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ES ⑧

 私は幸運なことに、ドリンク・ホルダーに引っ掛けてあった、車のキーをすぐに見つけることができた。よく考えてみると、運転手がもし車のキーを身につけたままいなくなっていたらこの車は運転できなかったな、と私は思いながら、私はなれない左ハンドルのイグニッションにキーを挿し、エンジンをかけてそのままゆっくりと車を前に出した。

 予約したモーテルの地図はチカが控えていたので、私たちはただそこに向かって行くだけだった。私たちはモーテルの方面に向けて、空港から道路に出て、ひたすら進んでいった。

 私はその時、もう頭は冴えていて、飛行機で起こったことを完全に思い出していた。私は転んで気を失ったのではなく、飛行機内で人が消え去り、そして飛行機が墜落し、確かに私は、衝撃の中、機内を滑り落ちたのだ。だとしたら ー チカは「私が転んだ」瞬間を ー 見ていたのか。私は運転しながら、辻褄が合わない記憶と証言について、頭の中でぐるぐると、検証を続けていた。

「誰も、いないね」

 チカは助手席から、つぶやいた。私は、その声の裏に動揺があるように感じた。彼女は私以上に不安を感じているような気がした。私たちが道路に出て既に数kmは走っているが、反対車線から車がすれ違うことはなく、またこの車の車線の前後にも、全く車が見当たらない。夜中なので人がいないのはわかるが、ふつう、車はある程度通るはずだ。私はこの状況を想像できていたが、恐ろしいというよりは、戸惑いを超えた『怖いもの見たさ』の方が強かった。このまま道路を進んでいき、そしていつか朝を迎えた時、この世界は変わらず静かなのか。そしてその時になってから、私は今以上に途方に暮れてしまうのかもしれないな、と考えた。私はふと飛行機で起こったことをもう一度チカに確認しようと思ったが、意味もなくそれが、その時は言いにくいような気がして、モーテルに着くまで話しかけることはなく、チカも私に話しかけることはなかった。

****

 私は慣れない左ハンドルに手間取りながらも、三十分ほどかかってようやく、モーテルにたどり着いた。モーテルは通ってきた道路から左側に曲がり、数分ほど進んでいった中にあった。周囲は森林に囲まれており、敷地には10台分ほどの駐車場、そして駐車場から見えるその建物の外観は、モーテルというよりは瀟洒なコテージを思わせるような、風情のある雰囲気であった。私は駐車場に停めてあった車の横にタクシーを停めた。私とチカはトランクからスーツケースをそれぞれ下ろした。

「見て!明かりがついてる」

 チカは白い息を吐きながら、指を指した。モーテルの入り口から黄色い光が漏れていた。私は、さっきまで険しい顔をしていたチカの顔が、明るくなっていることに気づいた。

「誰かいたら、いいんだけどね」

 チカはそう言うと、スーツケースを押しながら小走りに入り口の方に向かっていった。私はチカの後ろから、ゆっくりと入り口の方へ歩き始めた。少し歩いて、外の気温がそれなりに寒く感じたので、立ち止まり自分のバッグから潰し入れていたダウンジャケットを取り出した。私はそれを羽織りながら入り口に入っていくチカを眺めていると、太ももの左側に振動を感じた。

 ーーー非通知の着信。私は心臓の高鳴りを感じながら、それを取った。

 男の嗚咽が、聞こえた。私は何か話しかけようと思ったが、声が出なかった。それは泣いているような、何かをふり絞って言おうとしているのか、なんともいえない声であった。

「それで、娘さんは既にそうなっていたと?」

 ひくく、明朗とした男の声が聞こえた。英語であったが、男はゆっくりとした声調であったため、私ははっきりと意味が聞き取れた。

「…そうだ。いったい誰が、こんなことを?」

 ふりしぼるように、その男は乱れた声で答えた。私はその男の声が、どこかで聞いたことがあるような気がした。

「今の時点では分かりませんが、最善は尽くします。これは現状考えられる推測なのですが、この場所をよく知っている人間が、娘さんをーーー」

 男が話している最中に、モーテルの入り口の方から何かが割れる音があたりに響いた。私は電話から現実の世界に引き戻され、チカを目で探したが、彼女は既に見えなくなっていた。

 私は胸騒ぎがした。続きを聞きたかったが、ひとまず携帯を耳から離し、電話を切らずにそれを片手に持ったまま、モーテルの入り口に向かった。

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