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退職して気づく「休み方の忘却」

朝はいつもしない早起きをして、近所の喫茶店にモーニングを食べに行く。
ヘッダーはそこでのピザトーストとコーヒー。ここのコーヒーは本当に全体のバランスが取れていて美味。

4年半、あーだこーだとぐちぐち文句を言いながらも学ぶことの多かった会社を今年辞める。最終出社日は昨日。
「なんもわからん問題」シリーズはこの会社との向き合い方を悩む中で生み出された。

データサイエンスが主事業ではない会社で、データサイエンスを軸に仕事を進めることは、そのキャリアの本流からは外れるし、データサイエンティストとして成功しようと思えばもっと早い段階で転職をしても良かったのだと思う。でも僕はそうしなかったし、後輩を見送って1年弱を経て、ようやく「ここでやれることは大体やったなあ」と思うことが増えたので、次に行こうと思う。
この記事はいわゆる「退職エントリ」ではあるのだが、多分誰の参考にもならないと思う。有名企業で価値を出したわけでも、大企業の安定性を捨てて出ていくわけでもないし、(まだ)有名でない会社に行くので。

コネクションか、事業戦略か

大体5年前に就活した。大企業からはことごとく祈られたが、
運良く2社から内定をもらった。どちらも中小企業。当時の傲慢な自分は大企業で早くから実力を評価されるはずと信じて疑わなかったのでどちらを選ぶのも嫌だった程には大手病だった。今でも「大手企業でバリバリキャリアを高める自分」に憧れがないわけではないが、僕は多分どちらかと言えば大企業で働くことに向いていないんだな、とも思いつつある。
結局決め手は視座だった。内定後の面談では社長と話すのはあるあるだと思うが、一方は「自分の友達がどれだけすごい人か」を語り、もう一方は「この会社を市場の中にどう位置づけ、どう戦うか」を語った。事業規模、待遇、全てにおいて「どちらでも良い」感じだった2社の内定のうち、この理由で後者を選んだ。前者については「だからなんなのだろう」という気持ちしか沸かなかったので……

1年目の不満

あらかじめ断っておくが、働く社員は良い人が多かった。知る限り、体験する限り、ハラスメントがあったという話はほとんど聞かなかったし、性別が理由になる場面もあまりなく、様々の事情からくる時短勤務などの配慮は一通り揃っていて、使っている社員が多かった。働き方改革が進む時代に入ったので、そういう整備が先行していたのかもしれないが、僕も残業時間の累計はとりわけ短かった。2020年からのリモートワークも、初動は遅れたものの順応し、今でも出社率は平均2~3割だと思う。とても働きやすい会社だと思っているし、その点を重視する人であれば、選択肢に選んで良いと思う。
入社してすぐに不満に思ったのは待遇と非効率に見える業務と強い停滞感だった。非効率な業務を研修として教わるのは苦痛だったし、自分の持っている専門性が安く買われていることは不満だったし、何より「今のままで仕事を進めれば良い、変化しなくてもいい、経営陣の指示をそのまま聞き入れれば良い」という停滞感、野心の無さが我慢できなかった。
結果的に転職活動を行った。2社から内定をもらった。転職活動中に「今いる会社を変えるような努力も価値になる」と言われたり、当時の遺留交渉で本部長から「確かに今のところ技術面で優位性ないけど、技術的な要請が高まっている過程でゼロから積み上げる意義はあると思う」というような話も受け、2社の年収以上の給与を条件に遺留した。
当時の転職エージェントから「そんなぬるま湯でキャリアが積めると思うな」とか「内定先も別にあなたを高く評価しているわけではないのにオファー交渉とはけしからん」などと言われてエージェントに対して不信感を持っったことは今でも忘れていない。

