもの成長を描いている点)の話を興味深く聴いていた。

  • 訳者さんが書いた本や、「源氏物語」の現代語訳を訳語を比較しながら読んでいる。作品を訳したときの時代背景や、訳者自身の経験や年齢で物語の印象は変わってくるのがおもしろい。

  • 第4章で垣間見える「ケストナーのやさしさ」。前の章で両親が離婚したシュテッフィーが、そのままにされず再登場するところにケストナーの優しさを感じる。

  • ロッテとルイーゼの「入れ替わりの冒険」の出発点は、「どうして親たちが別れることになったのか」という「謎」を明らかにしたい、というところ。本当は、「家族全員で暮らしたい」と言いたいが、「言ってはいけない」と思っているところが切ない。子どもの年齢・年代によっても、親たちへの態度は変わってくる。(例えば、ロッテとルイーゼが中学生・高校生だったら、思春期・反抗期を迎えているので、もっと違った物語になっていたかもしれない。)

  • 同じ作品での「訳者による表現の違いを味わう読書会」もしてみたい。

  • 子どもはもっとワガママになってもいいんだと、「ふたりのロッテ」を読んでいると思ってしまう。「子ども」というと、元気でやんちゃ、無知でワガママなイメージを持つ人もいる。しかし、実態は、子どものほうが「よく観察している」という状況もある。子どもと対等な関係を築くことの大切さを感じる。

今回範囲(第5章)を読んでみて

  • 第5章を開くと、69ページのケルナーさんの挿絵が目に飛び込んでくる。このケルナーさんが、いかにも、「ドイツの、仕事ができる女性」のような見た目をしている。今回の章は、挿絵が多かったようにも思う。挿絵を見ているだけでも興味深い(ルイーゼの周りの大人が、おもしろい見た目をしている、など)。

  • 個人的に取り上げなくてはと思うこと。78ページから79ページ「尊敬するちいさな、そして大きな読者のみんな。(中略)そして、親たちのせいで子どもたちにつらい思いをさせるなら、子どもたちとそういうことにうついて、きちんとわかりやすく話しあわないのは甘やかしだし、まちがったことなのだ、と。」の部分は、主催者が「この本を課題本にしよう!」と思った契機となった一節。この部分を(今回ではなくても良いが)、みなさんからも意見を聴いてみたい。

  • この章を改めて読んでいて切なかったのは、79ページから82ページの、パルフィーさんとケルナーさんの「大人のすれ違った恋愛」の場面。(新曲の楽曲を理想的な環境でつくっても、幸せではないパルフィーさん。そのことを、音楽から感じ取るケルナーさん)。この「切ない恋愛」を児童文学に載せるのがすごい。ただ、個人的には、「恋愛」にしてもそうだけれど、「どの年代の子ども達に、どのように、何を伝えるか」はとても大事だと思っている。例えば、性教育もそう。「どの年代から、誰が、どのように、どこまで教えるか」という問題が、日本だけではなく、世界でも話題になっていると個人的には感じる。特に日本。「学生のうちに恋愛するなどけしからん」という風潮なのに、大人になると「結婚するのが一人前。なぜ早く結婚しない?」という雰囲気であるように感じる。これは、ちょっと乱暴なのではないか?「恋愛」は、教科書に「模範的な恋愛」を載せれば解決する事象ではないし、人間は「模範的に教科書通りに」生きていける存在でもないと思っている。微妙で難しい事柄だ。個人的には、恋愛に関して言えば、様々な恋愛のかたちや考えを、読書を通じて知っていけば良いのでないかとも思う(私が読書好きだから)。人によっては、「いや、恋愛は実体験のほうが大事だ。場数を踏んだほうがいい」という考えの人もいるかもしれない。ただ、その考え(この場合は「恋愛観」や「結婚観」)を誰かとシェアできる場が、学校教育で行われるといいのかなと個人的には思う。主催者はこのあたりを学校教育で取りこぼしてきたので、読書会という場でこれができたら嬉しい。子どもの権利としての「ものごとを知る」ことを、大人としてどう応えていくか、話してみたい。

  • 第5章では、犬のペペルの登場シーンで大笑いした。この、シリアスな話のなかに笑える場面を盛り込んで、話に緩急をつけているところが良いなと思った。(ずっとシリアスな展開だと、読者は疲れてしまうため)。

