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ES ③

 私とジハがウィンズローの外れにあるバス停にたどり着いたのは、十八時を少し過ぎた頃であった。これからジハは十八時三十分のバスに乗り、私は十九時過ぎのバスで西海岸の方面に行く予定だったので、我々はバス停で ー 少し手持ち無沙汰な感じ ー で、それぞれのバスを待つことにした。あたりは既に昏くなっており、ジハは腕をさすりながら「寒いな」と小さな声で呟いた。そして、彼は先ほど買ったタバコを箱から出し、私のライターで火をつけた。

「おっと、返しとかないとな。忘れちまう」

 ジハは早口になりながらそう言うと、私にライターを投げてよこした。私はライターを受け取りながら、今のフランクで雑な所作は、細やかで繊細な日本人にはない『流れ』だな、と感じた。だが、私はこういう文化的差異を原因として発する気づきに対して、嫌な気持ちはあまり持てない人間である。私は、ジハとは数時間前にあったばかりだが、今はそれなりに互いの距離が近くなったな、考えていた。私はライターを受け取ると、自分も一服することにした。タバコに火をつけながらジハの方を眺めていると、ジハの口から漏れる煙が、昏くなったバス停のあたりに幽鬼のように漂っている。

 ジハはカーキ色のリュックを地面に下ろし、中から使い古されたナルゲンのフラスコを取り出した。1オンスほどの大きさのキャップを外し、慣れた手つきでフラスコからキャップに、茶色の液体を注いだ。ジハはそれを私に勧めたので、私は一気に飲み干すと、身体の芯があつくなった。ジハはフラスコから直にぐびり、と同じ液体を飲んでいた。

「何も聞かずに飲むとは。お前は酒が好きなんだな」

 ジハは昏くなって見えなくなったが、脂で汚れているであろう彼の歯を必要以上に見せつけながら、ニカッと笑っていた。私は、日中気になっていた彼の額の黒光りは、もう見えなくなっていることに気づいた。

「これはウィンズローのウイスキーだよ。あったまるだろう」

 ジハはそう言うと、空になったキャップにもう一度、その茶色の液体を注いでくれた。酒の味はよくわからないが、ジハがくれたウイスキーは、寒かったのでとてもうまかった。

******

 私がウイスキーを数杯ほど飲んだ頃、私の腕時計の針は十八時二十分を指していた。ジハは突然「他愛のない話をしよう」と私に言うと、ポケットから写真を取り出した。写真には、ジハ、老夫婦、中年の女性などが写っていたが、あたりが昏くなってしまっていたから、全貌がはっきり見える状況ではない。

「3年前、ホームに帰った時に撮ったんだ。記念写真さ」
ジハによると、かろうじて視認できたその老夫婦は彼の両親らしい。いい写真だな、とジハに言うと、彼は小さく頷き、フラスコからまたぐびり、とウイスキーを飲み、こう言った。

「生きていると大変なことは多いが、家族だよ。一番大切なことはな」

 あたりはもう『すっかり夜』といった様相であった。私とジハが吐く息がバス停のささやかな照明に照らされ、我々の周りに漂っては薄く消えていく。私はなんとなく昼間の話を思い出して、ジハに小学校で殺された娘の家族はどうなったんだ?と聞いてみた。ジハは口から白い息を吐きながら、もう一度ウイスキーを口にした。

「殺したその男はクズだよ。だが、その男の家族はどうなる?想像できるか?」

 ジハは、家族の話をしていた時とは打って変わったように、大きく声を響かせながら、早口に喋り始めた。目がぎらついているように見えた。私はジハの変わりように、少し驚いてしまった。

「家族がかわいそうなんだ。お前の子供が人を殺したら、どう思う?耐えられないよ」

 ジハはそう言う頃、道路の先で、車のライトが光るのが見えた。腕時計は見なかったが、時計の針は十八時三十分を過ぎる頃である。ジハはリュックのチャックのあたりをさすりながら、続けて喋った。

「俺は家族に同情を感じるんだ。だがもちろん、犠牲者の家族が一番かわいそうだよ。ニュース番組で見たんだが、泣いてたよ、犠牲者の家族が。そうだな、一番かわいそうだよな…」

 バスが、我々の前に停車した。私は別れのタイミングでこの、なんとなく『おさまりが悪い』感じになってしまったことを少し悔やんだが、ジハは気にしていない様子だった。私はジハとハグをすると、ジハは足早にバスに乗り込んだ。

「じゃあな。旅を楽しんで」

 ジハは最後にそう言って、私と別れた。

******

 バス降車口の近くに表示されている車内時計に目をやると、緑色の液晶は現在時刻が二十二時を過ぎた頃であることを示していた。私は眠れなかったので、バスの窓からアリゾナの景色を眺めていた。と言っても暗闇しか見えず、風景らしいものほとんど判別できなかったのだが、風景はどうでもよかった。私はジハが話していたことを思い出し、もし私がこの世からいなくなったら、誰かの心に残った私という思い出は、そのままその人の心に生き続けるのだろうか、と空想した。

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