2年目の戦争

技術的な要請が高まっても、自分以上に詳しい人がほとんどいない中、
かなり無理に色々なチャレンジをしたように思う。
Linuxをほとんど触ったことがなく、クラウドもままならなかった頃にAWSでインスタンスを立ち上げてRstudio serverのセットアップをするような業務をして、全くわからなかった事もあったし、書き捨てのスクリプトを書くような設計でデータ集計の定型案件をやって大事故を起こしたこともあった。
そもそもコードがエラーなく実行できれば計算結果も信頼できると信じていたことも、今思えば愚かで危険な思想だった。あまりにも技術について無知すぎたなと思った。
このあたりで、過去に「Linuxを覚えるなら家からWindowsを消すしかない」と言われたことを思い出し、自分の家にある個人PCからはことごとくWindowsを消し去った。流石にGentoo Linuxは辛すぎたので横着してUbuntuを入れ、一部GUIのカバーを受けながらシェルスクリプトを書く習慣づけをしたり、日本語入力環境の導入に苦心したり、Pythonを全部消してUbuntu環境をぶっ壊した。
同時に、Windows中心で動いている社会から排除される不便を体感しながら必死に技術に触れ続けたと思う。何も分からなかったし、今でも何もわからないが、それでも「手が出せない」ということはなくなった。
「そうするしかない」という環境に身を置くことで少しずつ慣れて、今まで納品物のフォーマットが自由だった部分にもルールを導入して、プログラムとコマンドを使って正確な計算を実施する事ができるようになってきたのは良かった。今でもこの設計がどれだけまともなのかはわからないし、改善の余地しかないと思っているが、初めて「この会社前例のないことを形にした」という実感を持ってやり遂げられたように思う。
「統計学」の専門性を意識するようになったのもこの辺りだったように思う。もともと統計モデリングが面白くて、そういう仕事をできる会社を探していたということもあったのだが、統計モデリングが使える場面はあんまりなかった。
技術について学びながら気づいたことは「無ければ作る」だった。それまでは会社のフォーマット通りの集計仕様を出せるプログラムを作ったり、ちょっとした初期設定を一気にやるようなプログラムを作ったりすることだったが、これが「仕事でも同じではないか?」とも思った。
受託事業であることから仕事は選べない。その代わり自分でできることを増やすために業務時間の一部を勉強や独自の調べ物などに割くようにした。
また、社内の超基本的な統計学の勉強会にも顔を出した。基本的だったのでいつの間にか教師役になってしまったが、これ以降、社内の分析上の相談ごとが僕に飛んでくるようになった。案件の相談も増え、そのうちの1つにはちょうど独自で調べていたことがそのまま使えそうだったので、実装して成果を出した。この案件、そのままクライアントの信頼を勝ち取って今でも取引が続いていると聞き、なるほどこれが「やりがい」かあと思った。

3年目の課題

3年目に入ると、コロナ禍で在宅勤務が始まった。
会社のネットワークサーバは在宅勤務に対応できる強さはなく、システム部門の苦労は計り知れなかったと思う。
それまで会社のメインコミュニケーションはメールだった。部署内でもメールでのやりとりで、誰がなんの仕事をしているか一切分からなかった。
2年目の後半あたりで、部内でTeamsを使うように啓蒙してみたが、あまり使われなかった。半年ほど粘って、ようやく業務の共有やクライアント動向についての情報共有目的で使われるようになった。
コロナ禍に入り、コミュニケーション手段が限られることで、社内でTeamsの活用需要が拡大した。部内で先行してTeamsを運用していたので、他部門でもノウハウを共有したところ、業務が円滑に進むようになったらしい。
なるほど、統計学の専門性以外でも会社に貢献できることもあるのだなと思った。
そこから、特に相談を多く受ける部門とのホットライン的なTeamsを立ち上げたり、全社員参加のTeamsでの発信なども行うようにした。
コロナ禍のお陰で社内の停滞感が少し薄らいだように思う。事業体の変革を求められるようになったことも後押しして、これまでの会社にあった課題に向き合う機会が少しずつ増えてきた。生産性が上がらなかったり、社員の育成が遅れていたりという、重大だが解決の難しい問題について考える機会が増えた。
3年目には後輩もできた。Rが使える人材が増えることで部内の生産性が高まったのは間違いない。優秀な後輩だったし、自分が合理的と思ったこともそうでもなかったという気付きがあるなどして、マネジメントというのも悪くないのかもなと思った。

