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バスター(Chapter2-Section4)

 ユダヤ人に「何をしに、日本に来たの?」と尋ねると、除隊後に親から「世界を知れ」と背中を押され、日本にやってきたという。
 歳もさほど変わらない同世代。こういった考えが、彼らを経済的に強くするのかと感銘を受けました。

 今は「クール・ジャパン」ですが、当時の日本はハイテクで有名で、そんな国を人目見ようと多くの外国人が来日しました。
 タイは航空券が安く買えたので中継地点として機能し、日本は旅費を稼げる場所としてバックパッカーに人気があったようです。
 
 2007年、市橋容疑者による英国人女性殺害事件をきかっけに、入国管理法が厳格化。この事件は千葉県市川市の行徳で起こりましたが、当時の行徳は外国人向けのシェアハウスが多く、ボクもそこでユダヤ人たちと共同生活をしていた。
 
 当時、入管法も緩くて観光ビザで働く外国人が多くいた。
 知り合ったオーストラリア人は「駅前留学」で名を馳せたNOVAの講師をしていたが、「観光ビザ」しか持っていなかった。
 「興行ビザ」では、大勢のフィリピン人女性がやってきてパブで働いた。 
 「不法入国」では、主に中国人がコンテナで密航を試みて命を落とす人が後をたたなかった。国際的密航請負組織「蛇頭」は、密航斡旋ブローカーとして日本のマスコミも取り上げた。ほんの30年前の話です。
 
 当時は「強い円」。不法入国者がコンテナで絶命する度に、富はそれほど魅力的に映るものかと考えさせられた。
 江戸時代末期から昭和初期にかけて、日本人女性の人身売買は「唐行きさん」と知られています。いつの世も貧富の格差は存在し、まるで「ゼロサムゲーム」のようです。

 バックパッカーで水商売する女性もいれば、シルバーアクセサリーの露店をやる人もいて、ユダヤ人はそれを「バスター」と呼んでいた。
 3尺×6尺(910mm×1820mm)のベニヤ板を半分に切って2枚にし、映えるように黒の生地を貼り1枚ごとに枠を作って厚みをもたせ、丁番を取り付け開閉式にしていた。
 アウトドアで使うアルミの脚にそれを乗せるとボードを開き、リングケースを6つほど並べて重量を与えて倒れないようにした。空いたスペースにピアスの入った小ケース。リングゲージ、修理道具を設置。
 背面のボードにはネックレスを陳列。予備のペンダント・トップやチェーンも用意されていた。よく練られた簡易式の露店で、初めてみた時はその出来に感心した。
 
 ある日、「入国管理局が見回りに来るから、2週間ほど手伝ってくれないか?」と声がかかった。「君は日本人だから捕まらないだろう?」の主張に「テキ屋が元締めじゃないの?」と聞き返すと、「ユダヤ人がボス。商売出来ないから困る」との事。
 そんな事情があるならと、プータロー(昔は無職をこう呼んだ)だったので快諾するも、なんで入国管理局の情報が事前に知り得るのか不思議に思った。

 アルタから歌舞伎町一番街をつなぐ通りに2つの売り場があり、その周辺にも3つあるとの説明を受けた。
 運搬車両に露天セットと発電機、リングが入った衣装ケースを乗せて、売り子とは各出店場所で待ち合わせる。
 ボスの手下が台車で荷物を運び、売り子と開店準備を終わらせると、次に移動する。店じまいには、それを回収に来ていた。

 開閉式、ただのボード、開閉式。全長3メートルを露店セットにし、発電機で照明をつけると指輪がキラキラを輝いた。良い演出である。
 中央ボードの背後に衣装ケースを置き、イスの役目も果たした。客がいないと座って休憩。左右をキョロキョロ確認して、人の流れを発見するとセールスを開始。
 メモ用紙に何を幾らで売ったかの記録をとり、その日の売上を渡すと売り子には40%の歩合が入る。
 行徳のゲストハウスで一緒だった背の低い女性とトム・クルーズ似の男性が歌舞伎町一番街の2つの売り場を任されていた。
 
 ボクは双方を行き来して、どんな風に販売しているかを見学させてもらった。指輪はシルバー925。まがい物ではない。
 冷やかす客もいたが、若者やカップル、酔っぱらい客なんかは足を止めて指輪を見ていた。値札はついていない。
 好きにはめてみてとジェスチャーすると、思い思いの指輪をはめる。
 「これ幾ら?」の返事に「1万円」と返ってくると、想定外だったのか慌ててそれを外して逃げ去る客もいた。
 語学力のなさで断り方がわからず、渋々代金を支払う客もいた。この語学力のない客が売上の大半を占めていた。「NO」と言えないのである。

 「もう少し安くならない?ディスカウント!」と値段交渉する客もいた。「タカイ?タカイ?」とアクセントの悪い日本語で返すと、少し思案して「OK。9000円」。「もう少し、ディスカウント!」と言われると「スコシ?スコシ?」とアクセントの悪い日本語で「8000円」と交渉して販売していた。片言の日本語で売れるのだから、こちら側も大したもの。

 客は、指輪を通して外国人との会話を楽しみ、彼らも無理強いはせず日本人と会話を楽しんでいた。
 
 ネックレスは4000円程度。ピアスは1000円程度で販売していたが指輪が収入源。夕方6時から夜11時半。仕事終わりから、終電がなくなる時間帯を営業時間にしていた。
 女性に売上を聞くと「5万円」。男性側も聞くと「5万円」と言う。40%が取り分だから、5時間労働で2万円の日当を稼いだ計算になる。
 なんじゃそりゃ。

 「たまたま?」と尋ねると、平均して1日2万円。月40万~50万になるという。
 なんじゃそりゃ。

 観光ビザで3ヶ月ほど滞在できる。滞在期間中に、120万ほど稼げる計算になる。
 当時、日本は旅費を稼げる国としてバックパッカーに人気でしたが、それも頷けます。
 引越し屋のバイトなんて、バリバリの肉体労働で日当8000円稼げたら御の字。露店の方が割いいって、面白い商売もあるものだ。

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