  • お母さん(ケルナーさん)が、元夫の音楽を、チケットを買ってまで聴きに行く。ケルナーさんにとって、元夫は「顔も見たくない!」というほど嫌いな存在ではなかった。(嫌いになりきれなかった)。どのような経緯があるとこういう「すれ違い」になるのか。もしかしたら、ケルナーさんは、劇場に行けば娘(ルイーゼ)に会える、という期待も持っていたのかもしれない。

  • シャーリー・テンプルの話を読んだときに、大人は「子どもだから」という思い込みを持ちながら、子どもと関わることが多いのかもしれないと感じた。子どもにしか見えていない視点(大人になると失われる純粋な視点。例えば、「戦争はなぜいけないのか」という疑問など)を汲み取って子ども達と接することが大事だと思った。

  • 読書会では、自分のモヤモヤしている気持ちを、他人の発表から聞けることや気付けることがあるのでありがたいと思った。

  • ケルナーさんが、娘たちが入れ替わっていることに気づかなかったのが意外。(パルフィーさんは、気づかなくても意外ではない)。個人の経験から、自分の父や周りの大人が、自分たち姉妹の声を電話などで聞き取れないことがあったから。(母親は聞き分けられていた。)

  • 安いチケットを買って劇場に行くケルナーさん。音楽で、元夫が「幸せ」ではないことを知る。そもそも、この家庭は、芸術家の身勝手(男性の身勝手?)で破綻している。だからといって、家庭生活が円満だったらパルフィーさんの作曲がうまくいくのかというと、たぶん上手くいかなかった。(パルフィーさんが女性にピアノを教えて女性との噂がたって、ケルナーさんがカッとなって離婚届を出しているという作中の設定のため)。

  • ルイーゼがお母さんと初めて会う場面。あの元気なルイーゼが、不安で震える。それが、お母さんと会えたときに一転するのがとても良い。そこで、お母さんとスキンシップのキスができるところが、読んでいてうるっときた。お母さんの立場からしても、(この娘がロッテじゃなかったとしても)、愛情深く接しているのがいい。(それにしても、お母さんは本当にロッテとルイーゼの入れ違いに気付けなかったのだろうか…?)

  • 78ページ以降、「尊敬するちいさな、そして大きな読者のみんな」という、本の側からの「呼びかけ」があるのもいいと思った。(これまでは、読者が本の世界に入っていたが、ここでは、本の世界の側から読者の内面の世界に呼びかけている)。子どもの視点に立つことを、わかりやすく伝えている、子どもとの接し方の原点に立ち返らせる文章だと思った。読んでいる読者が、「ふたりのロッテ」の物語の進行と同時に、自分の身の回りについても考えを巡らせることができるつくりになっていることが良い。

  • 芸術家のお父さん。「指揮者さん」という言葉が繰り返し使われると、ちょっとだけ皮肉を込めたようなニュアンスに聞こえる。子どものことを思う良いお父さんでもある。そして、お母さん。元夫のことを男性としても芸術家としても愛していた。(ルイーゼのほうの娘に会えることもきっと期待していた)。お母さんのすごいところは、音楽を聞けば、彼が幸せかどうかがわかる女性であること。そんな、登場人物の個性が見られて興味深い。

  • 第5章の始めのほうに、「トランクに腰掛ける子ども」「『ルイーゼ』、歌劇場で手をふってもいいかとたずねる」の見出しがある。トランクに腰掛けて、なかなか来ないお母さんを待っているルイーゼ。彼女の性格と9歳という年齢からすると、「なんで来ないの…!」と泣きわめいていてもおかしくないと感じるが、「ロッテならそんなことしない」と静かに待っていたのだろうなと感じる。また、歌劇場に行くことになったロッテが、75ページあたりで父親に「いちいち許可を求める」ところが、またロッテらしい。

  • なぜ母親(ケルナーさん)は「子ども達が入れ替わっていることに気付けなかったのだろうか問題」についての個人の感想。サマースクールが1ヶ月間あったことで子どもの雰囲気が変わることもあり得るだろうと思っていた、まさか元夫の子どもと鉢合わせしているとは思わないだろう、ケルナーさん自身が仕事で疲れているの3点を鑑みると、(少なくとも再会の時点では)気づいていないだろうと思われる。