4年目の停滞

社内の課題に向き合う機会は、まず課題の整理や解決策の試験的実行など、
プログラミングではなく普通のディスカッションだった。
経営陣と他部門の社員を交えた議論の機会が何度かあったが、驚いたのは自分より熱量を持って社内の課題に向き合おうとする社員が少なかったことがある。誰もが今自分に課されていた業務を処理することで手一杯で、社内の課題解決の優先度が低い状態が慢性化していた。
経営陣もこれは課題に思われたようで、管理職中心に研修を通して課題解決への協力を要請した。
ちょうどその年の末に後輩がメガベンチャーに引き抜かれた。使いこなせなかった自分の力不足もあったなあと思うし、後輩のポテンシャルを考えれば当然だった。だって当時の僕の年収を超える金額出されてたし。やりがい以外では遺留できないよな。
ということで採用活動にも参与した。専門性のある人材は競争率が高いので、採用まで3ヶ月程度かかると見込んで、人材要件と部署説明資料、社内・部内の課題ややりがいについて明文化して、面接した人には必ず提示した。結果1ヶ月でちょうどよい人材を確保できた。
後輩の退職に立ち会った教訓から、育成計画とアサインプランを徹底して計画した。結果的に若干早いスピードでプランが進んでいるが、実際ほぼプラン通りにキャリア開発を進められている。
同時に社内での継続した能力開発を行うための課題整理などを行っていたわけだが、あまりにも根深く深刻な問題が山ほど出てきた。役員にぶん投げたが、受け止めてくれて、事業計画に組み込まれることになった様子。
事業へのコミットメントについては大きく減った。Rを書く機会も減ったし、基本は統計学を実務上に応用するときの制約と打開策についての相談に打ち返すのが基本だった。自分で勉強・探索する技術の適用余地については、ソレを「売り物」に昇華するための要件がシビアになり始め、現場への貢献から距離が生まれるようになってしまった。
少しずつ、自分の興味関心と、現場で求められる技術水準との間にギャップを感じるようになった。僕なりになんとかそのギャップを消化しようとも試みたし、実際多少は埋められたけど、結局多少のくすぶりは見て見ぬふりをしていた。
周りはKaggle Masterになっていたり、役員になっていたり、Big Techに勤めていたりと、大きく成長をしている。自分はどうか?と思うたびに「ここで働き続ける選択は良くなかったのか」と悩むこともあった。
でも部下の育成プランや社内の採用計画、部署役割の再構築について脳汁垂らして考えること自体は面白かったので、なんだかんだ続けていたというところはある。それらも少しずつ「なんか自分の答えを示したな」となり、退屈な毎日が続くようになった気がする。

5年目の退職

4月に自分が選んだ部下を迎え、研修を監督しながら部署の運営方針を考えていた。既存社員の専門性の強化など、最近流行りで合理的な要素についての検討がやっと俎上に上がる。部下ができたことで、このあたりのマンパワーが高まり、プロジェクトとして進める事ができるようになった。
一方でクライアントワークは、技術的に刺激のある内容は殆どなかった。1つ、発想の転換で工程をいくつか省略できる実装ができた事があったが、自分にとっては取るに足らないことでもあったので、結局面白さに欠けた。
そんな中でも新卒の採用活動を進めた。自分なりに現職ではやるべきことはあるはずだと思っていたので、それを候補者に伝えた。どういうふうに写ったか、僕をロールモデルにしたいと言ってくれた人が、来年4月にやってくる。でもその頃僕はいない。

今年の夏を迎えたあたりから、「ああ、僕の仕事はここにはもう生まれないな」という感覚で仕事をする日が増えた。
社会を変えるような取り組みを実感したわけでも、大企業での経営方針を転換したわけでもない。小さな会社の小さな慣習を塗り替えたり、小さな会社にいる人の誰も出来ないことを、少し努力して成し遂げたりして、それでも満足してしまっていた。
会社の停滞感もなくなり、一定数の社員が社内の課題に向き合う努力をし始め、改善余地のある活動が1つずつ、自分のコントロールしていないところで勝手に始まるようになった。
多分、僕の仕事はこれだったのだと思う。停滞感に反骨して、社内の課題を勝手に取り上げては解決方法を提示してゴリ押し、改善余地のある活動でも勝手に自分の考える合理性を信じて取り組む……。会社にないことをかってに取り組むことが面白さだったんだなと思う。
これが僕抜きで動くなら、そりゃ確かにやることないわ。暇だ。
いい区切りだな、と思った。

秋ごろから転職活動を進めて、2社から内定を得た。エージェントは使ったが、結局自分で応募した会社から内定を得た。エージェントとは相性が悪いのかもしれない。
どちらも設立まもなく、技術レベルでは今より上だ。停滞感はないが何が正しいかを模索しながら仕事を進めるのだと思う。そういうところは面白そうだと思っているので、向いていると思う。業務内容もオファー金額も大体同じだったので、どちらを選ぶか、人生で一番迷ったかもしれない。
結局選んだ先が、どれだけ正しいのか、今は全くわからない。

