見出し画像

ES ⑤

 機体が上昇し、安定した頃。ふと窓を眺めてみると、外はもう暗くなってしまっていた。はるか上空から見下ろすアメリカを見て ー 少なくともしばらくは見納めになるのだから ー 何かしら感動してみたい気がしたが、見えるものは全て暗かったので、よく分からなかった。街の光が遠くに見えて、なんだか外は寒そうに思えた。サンディエゴから福岡まで、十時間と十五分、私はまた、帰国までにより充実した感じで、健全な気晴らしができないものか、と考えていた。

 その後しばらくして、機内食はまだ先なのだろうが、飲み物と小さなスナック菓子が出された。飲み物は選べたので、私はCAには白ワインを頼み、飲んだ。搭乗前の酔いはすっかり醒めてしまってたので、こういうちょっとしたアルコールが嬉しかった。いかにも機内で供されるような安っぽい味だったが、機内で飲むアルコールはだいたい地上の1.3倍ぐらいの美味しさに感じるものなので、問題なかった。

 私はワインを飲み、電子書籍からまた本を探そうとしていたが、WiFiが飛んでいないことに気づいた。いや、飛んではいるが、有料らしい。私は結局それを使わず、手持ち無沙汰になった。私は手荷物のポーチから、アメリカでジャケ買いをしたペーパーバックの小説を取り出したが、内容が難しかったのですぐに読むのをやめた。

******

 私を軽い尿意を感じ、ハッと目が覚めた。どうやら少しの間、眠ってしまっていたようだった。私は飛行機のゴオー、というひくい飛行音を聴きながら、指で目を撫でこすった。二度寝したい気持ちはなく、はっきりと覚醒してしまったので、私はひとまずトイレに行くことにした。
貴重品を入れたポーチを抱え、隣の席に座る白人のおっさんになるだけ触れないように横切り、トイレに向かった。出発して少し時間が経っていたので、機内は眠っている人も増えているようで、静かかつ平和な感じであった。私は通路を抜け、せまいトイレのドアを開け中に入った。

 私がトイレに入りドアを閉めると、トイレはかなり窮屈であった。飛行機のゴオーという音が、さっきまでより大きく鳴っている。私はまだ少しまどろんでいた。そのまま用を足し、流すと、トイレは『ぐごごごっ』と、少しでかい音をたてた。私は軽く顔を洗いたかったので、ポーチからハンカチを取り出し、ちいさな洗面台についていた水のボタンを押した。飛行機のトイレなので出が悪い。私は、洗いたかった顔のいくつかの部分を中心に、できる限り入念に洗い流し、ハンカチで顔を拭き上げた。最後にうがいをすると、飛行機のゴオーという音が、さっきまでより更にひくく鳴り響いているように感じた。

 私がスッキリした心地でトイレのドアを開け通路に出ると、私は何か違和感のようなものを感じた。まだ、私の耳元では飛行機のゴオーという音が、ひくく鳴り響いている。私はせまいシートの隙間をゆっくりと歩き、自分の席に座った。席に、腰掛ける。さっきまでいた、隣の男はいなくなっていた。私はなんとなくタブレットを取り出してみると、電源が切れていた。私はシートの網のところに引っ掛けていた、ペーパーバックを探そうとしたが、見当たらない。

 窓の外を眺めると、外はもう、漆黒の闇であった。私は何をしようか、と薄ぼんやりした頭で考えながら、窓の反対側 ー 私から見て右方向 ー を眺めて、さっきから感じていた違和感の正体に気づいた。私は立ち上がり、突っ立ったまま、自分のシート列を、見える限り『先の先』ぐらいまで見た。目の前には空席が並んでいる。そして、あたりを見回した時、さっきまでいた全ての人々が、消え去ってしまっていることが、わかった。

 私は一分ほど、その場に立ちすくんだ。私は冷静に、そろりと通路を歩き始め、自分の席 ー 全体の中央に位置しているあたり ー から、一番前のあたりまで歩いてみた。どこを見回しても、搭乗客はおろかCAも見当たらない。私は一番前の席にたどり着くと、また立ちすくんでしまった。

 突発的に、あのお、誰かいませんかあ、と少し大きい声を出した。声を出した時、自分の声が思いがけず少し震えていたので、なんだか情けない気持ちになった。そして、私の問いかけに一切の返事はなく、私はまいったな…と、独り呟いた。私はとりあえず自分の席の方に戻り、置いてきたポーチを取りつつ、そのまま機体後部のあたりも見回ってみよう、と考えた。私は歩きながら自分の足が震えていることに気がついた。

 私が歩い始めたその時、耳元でどおーんと、何か大きな音が聴こえ、私は地面に突っ伏した。私はすぐに足元から何か『角度が変わった』ような心地がしたが、私は上から押さえつけられているような感じで、立ち上がれなかった。
この飛行機は今墜落しているのではないか。そして、今誰がこの飛行機を操縦しているのだろうか…と、混乱の中、いくつかの疑問が頭の中を巡る。私はいよいよ冷静ではいられなくなり、なんとか立ち上がって、座席にセットされている救命具 ー 使い方など、全く覚えていないのだが ー を準備しようと思ったが、上からかかる強い圧のせいで、結局動けなかった。
 そうこうしているうちに、またどおーんと大きい音が聴こえ、なんだか強風のような、びゃー、びゃー、といった感じの轟音が鳴り響いた。耳をつんざく、とはまさにこのことで、その音は私を精神的にかなり追い込み、私はもはや何も考えることができなくなった。その時、急激に地面の角度が変わり始めたようで、私は這いつくばっていた通路を流れるように滑り落ち始めていた。

 私は座席や通路に転がっていたものにぶつかりながら、シートをどんどん滑り落ちていった。私は体も気持ちもぼろぼろになっていたが、こなくそ、と右手をがむしゃらに伸ばし、何とかシートの足のような部分を掴むことで、滑り落ちる自分を止めることができた。私は通路とシートの隙間のあたりに挟まる体勢になりながら、外はどうなってるんだ、と思いながら、その場でしばらく動けなくなった。そこに止まるまでに色々とぶつかってしまったようで、右手とみぞおちのあたりがひどく痛み始めた。

 私は痛みで混乱しきった意識の中、眼前に見えるシートの救命具を利用できないかと思い、シートのあたりを左手でまさぐった。手が、柔らかいものに触れる。そしてすぐにそれが、その場にあるはずがないものであることに、気がついた。それは、少女の腕であった。よく見ると、そのシートには少女が、座っているのだ。私の体勢から察するに、今この機体はかなり傾斜しているはずだが、その少女は ー そこだけ何も起こっていないかのように ー で、独りぽつんと、座っている。

 私は思わず少女に、何が見える、何が起こっているんだ、と日本語で叫んだ。すると、少女はゆっくりと首を動かし、私を見た。

 少女は無表情で、エス…と呟いた。私は意味がわからなかった。その時、大きな衝撃が直撃し、ずおおーんと崩れるような音が聴こえた。私は掴んでいた右手の感覚がなくなり、そのまま座席を滑り落ちていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?