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ES ⑨

 モーテルのドアーは少しだけ開いていて、隙間から鈍い光が漏れていた。
 時刻はすでに深夜であった。私は携帯を耳から離し、あたりの静けさを肌で感じながら、そろり、そろりと光が漏れる方向に向けて、少しずつ近づいていった。

「ああッ」

 突然、チカの声が聞こえた。それは、叫び声と表現するには弱弱しく、どこか力が抜けた感じの、か細い女性の声であった。声は建物の少し奥のほうから聞こえ、私は声を聞いて思わず ー 入り口の眼前まで来ているのに ー 少したじろいで、立ち止まってしまった。しかし、私はいつまでも立ち止まっているわけにはいかず、指先でそっとドアーを押し開け、そのまま中に入った。

****

 中に入るとまず、すぐ右手前にあったCASHIERと、それが置かれた木製のカウンターが目に入った。木のカウンター表面の光沢が、天井に吊り下げられた電灯の光を受けて鈍く光っている。カウンター奥には本棚があり、本や書類がまとめられているファイルが並べ置かれていた。左手側の奥には、宿泊客がくつろぐためのソファー、テレビ、テーブル、冷蔵庫などが見え、床には年代ものの、なんだかトルコっぽい感じの赤い絨毯が、黒い木で接ぎ合わせられた床の上に敷かれている。そして、私が想像していた通り、そこに人の気配はなかった。

「チカ?」

 私は少し大きい声を出してチカを呼んだが、返事がない。私はソファやテレビ、テーブルがある左手側のスペースのほうに向けて歩き始めた。

 歩き始めてすぐ、私は天井の電灯とは別の光源があることがわかった。テレビの電源が入っていたのだ。画面には、子供が見るようなアニメが映っていて、バタ臭い動きをする犬のようなキャラクターが森の中を走り回っていたが、消音に設定されていた。それは小さなブラウン管であったので、数家族集まってもゆったりくつろげそうなこの広さの空間には、小さすぎるサイズに思えた。

 テレビのある方向に数歩進むと、入り口からは見えなかった細い灰色の通路が奥に見える。そこからそれぞれの客室につながっているのであろう。しかし、通路の電気がついていなかったので、私に見えるのはここからの明かりが届く範囲だけであった。

「チカ、そこにいるの?」

 もう一度チカの名を呼び、私がさらに奥に進もうとしたその時、私は心臓が止まりそうになった。

****

 私が奥へ踏み込んだ瞬間、通路の明かりがつき、そこに人が現れた。

 …いや、その『人』はもともとそこに、いたのだ。明かりがついたことで私の目の前に、姿を現した。

 私はたじろいだ。その理由は、その人間の足元に、血だまりがあったからだ。両足の太もものあたりから、血が流れていて、着ている服は血まみれになっていて黒々としていた。私の目はその服のあたりに釘付けになった。

「…あなたと、会いたかった」

 少女は私の目に視線を合わせながら、そう言った。そこにいたのは、浅黒い肌をした十歳ぐらいの少女であった。少女は意志の強そうな顔であったが、目尻に生気がなく、非常に顔色が悪かった。私はたどたどしくなりながら、「だいじょうぶなの?」と、どちらが大人なのかわからないような感じであたふたと言葉を発したが、少女は意にも介さない様子だった。

「あなたとは周波数がよく合う。時々点と点が、うまくつながりそうになるの。だから、あなたにしか頼めないことがある」

 少女のゆっくりとした声の調子は、その怪我やグロテスクな服の感じとかの影響を微塵にも感じさせず、そして、私はその少女をどこかで見たことがあった。

「ある男を、エスに連れてきてほしい。この子を奪ったあの男を、エスに」

 その時、ばしん、と何かがはじけるような音が聞こえ、あたりが暗くなった。私はなにがなんだか分からず、自分の周りや天井を見回したが、なにも見えなかった。

 私は、そうしてるうちにすぐ、なんだか『ぼんやり』し始めた。空港で無垢なものが近くにいた時のことを、思い出し、その瞬間、何か『重大なこと』に気がついたが、すぐに『ぼんやり』のせいで、思いつくことが全部、具体的ではなくなっていった。私は、悪いものを吸ってしまったり、酒を飲みすぎてしまった時のように、考えられなくなっている自分に気づいた。

「よく、わからない…」

 私は反射的に喋った。気がつくと、床に膝をついていた。

「このまま、死ぬのか」

 私はぐったりとしてきた。今ここでなにが起こっているのか全くわからなかったし、どうでもいい気持ちになってきた。ただ、死が近くにあるような気がしたのだ。

「『不本意だった』と感じるかもしれない。ただ、完璧な別れというのはどんな人にも起こりえないのよ。でも、あなたは運がいい…」

 私は、少女の声だけが自分の意識の中に入ってきているような、非常に不安定で、主体としての自分がまどろみの中に溶けてしまいつつあるような状況にあった。そして、宿命づけられた何かに突き動かされていくような、強くて尊い意志のようなものが、自分の中に降りていたのだと、気づいた。

「でも、すごくつらい」

 頬から、涙がつたってきたのがわかった。鼻水が出た。とても悲しかったが、それがなぜなのか、なぜそんな言葉が口から出てきたのか、わからなかった。

「ごめんなさい。でも、あなたの一生は、大きな意味を残すことになる…私にも、この子にとっても…。毎日を必死に生きるために、死があるのだから」

 私は声を聞きながら、静かに深い沼の底に落ちていった。

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