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ES ⑥

 なんだか暖かい陽だまりのような、『やさしくも息苦しく薄い何か』に包まれていた。私は目が覚めたような、覚めていないような、それでいて眠りと覚醒の合間に姿をあらわすまどろみとはまた違った、なにか不安定で、とてもふわふわした感じの中にいた。

 アルコールのような匂いがし、また、近くで誰かが話しているようだった。私は「無垢ななにか」がそばにいるような気がしたが、それはそばで話している人ではないな、と思った。そうこうおぼろげに考えているうちに、私は全身の感覚が少しずつ戻ってきたので、目を開けてみると、天井の蛍光灯が視界に飛び込んできた。私は目がくらむような思いをしながら何とか上体を起こすと、そばにいた女性が私の顔のあたりの方に首を向け、私の目を覗き込んだ。その女性は黒髪で、健康的に日に焼けた肌をしており、私は一目で可愛らしい女性だと思った。

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 そこはサンディエゴ空港のある部屋の、ベッドの上だった。
目が覚めた私に気づいたその女性は、私が何か話し始める前に、状況を説明してくれた。彼女によると、私が乗った飛行機は出発して一時間三十分ほど経った頃、天候不良に見舞われたために引き返したのだという。私は飛行中にトイレに行こうと立ち上がり、ちょうどその時に飛行機が揺れたので、転倒してそのまま気を失い、最終的にサンディエゴ空港に戻った後、CAたちにこの医務室(休憩室?)に運び込まれたとのことだった。

 しかし、私がその話を聞いた時、私は何か違うことを体験したのだ、と思った。だが、たった今目が覚めたばかりの明晰でない頭で考えると、そのように言われればそうだった気もする、といった感じもした。私は違うような気がしただけで、何があったかはっきりと思い出せなかった。しかし、自分がもし頭を打ったのならば、この女性が言ったことが実際に現実に起こったことだったのかもしれない、とも思った。私はその時、非常に『ぼんやり』していたのだ。

 その女性はクズミチカという名の旅行者であった。同じ日本人であることもあり、私に連れ合いがいなかったため、気を失った私に偶然機内で気づくと、空港に到着後、CAとともに空港のこの部屋まで同行してくれたのだという。私は倒れて数時間は気を失っていたようだったので、長い時間付き添ってもらった彼女に迷惑をかけたことを詫び、お礼を言うと、彼女は、いいのよいいのよ、と気さくに返した。

 私とチカはすぐに打ち解けた。チカは私より年上の、三十代半ばの旅行者であった。私と同じく単身アメリカを旅行し、私と同じ便でサンディエゴから帰国する予定だった。チカは福岡でフリーランスのデザイナーをしており、常日頃からワイルド・ライフや芸術を愛してやまない、アクティブな独身女性であった。たまに長い休みを取ると、オーストラリアにトレッキングに行ったり、時にはドイツやオーストリアに行きビール、クラブを楽しんだりと、頻繁に海外旅行をするのだという。私はチカの人懐っこい雰囲気と、我々は今アメリカにいるのに、彼女が喋る時に時折混ざる九州弁の、懐かしくも意外性のある現在のシチュエーションが面白かった。また、私はゲイリー、ジハと別れて以来、人と話すのが久しぶりだったので、気さくでおしゃべりが好きなチカとのこの巡り合わせは、単純に楽しかった。

 私の性格上、『海外で会う日本人』とは、なんとなく距離をとってしまうようなことがあったのだが、チカには ー 互いに親しみを感じられる何か ー を、感じた。所謂気が合う、というやつである。単身で旅行をする輩はたいてい、タフであり、私はまだ知り合ったばかりだが、チカの持つ ー 自分の欲求を、誰から言われるまでもなく独力で実現していくような ー ほとばしるバイタリティをはっきりと感じていて、そしてそれを気に入った。私たちは飛行機の話、旅の途中で起こった与太話など、初対面なのに驚くほど話が弾み、気がつけば彼女と、三十分ほど話していた。

 私とチカが話し込んでいる途中、太った女性職員が部屋に、ぬさりと現れた。彼女は事務的に、百キロは軽く超えていそうな巨体をブルンブルンと揺らしながら、購入していたチケットは、別便のチケットへの交換もしくは返金が可能だと伝え、プラス、「この部屋に長居は無用」といった雰囲気を私たちに『目力によるフォース』によって伝える(私には伝わった)と、ドアをばしんと叩き閉め、ずんがずんがと地面を踏み鳴らしながら部屋を出て行った。時計を見ると時間は二十二時を過ぎていたので、とりあえず私とチカは外に出てから、今晩の宿、今後の計画をこれから一緒に考えることにした。

 私たちが部屋を出、通路に出るとチカは、トイレに行ってくるけん、先にロビーのところで待っとって、と私に言ったので、私はそのままロビーへ向かった。

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 私はロビーに向かって歩きながら、空港の周辺に泊まれる宿はあるのかと考え始めたが、この辺りは初めてきた地域だったので、何も思いつかなかった。チカが何か知ってるかもしれないが、もし何もなければ空港で一泊するしかないな、と思った。

 私が寝ていた部屋はロビーの近くだったようで、目に付くピクトグラムに従って進んで行くと、3分ほどでロビーに到着した。ロビーに着いた時、私は預け荷物を受け取らなければいけないことを思い出したが、チカの携帯番号をまだ聞いてなかったので、後で落ち合ってから受け取りに行こう、と思った。

 私はチカを待つためにロビーの三人がけベンチに腰掛け、一息つくと、どこかで見たような背中が、10メートルほど先に見えた。その背中は、薄緑色のサンドレスを着た例の少女のものだった。少女は独りで通路を歩いていた。私にその少女が見えたのはほんの束の間のことで、すぐに通路の奥に進んでいって、見えなくなった。そして私は、あの少女を、飛行機の中で ー 朧げだが確実に ー 見たことを、思い出した。その時急に、腕とみぞおちのあたりに痛みが戻ってくる感覚を覚えたが、それが果たして転倒した時によるものなのか、私には判断ができなかった。私はまだ『ぼんやり』としており、飛行機で起こったことをはっきりと思い出せないでいた。

 少女が見えなくなってすぐ、私の携帯が鳴り始めた。画面を見ると、液晶の画面には、ゲイリー・ヨシダの名前が表示されていた。私は何かの予感を感じながら、ゲイリーからの電話に出た。ベンチに座る私の視線の先には小走りに近づいてくるチカの姿が見えた。

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