  • お父さんが「芸術家としてやっていけるか不安になる」「結婚をしたことが間違い」という表現をみていると、パルフィーさんは虚勢をはりがちな人なのだと感じた。

  • ロッテがレージーさんの家計簿を計算し直す場面。子どもなのに、いつもの習慣が「遊び」ではなく「家計簿」というところが切ない。その少し前に、ロッテは窓辺で悩みにふけるが、すぐに気持ちを切り替えて行動している。ロッテにとって、毎日は忙しいものであって、「悩み」や「遊び」にふける時間がなかったことを感じた。子どもなのに、現実を突きつけられて生きている。少し切ない。

  • 個人的に思ったのは、この章は「お父さん側」の登場人物・描写が多い。(お母さん側の描写は少ない)。また、お父さんは、芸術的な側面には積極的に自発的な活動をしているが、子どもへの愛情に関してはロッテがおずおずと手を握ってきてから初めて反応するなど、受け身な感じもする。両親に共通していること。76ページの「お母さんは(中略)親って、むつかしい」の描写。読者としては「当たり前」の前提条件だが、入れ替わった本人(ロッテ)にとっては「初めて気づいたこと」。この部分をどのように知恵で解決するのか、という伏線なのかもしれない。

  • 第5章は、ますます「うたうような文体」になっているように感じる。歌劇場を描く描写が多いからかもしれない。社交界の「ちょっとした裕福な世界」を初めてみるロッテの視点から見られるのがおもしろかった。

  • お父さん、芸術家でもあるが、家庭的な雰囲気がまったく苦手というわけではない。子どもが愛情を求めれば、応えてあげたいと思っている。

  • 75ページあたりのレージーさんの「家計簿事件」。ロッテは、いきなり問い詰めたりはしない。(だけど、穏やかにキッパリと言うべきことを言う)。

  • ロッテが家計簿を日常的につけている設定について。シングルマザーのお母さんが、子どもであるロッテが自立できるように将来を見据えた子育てをしていると感じた。(肯定的に捉えている)

全体の感想

  • 第4章も第5章も、語りたい部分がたくさんある、語りがいのある部分だと感じた。

  • 第5章のページ配分として、ケルナーさんの描写が少なめで、パルフィーさんの描写が多いページ配分になっているように感じる。このケルナーさんとパルフィーさんが、対照的な感じがする。(地に足のついた生活と、ちょっとふわっとした生活)。あと、物語全体を通して、ルイーゼは楽しい思いを、ロッテはどちらかというと苦境に立たされているような苦い思いをしていると感じた。そこも対照的な感じがする。

  • 読書会で読むと、ひとりとは違う見方を感じられる。毎回「ふたりのロッテ」を読むたびに、自分の子どもの頃を思ったり、当時の視点と現在の視点の違いを感じたりする。

  • 第5章のなかの、お母さんの描写。当時の「職業婦人」としての活き活きと生活している様子。(現在では働く女性は珍しくないが、当時は、限られたごく一部の女性しか会社で働いていなかった。作中の「ミュンヘン画報」も、きっと名の通る会社なのだろう。可愛い娘と、仕事で充実した生活を送っている)。ただ、そこでの「成功」があっても、章末のコンサートでの「埋められない何か」を抱えながら生きているところを描いているのが良い。

  • お父さんの「芸術家として生きたい」エピソードと、お母さんの「女性として自立して生きたい」エピソードが垣間見えて興味深かった。


読書室からのお知らせ

次の課題範囲について

岩波少年文庫より、『ふたりのロッテ』エーリヒ・ケストナー(池田香代子・ 訳)を課題本とします。
次回までの課題範囲は、第5章から第6章(68~107ページ)です。第4章から第5章までの振り返りも行いますので、第4章も再読のほどよろしくお願いいたします。

次回の活動予定について

次回は、2023年6月25日(日)10:00~12:00の予定です。
欠席連絡は、Discordサーバー「新・対談読書室」、「読書会のお部屋」の「出欠連絡」チャンネルにてお知らせくださいませ。

副読本について

  • 岩波書店「ケストナー少年文学全集6 ふたりのロッテ」(高橋健二・訳)を、副読本(購入は必須ではないが、一読することをメンバーに勧める本)に指定いたします。

  • 「番外編:対談読書室 『ふたりのロッテ』を読み比べる(仮称、2024年夏開催予定)」に参加されたい方は、池田香代子訳と読み比べておいてください。よろしくお願いいたします。