結局会社・社員に何を残せたのか

そうして昨日、最後の出社をしてきた。
今は電子寄せ書きというのがあるらしく、餞別にとそれをもらった。
専門性はもちろん(これは僕が会社にいる意味そのものだったし)、「視座の高さ」「仕事の向き合い方」……それぞれに影響を与えていた様子である。「寄せ書きに書けなかった」と、個別にメッセージをくれた人もいた。関わりのない人も何かしらメッセージを寄せてくれていた。

別に視座は高くないし、僕は当然このように仕事に向き合うべきだと思っているので、仕事の向き合い方なんか誇る気もない。
「理想論しか言わないだけのめんどくさい奴」の裏返しだ、とか斜に構えた解釈をしようとする自分がいるのも確かだ。実際僕は僕をそう思う。
でも4年半を経て「あからさまな世辞でも褒め言葉は言葉通りに受け取っても損はない」という方に意識が変わっている。ぶぶ漬けを勧められるようなことがなければ、基本的に。

年1の転職活動

実のところ、1年めから5年目まで、必ず年に1回は転職活動らしいことはやっていた。単純に市場価値の確認だったり、自分がやっていることがどの程度評価されるのかを確認するためだった。カジュアル面談を実施する会社も多くなり、本当に雑談やキャリアについての議論をした。
興味を持っていただいた企業は本当に良い会社ばかりだった。
1社1社名前を挙げたいし、みんなにも知ってほしいと思っている。
でも名指しして炎上したら悪いので、差し控えることにする。
Twitterのフォロワーになった方もいれば、大企業で、僕がやっていたことを大規模に進める信念と力のある方にも声をかけていただいた。古巣の研究領域に縁のある方とも議論できたし、教育という観点で強い理念を持って向き合っている人もいた。
応募しすぎると心をも壊し、不健康な状態で向き合うことこそ失礼なので、すべての企業にお声がけできなかったことはご容赦頂きたい。多くの話を受けることが出来たこと、僕に時間を割くだけの価値を見出していただいたことに心から感謝している。それに見合うだけの時間を一緒に過ごせたと感じていただけるのであれば何よりだ。
もちろん、これからもう30年は働く可能性があるので、ご縁がこれっきりということは全く考えていない。転職は運とタイミングの要素が大きいので、
いつかお世話になる会社も絶対あると思う。一緒に働きたいと思える人がこれだけいる市場なら、30年食いっぱぐれずに済むと思う。この期待を裏切らないように頑張るつもりだ。

技術・知識以外での貢献

正直1年目の転職をしていても、今みたいなものの見方は養うことが出来なかったのだと思う。
技術は培われたのかもしれないが、自分の成長しか興味を持たず、後進の育成や、別部門の社員のリスキリング、採用、新規事業開発……主事業に閉じないところに首を突っ込んで、自分で考えて自分で仕事を作り仕事を動かす経験は、停滞して、課題が多くある会社だからこそ積み上げられたと思う。
悔しいことに、3年前の上司が言っていたことは正しかったことになる。まあ今役員を担う上司だし、多分上司もこれの面白さを知っているんだろうなと思った。
専門性だけでなく、仕事への向き合い方を同僚は見ているのだと感じたのは本当に最近だった。やっているふりや言葉選びだけは一丁前なので、そのような錯覚を与えていたとも思うが、経歴に嘘はつけない。次の職場でも真面目に仕事に取り組もうと思う。心を壊さない程度に。

さいごに

ここまで大体6,800字。読み疲れた人は以下は読まなくても良い。
基本的にnoteは無料で読めるし、支援も求めてはいない。
それでも、読んで何かためになった、何らかの対価を払いたいと思う方がいたらそれなりに嬉しいとは思う。そして、お金より罪悪感なく受け取れるのは、モノそのものだ。

  • ちょうど洗顔フォームが切れている。あとオートミールも在庫がない。困っています。

  • オススメのボードゲーム(2人から遊べるといい)とかあれば教えて欲しい。妻と遊びます。

  • 「お前インターネットの友達に¥30,000のBluetoothヘッドホンねだるんじゃねえよ」って思う方、ご安心ください。ほしいものリストジョークなので。

    • でもたまに金銭感覚がバグってる人がマジで送ってきてマジでビビる事がある。ありがとう。他に使う金は残っているかな?

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