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ES ⑦

 私はゲイリーからの着信を取り、声をかけてみたが、返事はなかった。

「ゲイリーじゃないのか」

 返事はなかった。チカは私が電話をしていることに気づくと、ゆっくりとした動作で私の隣に腰掛けた。

「なんとか言ってくれないか。電波が悪いのか」

 私は状況がわからず、うんざりしながら言うと、急にノイズのような音が電話口から聞こえた。びゃー、びゃー、といった大きなノイズが鳴り始めたので、私は電話が切れてしまうのではいか、と危惧した。
その時、ノイズに混じって人の声が聞こえた。そして私はすぐに、聞こえてきたのがゲイリーの声ではないことに気づいた。その声は女の子の声だった。10歳前後ぐらいの声だろうか。

「もうすぐ、エスが起こる」

 少女は少ない語彙で、ゆっくりとした声調であった。淡々とした喋り方であった。

「エス?エスってなんなんだ?」

 私が訊くと、その電話のノイズがまた凄まじくなり、耳元でびゃー、びゃー、と音が鳴り響いた。
 少女は私の質問には答えず、続けた。

「頼みたいことがあるんだけど、彼はもうウィンズローにいないの。それから、しばらくは独りにならないでほしい」

「彼って誰なんだ?ゲイリーのことを言っているのか」

 私はこの一方的な言葉に苛立ちつつ、バカみたいに同じように聞き返した。

 彼女は私の質問は一切無視し、

「それが、あなたのためでもあり、私のためでもあると思う」

と言うと、その電話は切れてしまった。

「電話、誰から?エスって言っていたようだけど」

 チカは眉をひそめながら、私の顔を見ていた。私は独りにならないでほしい、という言葉が気になっていた。

「なんでもないよ。友達から電話があったんだけど、知らない人のいたずらみたいだったんだ。盗まれたのかな」

****

 私たちが空港を出た時、時刻は二十三時に近くなっていた。
 私とチカは、とりあえずチケットの交換は明日することにして、空港からタクシーで二十分ほどのところにあるモーテルに泊まることにした(オンラインで予約ができた)。今日は遅くなったのでひとまず休み、明日になってから帰国のチケットの準備(交換と、振替る日付を決める)を考えることにしたのだ。チカは行動を決めるまでのスピード、頭の回転が非常に早く、モーテルの予約も、明日の段取りもその場ですぐに決めてしまったので、私は彼女の提案に頷くだけであった。私はこの、偶然知り合った経験豊富な旅行者である彼女を、素直に頼もしく思った。

 私は空港の入り口でタクシーを呼び止めた。私は運転手にモーテルの名前を告げると、チカと私のスーツケースを積むためにトランクを開けてもらった。運転手は先に乗っててくれ、と言ったので、私たちは彼に任せて乗車することにした。

 私は先にタクシーに乗り込み、奥に座ると、なんだか頭の中がじーんとする感覚が走った。ラジオのつまみを回し、途中で周波数が変わった時のような気配がし、酩酊状態でベットに横たわった時のような、尋常ならざる感じがした。私は、淡水の中に一滴の絵の具を足した瞬間を見たような、物事がミグレイトしていくような、なんだか気持ちが悪いものを見たような思いがした。

 なぜだかわからないけど、私は急激に不安を感じた。空港から外を出てずっと、遠くから聞こえていた車が走り去る音が聞こえなくなってしまったような気がしたのである。
 その胸騒ぎは一瞬の出来事だった。そして、チカは『まだ』私の隣に、乗り込んで来ていない。私はおもむろに右手のドアを開け、外に飛び出して辺りを見回すと、人は見当たらなかった。タクシーの後部を見るとトランクが開いたままになっており、私のスーツケースは地面に置かれたままだった。私はさっきのいたずら電話のことを思い出し、チカを呼んだが、返事がない。

 私はトランクをのあたりまで数歩、進んだ。やはり運転手はいなくなってしまったようだった。十メートルほど先に見える、空港の入り口のほうを見ると、中に人がいるかどうか判別できる距離ではなかったが、人が消え去っているような予感がした。私は途方にくれ、携帯を出してみたが、電源が切れていた。

****

 その時、車のドアが開く音が聞こえた。運転席ではなく、後部座席の、自分が飛び出したドアの反対側から人が出てきた。

 想像した通り、チカだった。チカは困惑したような表情で、なんでタクシーが出発しないのか、運転手がどこに行ってしまったのかを私に聞いた。私は先ほどチカが視界から消えてしまったような気がしていたが、それは勘違いだったことに気付いた。私は安堵しながら状況を説明し、チカと一緒に空港の入り口まで戻ってみると、私が想像していた通り、ロビーには人がいなくなってしまっていた。

 私たちが空港のロビーからタクシーのところまで戻ると、改めて場の異様さに気付かざるを得ない状況だった。人や、車など動いているものが全くない。あたりは静まりかえっていた。
私は、もしこのまま車をぶっ飛ばして ー 例えば、サンディエゴのシティ・センターまで行った場合 ー どういう『感じ』になってるのか、興味があった。果たして今、この世界には私とチカ以外の人間が存在しているのか。私は知りたかった。

****

 チカはこの異様な状況に対してまだ、そこまで動揺していないように見えたが、私たちはまず『この状況』を考える時間が必要だった。私たちは、この車を運転してモーテルまで移動し、様子を見る、ということで同意した。人が消え去ってもう三十分は経っているので、私とチカは、車を勝手に運転しても不可抗力というものである、と考えることにした。盗むわけではない。借りるだけなのだ。

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